【抱えた理由、消える理性】
手当てを施されている間ずっと、なぜエセルはこんなにも無防備なのだろうと、苛立たしい思いがレグルスの心を占めていた。
明け方が近いとはいえ、夜。
長い間共に旅をしてきた間柄とはいえ、男と女だ。
そうして治療のためとはいえ、ベッドに腰掛けた男の裸の上半身にエセルはこだわりもなく触れてくるのである。
エセルの指が素肌に触れるたびに走る甘い痺れが、レグルスの身の内にある欲に火をつけていくというのに。
(……男がどういうもんなのか、全く知らないわけじゃないとその口で叩いておいて……)
レグルスはエセルが男女の機微に全く関心がなく、とんと理解していないと思っていた。
何しろ金がもったいないからと言ってベッド一つの部屋を取ろうという女なのだ。
野宿での添い寝に関しても、そう。
寝息を立てるエセルの顔を見ながら、自分がどんな思いで堪えていたかということなど考えつきもしない。
夜の西風が運んで来る悪夢からエセルを守りたいと願った。
己の身に巣食う欲望を押し殺して、エセルに取りつこうとする悪夢を威嚇し追い払い続ける夜。
浅い睡眠は、夜が明けた後の深い眠りで補ってきた。
レグルスの寝起きが最凶に悪いのはそのせいである。
エセルに呪いをかけたテオドールはジェミニ双王の片割れとして十分な力を有していた。
ジェミニは北大陸の西端に位置する国。
王族は双子の神の血を引き、双児宮の星々から加護を得る。
双児宮は風のエレメントを司り、エセルを狙い澄ましたかのようにジェミニから吹いて来る『風』はひどく彼女を蝕むものだった。
王族としての顕著な力を持たないレグルスに取れる方法は二つだけ。
一つは、双児宮とは対極をなす人馬宮の加護を受けるこの国サジタリアスへエセルを連れてくること。国土には悠久の時、星の光がしみ込んだ蓄積があり、国独自の力に守られている。サジタリアス国内であれば、ジェミニの呪いは軽減されるのだ。
二つは、悪しき『風』をエセルに寄せ付けないこと。
能動的な力をほとんど持たない代わりに、レグルスの身体は抵抗力が異常に高かった。毒はもちろん、呪いの類の一切を無効化しはね返す。その血が放つ一種の『結界』を寄り添うことでエセルに被せ、彼女を呪いから守ろうとした。
長い旅の間、レグルスはエセルを守るために全力を注いでいた。
だが人間の三大欲求に抗い続けるのは限界がある。
睡眠欲は朝寝で補うこともできるし、軍隊時代で培った耐性で乗り切った。
しかし性欲に関しては話が違った。
野宿の時は寄り添って眠り、宿を取る時もあまり離れていては呪いに対する結界の外に出てしまう可能性があるので一つの部屋で寝る。毎日毎日、愛おしいと思う女が近くにいるというのに手を出してはならない。
いったいどんな拷問だ、これは、とレグルスが思ったことは数知れない。
理性が切れかかったことも一度や二度ではないのだ。
だからエセルを襲わないために、寄って来た女を適当に抱いて性欲を発散させていた。
パイシーズにいた頃、隊長が過保護なくらいに周囲の男どもに圧力をかけて守っていたせいか、エセルはどうも危機意識に欠けるところがある。
だから注意していれば勘づかれることはあるまい、とタカをくくっていたレグルスにとって先ほどの言葉は衝撃だった。
『旅のわりと最初の方から。隠してるから知らんふりしてたけど、意味ないねこれ。つか、レグルスも男だし、禁欲主義でも何でもないんだから普通のことじゃないの?』
いつも以上に感情の抜け落ちた、淡々とした口調。
言外に私は全く関係ないけど、と言い放つ態度に苛立ちを感じたレグルスは身勝手と責められるべきなのだろう。
それでもずっと続いているエセルへの苛立ちは増すばかりで。
正直に言えば、この時点で限界ギリギリだったのだ。
レグルスは昨日の午前中に迫って来た宿屋の娘を抱いてはいない。
あまりにも聞き苦しいエセルに対しての罵詈雑言をあの娘が吐いたせいだ。
