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心臓の真上

 熱い。

 自分がどろどろに溶けてなくなりそうに熱くて、訳が分からない。



 唇がひりついて痛い。

 レグルスが噛みついて、そのまま味わうみたいに口に含んだり舐めたりしたせいなのは分かる。


 分からないのはそのあと。

 美味しいわけないのに執拗に唇を味わわれて、呼吸も忘れていたのが悪かったのだろうか。

 空気を求めて開けてしまった口に待ち構えていたかのようなタイミングで強引に舌が入り込んできて、呼吸が更に苦しくなった。

 

 落ちつけ、私。

 隊長も言ってたじゃないか。あせった時こそ鼻からゆっくり息を吸い、臍の下で溜めてゆっくりと口から吐き出す。

 …………口から息を吐き出せません、隊長! 

 元同僚によって塞がれております!

 いやいやいやいや、落ちつけ。鼻から吸って鼻から吐けばいいだけだ。

 口を塞がれたら完全鼻呼吸すればいいじゃない。それで万事解決する。

 いや、訳が分からない状況は何ひとつ解決しないけどね!


「……ん、ぅ……っん」


 口腔の奥からもれる自分のうめき声は、何だかひどく鼻にかかっていた。

 当たり前じゃないか。息が苦しいんだ。

 さっきから歯列をなぞったり私の舌を抑え込んだりとレグルスの熱い舌が好き勝手してるせいで。

 思考が、溶かされてく。

 

 訳が分からない。

 レグルスが何でこんなことをするのか、訳が分からない。


 ふいに奴の舌が口から出て行って、ぼやけるほど近かったレグルスの顔がクリアになる。

 熱を孕んだ緑の双眸は、雨上がりの五月の森みたいに濡れたように光っていた。

 

 ああ、きれいだ。

 レグルスは本当に、美しい瞳を持っている。


 溶けた思考で悠長にもそんなことを思う。


 さっきまで見下ろしてくるレグルスの視線を怖いと感じていたというのに。

 怯えを見せた瞬間に、レグルスが見せた肉食獣の笑みがとても恐ろしかったのに。

 …………内臓を食い散らされる運命にある草食獣の気持ちを味わったというのに。


 頭が痺れたように重くて、美しい緑をもっと見ていたかった。



 ぼんやりと見つめていると緑の双眸がとまどったように見開かれて、数度瞬く。

 何かを問いかける気配を瞳にたたえて、再びレグルスの顔が近付いてきた。

 先ほどより幾分柔らかく、唇が重なる。

 その熱に訳も分からない内に泣きたくなった。


 レグルスはゆっくりと口元からたどるように、私に熱を与えていく。

 口の端へ、頬へ、顎へ、喉へ。

 喉元をくすぐる舌先に、首が弱い私は悲鳴をあげたのにそんなことは意に介さない。

 傲慢なレグルスらしい強引さで、舐めたり甘噛みしたりする獣みたいな口づけを落としていく。

 

 首筋を征服し終えると、次は肩へ。

 いつのまにかシャツは肌蹴られていて、素肌の肩先にレグルスの堅く大きな手のひらを感じる。

 正直、得体の知れない感覚が背筋に走りぬけていて、声を抑えようとするのに手一杯だ。

 

 鎖骨を柔らかく噛んだ口が、私の身体の中心をたどるように下に降りて――――





 ――――――唐突に、動きを止めた。




「このしるしは……」


 かすれた声を出して、レグルスが触れたのは心臓の真上だった。

 命を刻むリズムが脈打つ場所。



 ………………ん?

