一つの恥と小さな偶然によって世界が救われる可能性。
天気のいい、風の少し強い日のことだった。日当たりも悪く薄暗い部屋に籠もって鬱屈としているくらいなら、どこでもいいから外に行こう、と思い、方々をふらふらしているうちに、彼は海岸を歩いていた。砂浜の細かな砂を踏みしめながら、少し波の高い海を眺めつつゆっくり歩く。まだ春先であるから水も冷たく、海遊びに興じるような輩も皆無で、延々と風と波の音しかしない、人っ子一人いない海辺は実に穏やかでいい気分だった。
ふと彼は立ち止まった。どうせ誰もいないのだし、ここは一つやってみようか。住宅街も遠いから誰にも聞こえはすまい。
彼は波打ち際まで行き、両手でメガホンを作って、腹の底から全身で声を上げた。
『青春のオォォォオォォォオ、バッッッッカヤロオォォォオォォォオ!!!』
限界まで引き伸ばし、膝に手を突いて肩で息をする。木霊など聞こえるはずもないが、彼の顔には満足の笑みがあった。
実は、一度やってみたかったんだよね。
これほど全力で声を上げたのは、恐らく人生初である。
ところで、と彼は顔を上げた。ほんとに誰もいなかったよね?恐る恐る周囲を見回す。誰かに見られてたらたまらなく恥ずかしいぞ。即黒歴史認定である。
左側を確認し、一息ついて、右側を確認した。
そして彼は固まった。
そう遠くないところ、彼と同じく波打ち際に沿って、こちらへ歩いてくる人の姿が一つあった。まだ声は届くまいが、先程の絶叫は間違いなく届いているはずだ。彼はビキッと固まった。逃げるか。全力ダッシュで逃げようか。
だが、ふと彼は眉をひそめて目を凝らした。こちらへゆっくりと歩いてくる人物。恐らくは女性だ。足首まである白いワンピースを着ている。対称的に黒い髪は、風になびいてはいるが恐らく腰ほどまであるだろう。だが彼が訝しんだのはそこではなかった。
背中の・・・・あの、あれは何だ。
女性の着ているワンピースと同じか、それ以上に純白。女性の背負っているらしき『それ』は女性の両肩から大きく飛び出しており、大きさは女性と同じかそれ以上にあった。
そして、女性が近づいて来れば来るほど、女性の背の『それ』は一対の『翼』に見えた。
はっと気づくと、彼と女性との距離は精々数メートルになっていた。
逃げそびれた。
「こんにちは」
微笑を浮かべつつ、片手で風に荒ぶる髪を抑えながら女性が言った。女性は背が高かった。百八十センチある彼を越えるほどではないが、目線の高さはあまり変わらない。
「こ、こんにちは・・・・」
何がなにやら。彼の視線はその女性の『翼』と顔とを往復した。何となく女性の頭上を確認する。光の輪は浮かんではいなかった。『翼』は、風で羽毛がそよいでいるが、鳥の羽のようにも見えない。白鳥だってこんなに白くない。強いて言うなら宗教画に描かれるような『あれ』にそっくりだった。それから女性の顔をまじまじと見つめる。そしてまた固まった。
とんでもない美人だった。どう描写すればいいのかがわからなくなるほどに、とりあえずは人間の得られる美しさを超越していた。
だが、彼が硬直したのはそんな理由ではない。
その女性は、彼の思い出の中のある女性にひどくとてもよく似ていたのだ。どこが、というわけではないが、どことなく、全体的に。もっとも、彼の思い出の中の女性は、美人は美人でもあくまで人間の範疇での美人だったが。
それから、どういうわけか額にでっかい絆創膏をしていた。
「君はさっき、何やら面白いことをしていたな。あれは何だったんだ?もしや、最近流行っているのかい?」
「さささっき?え、え?ななな何のことですかねえ!?」
彼は目に見えてうろたえた。
やっぱり聞こえてたか!
