40話 呼び名
今日は久しぶりに陣君の家へ遊びに行く予定である。というのも、今日は短縮授業で半日しか学校がなかったため時間が出来たからだ。
陣君は少し先生に呼ばれていて遅くなるというし、一般教養の授業で共通の課題も出たので、図書館で待ち合わせて一緒に課題を終わらせてから不知火の家に寄る予定である。
持ってきたお弁当を食べてから図書館に向かい、私はよし、と気合を入れて課題に取り組む。今日はもう授業はないし、何より明日は休みなので図書館を利用している人はいつもよりも少ない。
しかし何故か、私の隣の席は埋まっているのだった。
「あのさお兄ちゃん、ここの資料ってまとめにいると思う?」
「どれだ? ……そうだな。考察に組み込むと上手く纏まるんじゃないか」
そう、司お兄ちゃんである。
私が図書館に行く時間が重なっているのかもしれないが、よく司お兄ちゃんとはここで会っている。そしてその度に何かとお世話になってしまっていた。
今日も後で家に遊びに行くと言うと「ゆっくりしていけ」と少し微笑んでくれた。
いつ見ても本当に綺麗な人だなあ。おじさんとはあまり似ていないし、きっと亡くなったというお母さんに似たんだろうな。陣君が誰と似ているのかは分からないが。
しかしいつも、司お兄ちゃんは私の課題を手伝おうとしてくる。いや課題だけではない。学園生活で困ったことはないか、と色々と気にかけてくれているのだ。それだけなら素直にありがたいのだが、時々度を超えて構ってくるので大変だ。
元々お兄ちゃんは親切な人だったけど、初めて会った時からだんだんとエスカレートしているように思う。どうしたんだろう。
もしかして、とうとう陣君がお兄ちゃんにまで反抗期になって寂しい、とか?
おじさんに陣君が万年反抗期なのはいつものことだが、どうだろう。
「……何で兄貴までいるんだよ」
勝手なことを考えていると、呼び出しを終えたらしい陣君が階段から上がってくる所だった。ちなみに呼び出しと言っても何か悪いことをしたのではない。青田刈りというべきか、今から既に高等部の先生に色々と声を掛けられているらしいのだ。
「駄目だったか?」
「別に」
首を傾げた姿すら優雅である。末恐ろしい人だ。
それにしてもあまり陣君の機嫌が良くない。先ほど適当に言った反抗期説がまさかの信憑性を帯びてくる。
陣君は私の前、司お兄ちゃんと対角線になる位置に腰掛けると黙々と課題を始めた。なんとなくその様子を見ていると「見るな」と不機嫌そうに私とお兄ちゃんを睨む。司お兄ちゃんも見ていたのか。
それから私も課題の続きを始めたのだが、隣と前が気になって集中できない。
「……」
「……」
両者とも一歩も引かない。
なんとなく陣君に構いたそうにしているお兄ちゃんと、話しかけるなと全身でアピールしている陣君。本当に反抗期か。
まあ私も正直、図書館だけでなく毎日家でここまで構ってこられたら反抗期に突入しているかもしれない。
ちなみにうちは良い意味で放任主義だ。何かやるにしても口を出されることは殆どないし、兄様と姉様も最近は以前よりもずっと過保護ではなくなった。よく抱きつかれたことを思い出してたまに少しだけ寂しくなることは秘密だ。
しばらく無言の攻防を続けていた二人だったが、司お兄ちゃんの方のタイムリミットが来たらしい。伏し目がちに腕時計に目をやったお兄ちゃんは「時間だ」と名残惜しそうにそう言った。
「陣、ひなた、後でな」
「はい」
「……ああ」
最後に返事をした陣君に嬉しそうな雰囲気を纏ったお兄ちゃんはそのまま図書館の階段を下りて行った。
彼の姿が完全に消えるのを待つと私は即座に陣君を振り返り、一番聞きたかったことを口にする。
「反抗期なの?」
「いきなりなんだよ」
私は今の陣君の態度のことや、更に図書館で会う度に構い倒されているということを話す。
私の話が進む度に陣君が頭を抱えていくのだが大丈夫だろうか。
「兄貴……何やってるんだよ」
「いやだからね、陣君に構えない分を私で我慢してるのかなーって」
「それは流石に無いとは思うが……。というかひなた、今の話本当なんだよな」
「勿論」
