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手と唇について

作者: きみお

私の秘書は手である。"手"なのだ。

赤いマニキュアを塗った、繊細な手だ。

おそらく女性の手である。

おそらくというのは、その手の本体とも言うべき部分を見たことがないからだ。

手首から数センチ先以降はどうなっているんだろう。

すごく気になるが、何故だか知ってしまってはいけないように感じる。

物を言わぬ左の手は、毎日淡々と仕事をこなしてくれる。

机のふちに手だけが突き出ている。

どうやってパソコンの画面を見ているのかは知らないが、タイピングだってお手の物である。手だけに。

私が事務所から出ている間には書類整理もやってくれる。

先日なんて、私がうっかり机から落としてしまったペンを拾い、すっと差し出してくれたのだ。


私がここの事務所を借りることにしたのは1年ほど前の話である。

私は地元の有名な弁護士事務所で働いていたのだが、10年経ち、そろそろ自信と経験が得られたので、独立したのだった。

立地条件や家賃も悪くない。何より窓からの眺めが最高。


事務所を開業して1週間ほど経った日のことだった。

私はパソコンで客のデータを整理していた時、視界のすみで何かが動くのが見えた。

手だ。

「どなたですか。」と私は声をかけたが、返事がない。

私は手が見えた、戸棚に近寄った。

するとふいに後ろから音がしたのだ。私が今まで座っていたデスクの方からだ。

振り返るとマウスを操る手があった。

「おい、なにをしているんだ。」と駆け寄ると、手は消えた。

私は手の持ち主とも呼ぶべき人物を探したがどこにも見当たらなかった。

幽霊・・・なのか。

私は背筋に寒気を感じながら、パソコンの画面を覗き込んだ。

すると、客のデータの整理がきれいに完了していた。

私はいつもより早く事務所を閉めて帰宅した。


翌朝、手はデスクの上にいた。

私がおそるおそる近寄ると、手は恥ずかしそうに横に逃げていく。

しばらくにらめっこが続いた後、私は手に害がないと判断し気にしないことにした。

以来、その手は毎日私の事務所に出現する。

私は手に名前をつけてやった。「リリー。」

最初のころは、私が近づくと恥ずかしがって逃げていたリリーだが、今ではすっかり慣れたようで触れられる距離にまで来るようになった。

私の心境にも変化があった。

私は恋をしていた、リリーに。

奇妙な感覚だが、私は手そのものに恋心を抱いている。

リリーのことを思い出すと心臓が早鐘のように打つのを感じる。

美しい。触れたい。もっと一緒にいたい。

明日こそ、リリーの手に触れてやる。


次の日、私はドキドキして仕事が手につかなかった。手のせいで。

顧客の話がまるで頭の中に入ってこなかった。

リリーのことを考えてしまう。リリーが私の心の中で笑っている。

顧客が帰り、事務所の中に私とリリーだけになった。

私はできるだけわざとらしくないように消しゴムを床に落とした。

いつかのように、リリーはそれを拾い、私に差し出した。

私は優しく手に触れた。

リリーはびくっとしたが、いやがるそぶりは見せなかった。

初めて触れたリリーの手は柔らかく、暖かかった。ほんのりと優しい香りすらした。

私はおし黙って、手の甲に口づけをした。愛しい。

私がゆっくり手を離すと、リリーは真っ赤になり、猛スピードでどこかに逃げ去った。


それっきりリリーは私の事務所に現れることはなくなった。

私の恋は終わりを告げた。


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