プロローグ
1
ふと思い返してみると、道行く学生を見たときに、なんというか、不思議な感覚に包まれることがよくある。
それは単純に若さへの嫉妬なのだろうし、彼らの倍以上の時間を生きてしまった事への後悔なのかもしれない。こうして自分の心に纏わりついた感情を分析することは容易に出来る。恐らく俺が嫉妬の眼差しと、そして若干の羨望を向ける学生たちには自分の感情がどういったものなのか、と感じ取ろうとすることすら考えないだろう。いや、当然ながら流れに沿って生きてきたような俺なんかよりも人生を達観し、大人びた学生も中には居るだろうが、俺から言わさせてもらえば、それだって本当の意味で分析していない。
自分の感情というか、心を客観的に見るという行為は『人生にある程度の区切り』をつけた者しかできないだろう。
言い換えれば、人生をある程度、諦めた人間しか。
自分語りをさせてもらえるならば、俺も捻くれた子供だったので、高校生くらいには「自分はもう大人だ」と流布することはなかれ、頭の中では思っていた。そうすることで他人と自分は違うんだと思い込んでいた。実際は俺という個人のような人間は山のように存在していたというのに。
その俺が人生に対して『何か』を諦めたのは何時だろうか。きっと大学を卒業して社会人になった頃だろう。忙しさに追われ、充実しているようでどこかに穴が空いてしまったような虚しさを感じ始め、学生時代の友人と飲みに行った時に出る話題が、仕事と過去の話しだけでループしていたり、自分より優れた同僚と会話して少し劣等感に苛まされている自分に気がついたとき、自分が特別ではないと悟った。本当の意味で、俺の人生には何も特別なことは起こらないのだと、気が付いてしまった。
もとより、自分自身の生き方にも問題があるのだろうけれど。
さらに友人たちにも酒の席でそれとなく訊いてみたところ、どうも皆が皆、同じような気持ちでいたということも、俺の中で区切りを付ける追いうちになっていた。
話が逸れてしまったが、俺が言いたいのは「そんな感覚に陥ることが止まらないのか」ということだ。
俺は喫煙者で、自他共に認めるニコチン依存症の世の流れに対して逆らって生きている人間ではあるが、どうも俺はこの感覚に陥る事に対して依存しているのかもしれない。
どこで間違ったのか、何をしていれば特別な人生とやらを送れたのだろうか。そんな自虐めいた感覚に対しての依存。そして、そう思う反面、普通のライン を越えたくない、楽に生きていきたいという自分が掲げる唯一の主義との板挟みによる思考依存。
つまりは俺の中には『何か』に憧れる子供の自分と、『何か』を諦め平凡で楽な生き方を望む大人の自分がいるのだろう。自己矛盾、とでもいうのだろうか。それとも理性と本能とやらなんだろうか?
もちろん、どちらが本能で、どちらが理性なのかは分からない。
自分の感情は理解できると言っていたじゃないか、という声が聞こえてきそうではあるが、それじゃあ、先の発言は取り下げよう。大人は嘘つきなのだ。
他人にも、自分にも。
さて、長くなってしまったが、俺が結局こうして自分語りをしているのは理由がある。それは時間があるからだ。
本能と理性のどちらかを選択する時間。
永遠と続く時間のようで、残り数十秒で終わってしまう時間。
俗に言う走馬灯というモノなのだろうか。いや、あれは自分の過去がフラッシュバックすることを指しているんだっけ。
まあいい。それじゃあこれから走馬灯を堪能しよう。幸いながらまだ少し時間は残っているようだ。彼女の声も聞こえない静寂は、久しぶりに味わうものだった。
まずは、どうして俺がこんな状況に陥っている原因を――――ビルの屋上から落下している原因を、最初から思い返してみよう。
ああ、これで煙草があれば笑って死ねただろうに。