陣君が来てからは彼の方にシフトしてしまったので私が司お兄ちゃんに構われている所を見ていない。陣君は「あの兄貴が?」としばらく考えこんでしまったので、私は彼が復活するまで課題の続きに取り掛かることにした。
「……いやでも、確かに昔っからあいつ、ひなたにはやけに優しかったような」
「そう?」
「基本的に人には無関心だし、口を出すことも殆どないと思うんだが」
見た目よりもずっと親切な人だと思っていたのは私だけらしい。
とはいえ私の中で司お兄ちゃんという人はいつまでたってもよく分からない人というカテゴリから抜け出さない人である。ちょっと可笑しな行動をしてもまあ司お兄ちゃんだからな、で済ませていたのでそこまで深く考えたこともなかった。
陣君はとりあえずお兄ちゃんのことは置いておくことにしたのか、再びペンを手に取った。
「そういえば、お前に言おうと思ってことがあるんだが。あいつ、どうにかならないのか?」
もう少しで課題が終わろうかとした時、後に来たのに先に課題を終わらせてしまった陣君が手持無沙汰にペンを回しながらそう言った。
あいつって誰のことだろうと私が尋ねるその前に、陣君は眉間に皺を寄せて再び口を開く。
「この前なんてちょっと中庭ですれ違ったかと思ったら、いきなりべらべらと一方的にしゃべり始めるし、おまけに今度魔術で勝負してほしいとか言ってくるし……」
昴だろうな、むしろあいつしかいない。
魔術科のホープとも言われる陣君にいきなりマシンガントークをし掛け、はたまた魔術で競いたいなんて言える怖いもの知らずなど限られている。
余談だが、マシンガントークという言葉はこの世界にはないので以前にうっかり使って首を傾げられたことがある。
私は先ほどの司お兄ちゃんの話をした時の陣君のように頭を抱えてしまった。恐らく陣君はものすごい迷惑そうな顔をしていたことだろう。そんな彼に実に楽しそうに話しかける昴の様子が思い浮かぶ。多分陣君のことを気に入ったんだろうな。それで不知火と知って思わず勝負したくなってしまったのだろう。
「まったく、昴は……」
「あいつ、自分だけしゃべったら満足して俺の言葉も聞かずに帰っていくんだぞ」
「真に申し訳ない……」
何故か親の心境で、うちの子が本当にすみませんと謝りたくなる。
あれ。でも、魔術の勝負のことを除いたら私が初等部の最初にやっていたことと何にも変わらない気がしてきた。
「陣君、あの、いつもごめんね」
過去の出来事も含めて謝ると、陣君はふん、と鼻を鳴らた。
「昴には私からちゃんと言っておくから」
「……それは別にいい」
「え、そういう話じゃなかったの?」
「その代わり、……べ」
陣君はいつの間にか帰る支度を終えていたのか、何かを言って立ち上がった。最後の方だけぼそぼそと言っていたので聞き取れなかった。
「え、何だって? もう一回言ってよ」
「な……で、……べ」
「はい?」
いつものはきはきと冷たい言葉を言いのける陣君はどこに行ったんだ。
何度も聞き返す私に苛々しているのは分かるが、ならばもう少し大きな声でしゃべってほしい。
「だから!」
「うん」
「名前で呼べって言ってるんだ!」
今度は図書館に響き渡るような大声でそう言われ、私は思わず周りを見てしまった。そういえば今日はあまり人がいないんだったな。幸運にも煩そうにしている人はいなかった。
陣君は叫んだ後、踵を返してすたすたと席を離れてしまう。
「時間だ、帰るぞ」
えー、まだ課題が終わっていないのに。どんどんと離れて行ってしまう陣君を追う為に私が急いで教科書を片づける。
そしてその間に先ほどの言葉を反芻させた。
名前で呼べって、多分陣君のことだよね。さっき話題に上がっていた昴はもう呼び捨てだし。以前の合同授業の時も何かそのことを気にした様子だったことを思い出す。
陣君、と普段名前で呼んでいる気もするのだが、そこから考えると陣君も呼び捨てにしてもらいたいってことかな。
急いで彼に追いついて「陣君」と呼ぶと非常に不機嫌そうな顔が振り向いた。
「だから……!」
「陣って呼べばいいってこと?」
私が先んじてそう言うと、何かを言おうとした口が閉じた。正解だったようだ。
でも、どうして呼び捨てに変えさせるんだろう。君付けはもう子供っぽいか?
