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【その炎の名は】

 身の内を焼き焦がすこの感情を何と呼ぶのか、シリウスは知らなかった。

 彼は生来、人に執着する方ではないのだ。

 宮廷で恋愛遊戯を仕掛けられても煩わしいとしか感じず、男としての欲を処理するには後腐れのない女を選んできた。


 シリウスにとって至上の行動原理は主からの命令である。

 唯一無二の主君、サジタリアス国王の命を確実にかつ迅速に果たす猟犬であることに彼は絶対の誇りを抱いているし、これからもそれは変わることはないだろう。


 けれど今回の任務中、予想外の事が彼に起こった。

 陛下の寵姫たるミーファを奪還したのち、サジタリアスに毒針を向け続ける愚かな暗殺者どもを警戒し港町を巡回していた時のこと。

 ある女を視界に捉えたのが事の発端だった。


 初めは、変わった女だ、としか思わなかった。

 昼下がりの的当て場は上品とは言えない男どもの熱気で混み合っていて、淡々と手を上げた若い女はそれだけで異質だった。

 真っ直ぐな長い髪を一つにくくり、髪と同色の落ちついた色の瞳をした女。

 その回りだけ時間が止まっているような、凪いだ湖面の如く静かな雰囲気をしていた。

 女が挑もうとしていたのはかなりの難度の的だ。

 もし射抜けたのならば宮廷に仕える一流の射手と比べても、なんら遜色ない腕をしていることになる。


 射抜けるはずはあるまい、と思っていた。

 

 見ていると、弦を張って立ち上がった女の瞳がふいにかげった。

 酔っ払いの戯言が耳に入ったのだろうとシリウスは推測して、何故かひどく苛立たしく感じた。

 これしきの事に傷つくくらいならば、目立つ事などしなければいい。

 おそらく彼女が瞳を翳らせたまま矢を放ち、的を外したならばシリウスは彼女のことをすぐに忘れただろう。


 しかし彼は翳った瞳が一瞬にして光を取り戻す様を見た。

 自らに言い聞かせるような言葉と共に、その劇的な変化は訪れたのだ。


『それだけで、十分じゃないか』


 彼の鋭敏な感覚は小さな女の呟きを捉え、その響きはひどく胸を騒がせた。


(おそらく、あの女は弱い女だ。他愛もない悪意の一つ一つを刻んでしまうような、やわい心の)


 だが弱い心で己を律し、弓を引く姿は肺腑はいふに震えが来るほど美しく思えた。

 事実、女がその細腕に似合わぬ長弓を引き絞る姿は凛々しく、彼女を馬鹿にしていた観客さえも思わず息を呑んだのだ。



 欲しい、と彼の本能が叫ぶ。

 あの女が欲しい。

 焼け付くような渇望が瞬く間に心を占めた。



 シリウスは迷わない。

 彼の行動原理の第一位は主の命令だが、それ以外のことは全て直感に従っているからだ。

 感覚と同様に、彼の直感は優秀で間違いを選んだことなど一度としてない。

 だから女を気絶させて、国王直属の部下だけが使える隠れ家に運び、とりあえず縄で縛った。

 逃げられると不快だからだ。

 彼は気づいてしまっていた。女を気絶させ、その体を軽々と抱きあげた瞬間、知っている『匂い』が染みついていることに。


 レグルスはシリウスが唯一共に育った兄弟だった。

 クソ生意気な十三の時にクソ生意気なことを言ってボレアリス家を飛び出していった愚弟。

 八年たって図体だけは一人前になったようだが、人に慣れない野良猫のような捻くれた目つきはそのままで、今も生意気にシリウスを睨みつけている。


 毒も呪いも一切効かないという便利な体質を除けば、レグルスはシリウスに何一つ敵わない。そんな出来の悪い弟に睨まれようがいささかの痛痒も感じぬはずだというのに、今回ばかりは事情が違った。