うん?と女性は小首を傾げた。
「わからないか?ほら、何なら私が再現して見せよう。いいかい?ーーーーっ、」
「いやいやいやいやいいです結構ですダメです勘弁してご免なさいっ!」
くるり、と海の方を向いて両手でメガホンを作り大きく息を吸い込んだ女性を、彼は全力で制止した。
なんたる仕打ちだ。青春を罵倒した罪はこんなに重いのか。
彼はもはや半泣きだった。
そうか?と女性は絶叫を中止してこちらへ向き直ってくれた。背中の翼も女性に追随する。
「・・・・何だか追及を避けたそうな顔だな」
「ええ、ええ。間違いなく流行ってなんかいませんよ。流行ったこともありゃしませんよ。強いて言うなら若気の至り・・・・」
ふむ、と女性は頷いた。成程、ワカゲノイタリと言うのだな。覚えておこう。
「そ、そんなことより、その」
女性がまた何かいう前に話を逸らそうと思い、何かを指摘しようと思ったら女性には指摘すべき点が多過ぎて、彼の指は少し空中をさまよった。
結局のところ、とりあえず女性の額を示す。
「大丈夫なんですか、それ」
「ん、ああ、これか?」
女性は額に手をやった。前髪に半分覆われているが、やたらと大きく機能一点張りのマンガみたいな絆創膏が貼ってあった。
「これな。ちょっと着地に失敗して擦りむいたのだ。ほらこんなところも」
全く恥ずかしがる様子もなく、女性はワンピースの裾を膝まで捲った。むしろ彼の方が赤面しかけたが、女性の示す通りに、線の綺麗な脚にはあまりに不釣り合いな絆創膏が膝やら臑やらに貼り付けてあった。見れば、女性は腕にも数ヶ所同じ様に絆創膏を貼っている。
なんていうか・・・・残念な人だった。
「ここは風が強いのだな。慣れていなかったものだから。あまりにも久々だったし」
「はあ・・・・まあ、海岸だから、かな」
海風は強い、とどこかで聞いた、ような気が。女性は成程、と大きく頷いた。
「そうか。では次回からは必ず内陸部に向かうことにしよう」
・・・・いや、ところでその、着地って?
もしかして。
彼は生唾を呑み込んだ。
もしかして、もしかすると電波さん・・・・!?
それにしては、やたらめったらハイスペックな電波さんだ。
何より背中の『それ』と、女性の顔がある女性に似すぎているのが解せない。他人のそら似というにはあまりにも、見れば見るほどよく似ており、だが絶対に何かが違うと思い知らさせる。
それは女性の顔の造形が人間離れして、まさに『美しい』という概念を体現しているかのようであることとは関係がないように思う。
女性はふっと微笑んだ。
「そんなに構えなくていい。別に今回は預言や託宣に来たわけではないのだ」
「はあ・・・・」
歯の抜けた返答をすると、女性は小首を傾げ、
「ああ、私の容姿が誰かに似ているか?気を悪くしたならすまない。こればかりはどうしようもないことでな。私は固有の姿を持たないから、相手の記憶に依存するしかないのだ」
聞けば聞くほどわからなくなるが、とりあえずは成程、と頷いて見せた。
それから、最も気になるが指摘するには非常に悩ましい『それ』を指さす。
「で、それは?」
「うん?ああ、翼だ」
それは見ればわかる。
「まあ大したことではない。気にするな」
核心を流された。
かなり大したことだと思うんだけど。
「ところで、私は確かに預言や託宣に来たわけではないんだが、全く用もなく来たわけでもないんだ。それでは怪我をしただけ損だしな」
確かに、と彼は女性の額の絆創膏を見つつ頷く。
「ソデフリアウモタショーノゴエン、と言うのだろう?ちょうどいいから、君と少し話がしたい。時間はあるかな?」
奇妙なイントネーションの諺だった。調べたのだ、とちょっと自慢げに胸をはる女性。間違ってはいない、かな?
これほどの美人に話がしたいと言われれば、平時なら多少はときめくものを感じそうなものだったが、如何せん女性の言動と背中の翼(と額のでっかい絆創膏)のお陰で何だか非常に惜しい感じがした。彼は微妙な表情になる。ましてや彼自身が、初っ端に恥ずかしい様を晒しているのである。
「まあ、いいッスけど」
「ありがとう」
にこ、と女性は笑った。それだけを見ればグラッと来そうだった。記憶の中のある人と重なるので一層。絆創膏に彼は救われていた。
「では聞かせてもらおうーーーー君は幸せかい?」
藪から棒に、変な質問だった。
「ずいぶんと漠然としてますね」
「うん、漠然としてていいんだよ。だから漠然と答えてくれ」
うーむ・・・・
彼は漠然と考えた。
と、女性は含み笑いをする。
「ふふふ、今君が何を考えているのか、私には手に取るようにわかるぞ」
「へえ。それじゃあちなみに、俺は今何を考えてるんです?」
「ん?うん、それはだな」
手に取るように、とまで言ったくせにちょっと困った顔をする女性。
「それは、あー、あれだ。今日の晩ご飯何かな?とか」
「話はちゃんと聞いてましたよ」
失敬な。聞き流していたとでも?まあ集中もしてなかったけども。
気になって仕方ないのだ。その背の翼が。
「や、すまない。一度言ってみたかっただけなんだ。で、どうだ?」
「んー・・・・どうと言われましてもね」
漠然として、うまく言葉になりにくい。しかし女性は答えを待っているので、仕方なく口を開く。
