痕
どうも命令には忠実っぽいシリウスがミーファを抱っこして出て行った後、私たちもとっとと不穏な空気が漂いまくる屋敷を後にした。
大量の黒サソリだった砂で空気悪いし、アンタレスみたいな暗殺者がホイホイ来るかもと思うと震えが来ますよ。
ええ、これ以上、国家規模の危険事態に巻き込まれてなるものか。
ちなみに愛用の弓だけは回収した。
寝室の隣の書斎っぽいところのテーブルにあって、探す手間もかからなかったのが救いだ。新調したばかりの肩掛けベルトを手に取り、弓道具一式を抱きしめたらレグルスに「お前、弓に関することだけはテンション高いよな」とツッコミを入れられた。
……うるさいな!
そんなこんなで無駄に広い貴族の館(だと思う)から脱出し、夜明けが近い白み始めた空の下を二人てくてく歩いて、無事、宿に帰還したわけである。
目を血走らせた自称宿屋の看板娘が入口で待ちかまえているかも、という心配は杞憂に終わった。下働きの小僧もまだ眠っているのか、ネズミの気配しかしない食堂を通り抜け、誰にも会わずに部屋に戻ることができたのだ。
よし、ついてる。
とてもとてもハードな夜すぎて、勘違いに基づくジェラシーファイトをかわす余裕すらなかったので。
ああ……ハードだったなぁ……。
拉致られて縛られて、衝撃の事実を聞き、ウサギがしゃべり、暗殺者に大量のサソリをけしかけられたし殺されかけた。
……他人に話したらまず間違いなく頭のおかしい人扱いされそうなレベルに一般的ではない夜だった。
正直な話、体力・気力共に限界が近い。
部屋に入ってベッドを見た瞬間倒れこみたい衝動を抑えるのに苦労したほどだ。
それなのに、ああそれなのに。
何でだか私たちは不毛な争いをしていた。
* * *
「だから手当てなんて必要ねぇ傷だって言ってるだろうが!」
「そんなわけない。そんなわけはないよ、レグルス。だって血がだらだら出てたし」
「もう止まった」
「そりゃ縛って止血してあるからね! 決して治った的な意味合いではないよね!」
現在、レグルスが駄々をこねております。
傷の手当てをしたくないとか何とか。迷惑極まりない、真面目に。
疲れ過ぎて充血しているだろう目でにらみつけてやれば、ぷいっと視線を逸らされた。
…………子どもか!
「……こんな浅い傷、ほっときゃ治る。言ったろ、俺に毒は効かねぇ」
「毒は効かなくても化膿するかもしれないし。きちんと包帯巻いとかないと傷口がひきつれてひどい痕が残るよ」
「別に気にしねぇよ」
そう言って自分のベッドでさっさと休もうとする奴に、ぷちんときた。
さっきから私、沸点低いなぁ。
きっと疲れてるんだ。変な人に出会いすぎて。
レグルスが何故、手当てするのを嫌がるのかに心当たりがないわけじゃない。
私は口元に嫌な笑みを浮かべつつ、レグルスににじり寄った。
「……へぇ? じゃあもっともっと軽い『痕』のことなんか尚更気になんないはずだよね?」
「…………何が言いたい」
「別に。キスマークを見られたくないから、上着脱ぐのさっきから嫌がってる人にどこの乙女だよってツッコミ入れたいだけ」
「……っ!」
尻尾踏まれた猫みたいに、レグルスの毛髪が逆立ったように見えた。
見開かれた緑色の瞳が綺麗すぎて、そんなに予想外だったのかと毒づきたくなる。
「宿屋の看板娘、あの赤毛で色っぽい子に迫られたんでしょ。何でそーゆーことは隠したがるのか知らないけど、気にしないからとにかく傷の手当てさせて」
「…………いつから気づいてた」
「旅のわりと最初の方から。隠してるから知らんふりしてたけど、意味ないねこれ。つか、レグルスも男だし、禁欲主義でも何でもないんだから普通のことじゃないの?」
軍隊に長くいたから、男は女が欲しくなる生き物だって知っている。
むしろ健康な男なら自然の摂理だし、据え膳食わぬは男の恥って言葉もある。
私が一応女だから遠慮しているのか、来る者拒まずなレグルスは私には知られないようにしていたらしいが。今まで随分長い旅だったのに、本当に隠せていると思っていたらしいことに笑いがこみ上げてくる。
