51.5話 前編 優しい思い出
「はあっ」
苦しい。素振りを始めてどれくらい時間が経っただろうか。私は額の汗をぬぐい遠目に設置されている時計に目をやる。……思っていたよりも時間は流れていなかった。
一度休憩しようか、と考えるがあの子はこの倍の時間練習していてもけろっとした顔をしていたのを思い出し、苦い気持ちになった。
『あいつ、普段お高く留まってるくせに二組だぜ? いつも一緒にいる二人にまんまと置いて行かれたな』
教室でそんな話を耳にして居ても立ってもいられなくなり、演習場まで逃げてきた。
私だけ、クラスが分かれてしまった。座学の成績が良くとも剣術は言うまでもなく二人に大きく差を付けられている。入学当初は実技も自信があったというのに気が付いた時には大勢の生徒に肩を並べられ、そして抜かされていった。
悔しい。一体私は何をしているのだろう。あの男に二組落ちの知らせが届いてしまったら即刻イギリスへ帰されてしまうかもしれないのに。
あの国に帰りたくない。その為にここまで来たのに。
父と母は政略結婚だった。ブラッドレイの持ち会社と連携を取っていた日本の企業の令嬢との結婚。しかし父にはその時すでに想い人がおり、結婚した後も母を愛することはなかった。
ただ家の義務だけを果たすばかりで家庭を放棄した父。そんな父に母も愛想を尽かし、妹を妊娠したのをきっかけにせめてその間だけでも、と日本の実家へ逃げてきた。
祖母は悪阻が激しい母に付きっきりになり、私は一人で過ごすことが多くなる。そんな時だった、ひーちゃんに出会ったのは。
幽霊だもんなんて言い聞かせて、本当に幽霊だったら救われたのにと何度も思った。でもひーちゃんと友達になって、彼女に引っ張られるようにして他の友達も出来て、ようやく幽霊じゃなくてよかったと感じたのだ。
イギリスに帰ってからも、ひーちゃんに貰ったミサンガだけが心の支えだった。父はますます家に寄りつかなくなり、母は妹にばかり構うようになる。私は父に似ていたから母にとっては見たくない顔だったのかもしれない。
そんな環境の中で、私は一つの決意を固めた。
必ず、もう一度日本へ行くのだと。あの優しい時間を取り戻すのだと。
子供である私が来日する為には留学しか方法がなかった。珍しく家に帰っていた父にそう告げると、留学を許す代わりに条件を突きつけてきたのだ。
「騎士科へ入り、ブラッドレイの名に恥じない成績を残すこと」
ブラッドレイ家は騎士の系譜だ。以前は国の中でも屈指の名家だったのだが、現在は徐々にその地位は落ちてきている。日本で最も有名とも言われる学校で好成績を残せば、確かに周囲の評価も上がるだろう。
けれど私は今まで剣を握ったことすらなかったのだ。運動はどちらかと言えば苦手で、走り回るよりも家で本を読んでいることの方が好きだった。
次の日から死にもの狂いで特訓が開始された。半端な実力では王立学園の試験など受かるはずもなく、来る日も来る日も苦しくて泣かない日はなかった。だがそれを耐えてでも私はどうしても日本に戻りたかった。どうしてももう一度あの子に会いたかったのだ。
奇跡的に試験に受かり、そしてそれ以上の奇跡でひーちゃんと再会を果たした。
父の言葉に焦り、ブラッドレイの名を上げようと短絡的に挑んだ決闘。けれどそのおかげでひーちゃんを見つけることができた。
ひーちゃんは、強かった。限界まで努力を重ねて入学試験に合格したのに、彼女はそれを軽々と飛び越えていく。そして同じように昴も、学年が上がるごとにめきめきと実力を伸ばして行ってしまう。
そうして私はひとり、置いて行かれてしまったのだ。
悔しくて、そして何よりそんな自分が惨めだった。
演習場を出て、私はふと辺りを見回してしまう。ついこの間、ここでひーちゃんに遭遇したのだ。嬉しそうにこちらへやってきた彼女に、私はどうすればいいのか分からずに逃げてしまった。今もう一度出会っても、同じようにどんな感情をぶつけてしまうか分からないので彼女がいないことを注意深く確認する。
すると、ひーちゃんの姿はなかったものの、代わりに見知った別の人間がこちらに向かって歩いてきたところだった。彼もこちらに気が付いたのか、空いていた方の手を上げる。
「大吾郎」
「ミネルバ、奇遇だな」
三年になってからは初めてか? と言いながら彼は上げた手とは逆の手に抱えていた新聞紙に包まれた花束を抱え直す。私が無意識に覗き込むと、彼は私がよく見えるようにこちらに傾けてくれた。薄いピンク色をした、変わった形の花びらだ。
「これは……何という花ですの?」
「スイートピーだよ。魔力を肥料代わりにして育ててるんだが、綺麗に咲いただろ」
「ええ……」
蝶々のような花びらが可愛らしい花だ。名前は聞いたことがあったが、今まで花に興味を持ったことなどなかったので見たことがなかった。いや、ちょっと違う。興味がなかった訳ではない。ただ家族や受験勉強に押しつぶされそうになっていた私には花を見て楽しむ精神的余裕などなかったのだ。
そこまでして頑張ってこの学園に入学したというのに。現状の有様を思い出して私は小さく息を吐く。
「今日は何か元気ないな。何かあったのか?」
さりげなく言われた言葉に、私は図星を突かれて思い切り固まってしまった。何度か一緒に合同授業を受けているので知ってはいたが、この男は妙に察しがいいのだ。
「そんなことは……」
「体調でも悪いのか? ミネルバが元気ないと、ひなたや昴も心配するぞ」
「……心配、するでしょうか」
私は大吾郎に聞こえないくらいの小さな声でそう呟く。
ひーちゃんも昴も、本当は私のことを邪魔だと思っているのかもしれない。
三年に上がる前、昴が怪我をして入院したことがあった。確かな情報は伝わってはこなかったが、噂では学園に侵入した何者かが昴を襲ったのだという話もあったのだ。どこまで真実かは分からないが、ちょうど同時期にひーちゃんも肩に包帯を巻いており彼女は事情を把握しているようだった。
だが、結局二人は私には何も告げることはなかった。退院した昴に話を聞いても「ちょっと階段から落ちて」とそれだけ言って言葉を濁した。
彼が嘘を吐いているのはすぐに分かった。分かったからこそ、嘘を吐かなければならない理由――それだけ厄介な何かに巻き込まれているのだと悟る。
もし噂が真実だとして、そんな大変なことになっていながら私には何も言ってくれないのは、私が頼るに値しない程弱いからだろうか。二人は優しいから私を巻き込まないよう口にしないだけかもしれないけれど、私がもっと強かったら、二人に並び立つほどの実力があれば私にも相談してくれたのか。
結局は何もかも予想でしかない。昴の事情も彼らの想いも何もかも分からないままだ。聞けば答えてくれるかもしれない。けれどもしきっぱりと拒絶されたら、そう思うと何も言うことが出来なかった。
そうしているうちにクラスが分かれ、ますます彼らと離れてしまっていたのだ。
「ミネルバ、今から時間あるか?」
「え、ええ」
「立ち話も何だし、少し俺に付き合ってくれよ」
俯いたままの私に何を思ったのか、大吾郎は明るく笑って私を誘い出した。
藤原君はお助けキャラです。
 