 全ては、レグルスの背に寄り添うように立つ女のせいだ。

 彼女の存在が今まで抱いたことのない感情に火をつけ、シリウスの胸を焼き焦がす。

 彼は嫉妬という炎を、生まれて初めて感じていた。



「俺は離れろと言ったはずだが。聞こえなかったのか、愚弟」

「……何でお前の指図を受けなきゃならねぇんだよ、シリウス」

「俺が不快だからだ」


 半眼でレグルスを睨みつけ、シリウスは剣を構えた。

 毒サソリをいくら斬り捨てようとも濁ることのない銀色は国王から下賜された名剣たる証だ。澄んだ刃はシリウスの凄烈な気迫を帯びて、更に輝きを増す。

 対するレグルスも剣を下段に構え、牙を剥いた獣の如き殺気を放つ。


 まさに一触即発。

 触れれば斬れるようなピリピリとした空気が部屋に満ち――――それを打ち破ったのは争いの焦点である女だった。


「すいません、兄弟喧嘩なら後にしてください」


 なんだか妙に迫力のある声だった。

 レグルスの背からあっさりと姿を現した女――――エセルは常であれば無気力なほど凪いでいるはずの瞳に剣呑な色を宿しており、雰囲気が一変している。

 一言で言えば、目が据わっていた。


「何でいきなり殺し合いでも始めるみたいな雰囲気になってるのか知りませんが、とりあえずレグルスの手当てが先です。止血しなきゃ止血」

「お、おい……エセル?」

「黙れレグルス。とりあえず服の上からでも止血する」


 言い捨てるとエセルは手巾を傷口に当て、圧迫止血法を試みる。

 そうしてレグルスの背に手を当てながら、じろりとシリウスに視線をやった。


「シリウス、この状況で真っ先にやらなきゃならないのはミーファの無事の確認じゃないんですか?」

「――――――っ!」


 正論だった。

 ぐうの音も出ないほど、その通りな意見だ。


(俺としたことが陛下のめいを忘れるとは……)

 

 シリウスに与えられた命令はミーファを無事に奪還することである。

 敬愛する主の宝が心身共に損なわれていないかどうかを確かめ、もし万が一取り返しのつかない傷を負ってしまったのならば死を持って償う。その覚悟はもちろんあった。

 それなのに、である。

 訳も分からぬほどに身の内を焼く感情に振り回されて、ミーファの存在さえ失念していたのだ。


 今までにない失態にシリウスはうろたえ――――だが一瞬で冷静な顔を取り戻すとミーファに頭を垂れた。


「……お怪我はございませんか、ミーファ様。そしてこの失態、無事に陛下の元へ貴方様を送り届けたのちに如何様な処分も受けますゆえ、今は御寛恕を願いたく……」

「ふ、ふぇっ! い、いいんですよシリウス様! わたしの事はお気になさらず、恋の鞘当ての続きをどうぞ!」

「そのような訳には参りません」


 部屋の隅っこでドキドキしながら事の成り行きを見守っていたミーファは、突然こちらを向いた一同の視線に目を白黒させた。

 ウサギ大慌てである。ぴょんと跳ねる仕草が愛らしい。

 けれど約一名、そんな感想を持てない人物がいた。

 いつもと違うエセルにちょっとびくつきながら大人しく止血を受けているレグルスが、呆然と呟く。


「ウサギが喋ってるぞ……」

「ミーファは王族の血を引いてるんだって。……そういうの、分かるんじゃないの?」

「アンタレスのは嫌な感じがしたからだ。クソ親父と顔も似てたしな」

「……後で全部説明してもらえる?」

「…………分かったよ」


 顔を近づけ合ってこそこそと話をするエセルとレグルスの姿に、やはり怒りに似た感情が湧いてくるのをシリウスは止められない。

 長年一緒にいた者同士だけが持つ親密さが、そこにはあった。

 今すぐ異母弟を斬り捨てたい衝動を抑えつつ、シリウスは口を開く。


「暗殺者をわざと逃がした甘さは腹立たしいが、借りは借りと認めよう。この場は見逃してやる、レグルス」

「……シリウス、お前あいつがクソ親父の子どもだって気づいてたよな?」

「当然だ。匂いと名ですぐに分かる」

「殺す気だったのか?」

「愚問だな。陛下の敵は殲滅することこそが俺の使命。……俺にはお前の甘さの方が理解できん。半分だけ血が繋がっているとはいえ、共に育ったわけでもない者に兄弟の情を感じるのか?」

「そういうわけじゃねぇよ。……殺すのは気分悪ぃだけだ」

「そこが甘いと言っている」


 昔からこの弟は愚かだったと、シリウスは回想する。

 人になつかないくせに妙に人を恋しがる猫のような、矛盾した性質を持つのだ。


(そうして余計な事をぐだぐだと考える――――)


 募る苛立ちを押し殺す。

 現在の最優先事項はミーファを無事に王宮へ連れ帰ることだ。

 女を巡ってこの場を戦いの場とするには、いつ新たな刺客が来るとも分からない今の状況は差し迫り過ぎている。


 ミーファと神器を抱え、部屋を出てゆこうとしたシリウスは最後に一つ、レグルスに言葉を投げた。


「もうじき太陽が双児宮そうじきゅうに入る。――――その意味を知っているのだろうな、愚弟」


 レグルスはぐっと詰まり、緑の双眸の色を濃くした。


「……知ってるに決まってんだろ。警戒はしてる」

「自分の力を過信するな。お前は出来損ないだと散々言われていただろうが」

「何が言いたい」

「今、俺がエセルを連れ去った方が安全だろうと言いたいだけだ」

「うるせぇよ。さっさと失せろ」

「口だけは一人前だな」


 まぁいい。とシリウスは嘆息する。

 自分の脚ならばすぐにでも駆け戻ってくることができる。

 異変を感じ取ったならば主の許可を仰いで戻ることを心に決めつつ、シリウスはエセルの姿をもう一度目に納めると、今度こそ部屋を後にした。




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