「だから別に今さらキスマーク見たくらいで騒いだりしないし。もう眠いし。……早く傷を見せて。ケンカするのもしんどい」
心の底から面倒くさそうに言ったのが効いたのか、レグルスは苦虫を噛み潰したような顔をしていたけれど大人しく上着を脱いだ。
ベッドに腰掛けた奴の隣に座り、私はとっとと手当てを始める。
なんだか先刻よりも更に疲れていた。
その傷は右の肩甲骨近くにあった。
レグルスが自分で言っていた通り、傷自体は浅い。止血のためにきつめに紐で結んでいた手巾を外しても、もうほとんど血も滲みだして来なかった。
ナイフが刺さったと言っても、投げやすいように加工された……殺傷力は毒にまかせた刃は本当に小さなものであったらしい。
この分なら変な後遺症も出ないだろうことにひどく安堵した。
そりゃそうだ。私なんぞをかばったせいで負った傷なのだから、重傷であったら夜も眠れないほどの罪悪感に苛まれるだろう。
水差しで傷口を清め、純度の高い酒……アルコールで消毒する。
旅のついでに摘んでいた薬草をもんで清潔な布で包んだものを傷口に当て、その上から包帯をぐるぐる巻いて、出来上がり。
黙々と作業したおかげで、あっけないほど手当てはすぐ終わった。
手当て完了と告げようと顔を上げた瞬間、傷だけ見ていた時には気づかなかった諸々が目に飛び込んできて息を失う。
それほどに目の前にいる生き物は美しかったのだ。
宿屋の安っぽいランプの赤い灯のためいつもよりも色が濃く見える金髪は炎を反射してゆらめくように輝く。
私が適当に切っているせいで不揃いな毛先が首筋を過ぎ、無造作に肩口に掛っている。
獅子のタテガミみたいだ。豪奢で、勇壮な。
獅子を連想させたのは髪だけではない。
何もまとっていない上半身はしなやかな野生の肉食獣そのものの優美さを備えていた。
広い肩幅に、引き締まった筋肉のついた逞しい腕。
無駄なものなど何一つない背中は、包帯が巻かれているにも関わらず、そこにみなぎる爆発的な力強さを感じさせた。
長剣を自在に繰り出すためにある剣士の体だ。
軍にいた頃から、どれほどレグルスが厳しい鍛錬を積んできたかずっと見てきた。
時を重ねるごとに増す強さも。
けれど力強い剣技を生み出す体が、これほど美しいものだとは。
……いや、想像は何度かしていた。
レグルスが行きずりの女を抱くたびに、振り払ってもつきまとう曖昧模糊とした想像。
思えば私がレグルスに本格的な手当てをするなんて、初めて出会った15歳の時以来になるのだ。パイシーズで軍にいた頃、レグルスに手当てを施す役回りは私にまわってこなかったから。
六年前は確かに少年だった身体は、しなやかに強い大人の男のものに成長していた。
「おい、エセル?」
しまった。
うっかり身惚れていて、じっくりしっかり眺めまわしていた。
後ろを振り返ったレグルスの顔が、私を凝視して固まる。
……やばい、変態みたいに観察していたのがばれたのか!?
慌てて他に傷はないか確認してただけだとか、もっともらしい言い訳を紡ごうとしていたのに、地を這うみたいな低い声に遮断されてしまう。
「…………おい、耳の後ろにある、その紅い痕は何だ」
紅い痕?
反射的に思い出したのはシリウスに首筋をなめられたこと。
いやいやいや、あれは首だし。なめられただけだし。
きっと虫にでも刺されたんだよ。
そう、言おうとしたのに。
私の口が何かを言う前に、私の身体は凶暴な速さで押し倒されてベッドに沈んでいた。
反射的につぶってしまった目を開くと、間近にあるのはレグルスの顔。
女なら誰でもうっとりすること請け合いの野性的な美貌は、爛々と光る緑の双眸があまりにも凶悪なせいで獰猛な獣そのものに見えた。
「答えろ。シリウスに何された」
押さえつけた獲物の喉首に食らいつくのを堪えているような、獣の低い唸り声。
声が孕む怒気に竦んで、息がうまく、できない。