「・・・・不幸ではない、ってとこですかね」
「ほう。ずいぶんと漠然としているな」
「そりゃ漠然と答えろと言われましたからね」
ふーん、と女性は少し考える表情になった。
「日本語は曖昧な表現を好むとは聞いていたが、まさかここまでとは。私も勉強が足りないな」
いや、だから漠然と答えろと言ったのはあんたでしょーが。
彼はため息をついた。
「別に幸せでもないけど、取り立てて不幸でもない。生きる環境は悪くないからまあそれなりで・・・・ゼロよりは少しだけ幸せ側ってとこかな」
「ふむう・・・・わかったようなわからないような」
女性は難しい表情で唇を浅く摘まんだ。それがいちいち絵になる。
まあいいか、と首を軽く振って、女性は視線をこちらへ向けなおした。
「では次の問いだ。君は今のこの世界をどう思う?」
「えーっと・・・・どうって?」
また漠然としている。うん、ええとだな、女性は言葉を探している。
「今のこの世界は幸せかな?不幸かな?」
彼は首を傾げた。
「さあ?そんな大きな話は俺にはよくわかりませんね。っていうか幸不幸は個人レベルの話でしょ?俺は最大多数の最大幸福はあんまり好きじゃないですし」
「成程。では幸せになりたいかな?」
「俺が?そりゃなりたいでしょ。なりたくない奴なんていないでしょうよ」
「ではなれるとしたら?誰もが皆幸せになれるとしたら、そんな力があるとしたら、君は頼るかい?」
「頼りませんね」
即答に、女性は驚いた顔をした。
「ほう、どうして?」
彼は肩をすくめた。
「誰もが皆幸せ、なんて無理でしょ。誰かが幸せになってる裏では違う誰かが不幸になってる。それにやっぱり幸せなんてものは、誰かにもらうものでもないと思うし。自分で勝ち取るものでもないと思うけど」
「それじゃあ、君にとっての幸せとは何だい?」
興味深そうに女性は訊いた。
「君は何を幸せと呼ぶんだ?」
「そんなのは、あれですよ。幸せってのは、ほんとにどきどき偶然ふらっとやってくるものなんですよ。俺にとってはね。不幸が九回続いて、その後でようやく一回幸せがかすめるくらいかな。うん、そんな感じ」
ほう、と女性は眩しそうに目を細めた。
「それでは君は総括的には不幸なのではないか?そんな比率では」
「いや違うんだよ。何というか、こう・・・・」
彼は頭を掻いた。
「満足・・・・そう、満足してるんだ。俺は俺の人生に。っていうほど長生きはしてないんだけどさ。そりゃあ、他人から見たら不幸かもしれないけど、俺自身は完全に不幸だとは思わない。今までだって、大して長く生きてないにしても、十分すぎるほどいいことがたくさんあった。それ以上にもっと不幸もあったけどさ。今だって、俺はほんのちょっとの幸せですげー幸せになれる。何だかんだ言っても、死ぬときに自分が満足してれば勝ちでしょ。俺は今んとこ満足してるよ。って感じなんスけど・・・・」
徐々に笑みを深める女性に、彼は少し恥ずかしくなった。
「えっと・・・・意味、わかりますかね?」
「うん。わかった。実にいい答えだったよ。君に会えてよかった。ありがとう」
「いや、礼を言われるほどのことじゃ・・・・」
君に会えてよかった、とまで言われて彼は照れる。女性は浅く目を伏せ、
「いや何、私は実を言うと、この世界の有り様を見てくるように仰せつかったのだ。しかし・・・・うん。まだこの世界も捨てたものではない。もうしばらく様子を見てもいいだろう。君のお陰だ」
「え?あ、はあ。そりゃどうも」
俄かに電波発言が再来し、彼は目を瞬かせた。対して気にした様子もなく、女性は海の彼方へ目を向ける。
「では、そろそろ私は帰るとするよ。いい土産話ができた。次に来るのはまた二千年後あたりかな・・・・」
もはや彼は何も言わないが、女性はそんな彼に視線を戻してにこやかにスッと手を差し出す。
恐る恐る彼がその手を握ると、女性は握手を上下に振った。
恐ろしく柔らかく手触りのいい手だった。
「本当にいい話を聞いたよ。ありがとう」
「いえ、そんなことは」
あんな要領を得ない話のどこがいい話だったんだろう。
手を解くと、女性は一つ頷いて一歩下がった。
「君と会うことはもうあるまいが・・・・では、ええと、達者でな」
「え、あ、はい。そちらこそ」
ちょっと古い物言いだったが、女性は浅く手を振ったので彼も手を振り返す。
そして、女性はガバッと背の翼を大きく開き、豪、と羽ばたいた。
ように見えた気がした。
全ては一瞬だった。突如として吹いた強い風から目を覆った手を外すと、そこには誰もいなかった。
周囲にも人影はなく、足跡すら残っていなかった。
まるで初めから誰もいなかったかのように。
「何だったんだ・・・・」
女性と握手した手を握ったり開いたりする。女性の手のあの柔らかさと温かさはまだ覚えている。
だが女性はもうどこにもいない。
彼は少し首を傾げていたが、やがてまあいいか、と大きく伸びをした。
「さて、っと、帰るかなー・・・・」
そういえば、あの人は元気なのだろうか。ちょっと久々に話がしてみたくなってきた。
電話でもしてみるかな。
彼は来たときよりも軽やかな足取りで、砂浜を後にした。