「ねえ、なんで呼び捨てがいいの?」
「別に」
「いや理由があったんでしょ」
「何でもいいだろ!」
よく怒るなあ。切れる若者か。
これはどう聞いても理由を問いただすのは難しそうなので、勝手に推測することにした。
先ほどの会話の流れから考えても陣君が昴のことを引き合いに出しているのは恐らく間違いないだろう。この間も仲が良いから呼び捨てなのかって聞いてきたし。
……ん? もしかしてこの間そうやって聞いてきたのは、私が昴との方が仲が良いと思って拗ねていたのか?
陣君の思考は分からないがそんな感じじゃないだろうか。
私は思わず先を行く陣君……いや陣の頭を背伸びして撫でた。
「大丈夫だよ、私の相棒は陣だけだから」
「……」
何か文句の一つでも言われるかと思ったのだが、彼は何も言わずに手を振り払っただけだった。
中等部で学科も別れちゃったし、寂しかったのかもしれない。本当にいつまでも可愛いなあ。
そのまま駐車場へと向かおうと二人で歩いていたのだが、途中で不意に陣君の足が止まった。……そういえば名前で呼ぶんだった、慣れないな。
「どうしたの、陣?」
「兄貴が……」
ほら、と陣に示された方を見ると、少し離れた場所に先ほど別れた司お兄ちゃんがいた。彼は何かをじっと見ているようなのだが、その表情は険しい。酷く苦しそうな顔をしており、一体何を見ているのだろう、と思い視線の先を追った。
「姫様と、兄様?」
視線を辿ると、そこには姫様と兄様が談笑している姿があった。以前「めろめろにしてやる」と宣言した通り、姫様は中等部に入って兄様に猛アタックしているようである。姉様からの情報だと、兄様もだんだん絆されて来ているんじゃないかとのことだ。
実際に話している様子を見れば、確かに兄様も姫様に傾いているんじゃないか、とも思える。頬を染めて一生懸命話している姫様は大変、大変に可愛らしいのでむしろ私が惚れそうなくらいである。
しかし、ふと現実に帰ればその微笑ましい光景を非常に辛そうに見ている人物がいることを思い出した。
もう一度司お兄ちゃんの方に視線を戻すと彼は先ほど同様苦しげに姫様達を見ており、その手が強く握られているのが見えた。
ひめ、と小さく口が動いた気がするのは、私の気のせいだろうか。
幸せそうな二人を見る司お兄ちゃん。もしかして……。
「ひなた、どうしたんだ」
行くぞ、と陣に促されるまで、私はしばらくその光景に見入ってしまっていた。
私は視力には自信があるため、お兄ちゃんの表情までしっかりと見ることが出来てしまったが、陣はそこまでしっかりとは見なかったのだろう。立ち止まった私に首を傾げていた。
茫然としたまま私は駐車場へと辿り着き、そのまま不知火の車に乗り込む。
「お坊ちゃま、ひなた様はどうなさったんですか?」
「さあ……?」
佐伯さんや陣が少し心配しているのは分かるが、私はそれにろくに答えることが出来なかった。
お兄ちゃんはきっと、姫様のことが好きなんだ。
兄様への微妙な態度はきっとその所為だったのだろう。
姫様の気持ちは承知しているし、それが叶ってほしいとは勿論思う。けれど、あんな風に苦しそうな司お兄ちゃんを見ると、素直に喜ぶことは出来なくなってしまった。
その後不知火の家で帰ってきた司お兄ちゃんに鉢合わせ、私はどんな態度を取ればいいのか分からなかった。