腹立たしいことにレグルスは肩口に数か所、痕をつけられており、それでも抱いていないと主張することは説得力がなさすぎるので止めた。
他の街で女を抱いていたことは事実なのでいっそう白々しいからというのもある。
国境の森林地帯を越えるために街に来るのは久しぶりだった上に、発散しようと思った矢先に止めたためレグルスの飢餓感は募っていた。
加えて、治療を受けている今は、暗殺者との戦闘を終えた後である。
戦闘がもたらす高揚感は理性を容易く突き崩す。
だから無意識のうちに、レグルスは考えないようにしていたのだ。
シリウスがエセルに対して何かをしたのではないかという可能性を。
レグルスにとって、シリウスが女に対して性急に事を進めるという想像はしにくかったというのもある。昔からシリウスは何事にも冷静で、人に執着しないタイプだった。
理性の限界が近い、というのをレグルスは分かっていた。
嫌な可能性を考えないようにしていた。
エセルを見ないようにして欲望から目を逸らし続けた。
それでもエセルの指先が、背中に触れて――――――やがて手当てが終わったのか離れていく。
レグルスは手当ての完了を告げる声を待った。
その声を合図に、彼女を見もせずに眠ってしまおうと思っていたからだ。
――――――そうすれば、我慢できると、思っていた。
空いた間を不審に思って振り返ってしまったことが、最後の砦を破壊した。
エセルはレグルスと同じくベッドに腰掛けていた。
手当てが終わってぼんやりしていたらしいエセルは、レグルスと目が合うと何故だか慌てて首を振ろうとしたのだ。
結いきれない横髪がさらりと揺れて、左側の首筋が見えた。
見えてしまった。
耳の後ろ。柔らかな白い皮膚に散る、紅い痕が。
まるでこの女は既に自分のものになったのだと主張しているような、所有印が。
全身の血が沸騰したようだった。
決壊した激情のままに、レグルスの身体は動いた。
気がつけば真下にあるのは愛おしい女の顔。
「答えろ。シリウスに何された」
喉の奥から獣の唸り声のごとき低音がもれて、本当に己が野に生きる一匹の獣であったなら、とレグルスは思った。
寄り添って眠る時、エセルに何度口づけようと思ったか分からない。
けれど、そのたびに堪えた。
堪えるしかなかった。
一度でも口づけてしまえば、我慢は利かない。
なし崩しに全てを奪いたくなるだろうから。
けれど自分以外の男がエセルにつけた痕を見れば、長年の我慢を嘲笑うように呆気なく、理性は崩壊した。
本能のままの目線で見てみれば、エセルの怯えた顔はひどく扇情的に映る。
血の気の引いた白い頬も、小刻みに震える顎も……追い詰められた鹿みたいに怯えた瞳も。
こんなエセルの瞳を、レグルスは見たことがあった。
レグルスがパイシーズの軍に入って間もない頃、一対一で向き合えばエセルは必ずこんな怯えた瞳で彼を見たのだ。
そのくせ隊長の傍にいる時だけは安堵の笑みを浮かべる。
何年も軍にいる内に流石にレグルスにも慣れて、そんな瞳を向けなくなったので彼自身すっかり忘れていたのだ。
レグルスは瞬間的に笑いだしたくなった。
隊長のように信頼を寄せられることなど、始めから無理な話だったのだ、と。
(我慢して我慢して、それでいったいどうなった?……もういい。この女が未だに隊長のことを想っていようが、知ったことか)
凶暴な衝動そのままに、レグルスはエセルの唇に噛みついた。
補足事項
国に関することですが、皆さんお察しの通り、星座の名前がついています。
パイシーズ……魚座(双魚宮)
ジェミニ……双子座(双児宮)
サジタリアス……射手座(人馬宮)
スコルピオン……蠍座(天蠍宮)
なお黄道十二星座と十二宮は違うものですが、このファンタジーな世界では空に浮かぶ星座と十二宮の領域はほぼ一致しているという設定です。
なので作中では人馬宮=射手座のある領域、とイメージしてください。
各国は名を冠したそれぞれの星座からご加護をもらっています。
詳しくは作中でおいおい説明する予定ですが、今回の話が意味不明にならないことを祈って補足しました。