 いやいやいやいや、待て待て待て待て。

 ちょい待て、そこ胸だから。

 どんなに薄くてもダイレクトに胸だから。


 貧相な胸に対するコンプレックスは溶けていた思考を一瞬で引き戻して再構成してくれた。

 上体をがばっと起こす。

 起こせたのは、レグルスがもう肩や腕を抑えていなかったためだ。

 私はこれ以上、洗濯板と見まがうような胸を観察される前に、素晴らしい速度で後じさり、ベッド上で距離を取る。

 


 レグルスを見やれば、先ほどとは全く違う瞳で呆然と私を見つめていた。


「その印は、いつからあった?」

「印?」

「心臓の上の……ジェミニのアストロロジカルシンボルのことだ」


 何ですかそれは。

 かき寄せたシャツの隙間からちらりと見れば、盛り上がりにあまりにもかける胸に灰色の痣があった。

 …………文字か数字のような。砂時計に似ているような形だ。


「ああ……そういやうっすらと痣みたいなのが三日前からあったような……」

「三日!? なんでそれを俺に早く言わない!」

「いや、でもこんなにはっきりした形のある痣じゃなかったし。弓の稽古中にぶつけたのかなーとか思ってたから」


 その言葉にレグルスは低く唸った。

 怒りは感じるけれど、さっきまでの得体の知れない色気のある雰囲気とは違う。

 いつもの、自分に対しての苛立ちを噛み殺しているようなレグルスの表情に、場違いにもほっとしてしまう。

 

 訳の分からない熱のやり取りの理由を、問いただすことは怖かった。


 苛立ちを鎮めようとしたのか、レグルスは一度目を閉じた。

 そうして私をその緑の瞳で射抜くと、いつにない真剣な声で言う。


「エセル。体の具合がおかしいとかないか? 嫌な夢を見るとか」

「え? いや特に何も」

 

 色々ありすぎて疲労困憊してはいるが、至って健康だと思う。

 その気の抜けた返事に、レグルスは軽く息をついた。

 とりあえず少し安堵したようだ。

 そのまま腕を組んで、何やら思案していたが長くはかからなかった。

 包帯の上から手早く上着を着て、ブーツの紐を結び直しながら宣言してくる。

 ……完全に出かける姿勢だ。


「エセル。用意ができしだい、すぐにでも出発する」

「…………はい? え、でもまだ八日は滞在する予定で。宿にも前払いしてあるし」

「俺が早馬と食糧の調達をしてくるから、お前はここで寝てろ。体力の回復をしとけ」

「って、レグルスの方が怪我人な上よっぽど疲れてると思うんだけど!?」

「馬鹿にすんな。問題ねぇよ。……それより、お前のことだ」


 耳に心地よい低い声が、更に一段トーンを下げる。

 すっかり身支度を整えたレグルスがまだベッドの上で座り込んでいる私に近付いて、真剣な眼差しを向けてきた。

 先ほどの熱が、一瞬ぶり返して身を引きかける。


「頼むから、逃げないでくれ。逃げられても仕方ねぇことしたのは俺だが、今は。……今は、お前の命が危ないんだ」

「…………え?」

「ジェミニの呪いはおとぎ話じゃねぇ。王族の力自体が、伝説の存在ってわけじゃねえんだ。お前も見ただろ。あの暗殺者の小僧がサソリ操ってんのとか、ウサギがしゃべんのとか反則技な現象を」


 まだ記憶に新しい大量の黒サソリが頭をよぎり、慌てて頷いた。


「胸の痣は、おそらく呪いの徴候だ。俺の力じゃ、お前を……」


 言葉の最後はかすれて私の耳に届かなかった。

 ひどく悔しそうなレグルスの顔を見て、隊長にぼろぼろに打ち負かされた時よりも悔しそうだな、と呑気な感想が出てくる。

 だって、呪いとかぴんと来ない。

 ……いや、もしかしたら信じたくないだけかもしれないが。


「とにかく、すぐ準備してくる。お前は出発前に少しでも寝とけ」

「……出発するって、いったいどこに?」


 私たちは特にあてのない旅をしていたはずだ。

 ……自信がなくなってきたのは、レグルスに何らかの意図があってサジタリアスに来たのだろうってことが分かったから。


 怪我を感じさせない俊敏な動きで部屋を出て行こうとしていた背が止まる。

 振り返らずに、レグルスは告げた。


「カウス・メディア。……この国の王都だ」




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