君の手が頬に触れて
ドクドクと、鼓膜を突き破るように心臓の音がした。
なんで、レグルスがここにいるのか分からない。
頭はレグルスの背に何が刺さっているのか考えるのを拒んで、熱をはらんで沸騰するかのように痛んだ。
そうして煮えたぎった思考から吹きこぼれた記憶が、どっと私に押し寄せてくる。
戦場ではすぐ隣にいた仲間が倒れる瞬間を幾度も見てきた。
深手を負い、命が消えていく仲間の手を握っていたこともある。
血と土煙に沈んだ世界で生き延びるには、私たちの命はもろすぎて手のひらから砂のようにこぼれていってしまう。
そしてこぼれ落ちた砂を取り戻す術はないのだ。
私はいつだって、自分はいつ死んでもおかしくはないと分かっていた。
弓の腕前以外に取り柄のない、非力な兵士。
しかも女の身。
いつ終わるともしれない戦争の中で、私もいつかこぼれた砂の一粒となるのだろうと、漠然と思っていた。
けれどどんな激戦が続く日々の中でも、レグルスが死ぬなんてことは不思議なくらいに頭に浮かばなかったのだ。
自分が死ぬところは想像がついてもレグルスが倒れるなんて夢にも思わず、戦場を駆け抜け血まみれになっても光を失わない彼がただただ眩しかった。
国を追放されてから、レグルスと二人、旅をした。
穏やかとは言えないけれど、戦とは無縁の日々で――――――私は忘れてしまっていたのだ。
命の終焉はあっさりと、唐突にやってくることは覚えていた。
しかし『どんなに強い人間にも例外なく』死は訪れるという事実は――――――意図的に忘却の彼方へ押しやっていたことに気づく。
西日の中を黒い土煙がもうもうと舞っていた、あの戦場。
隊長が斬り捨てられ、地に倒れ伏した光景がまざまざと蘇った。
私はまた、失うのだろうか。
――――――――嫌だ!
あの戦場からずっと麻痺していた魂が血を噴き出すように全ての感覚を取り戻し、叫ぶ。
――――――嫌だ嫌だ嫌だっ! 怖い、怖いよ……。
レグルスを失うかもしれないと考えただけで、心臓を切り刻まれるような痛みが走る。
息をすることさえ辛い。
耐えられない痛みの中に一人取り残されるくらいならば、本当に心臓が止まったらどんなにかいいだろう。
ふいに熱い手のひらが私の小刻みに震える頬に触れた。
輪郭を確かめるようになぞる指先に悪夢を拭ってもらったように急に息をするのが楽になり、今まで微動だにできなかったことを自覚する。
「怪我はねぇな。……下がってろ」
痛みを耐えるように眉をしかめていても、生命力に溢れた瞳は少しも損なわれていなかった。
形の良い口元には、不敵な笑み。
狩りに出る前の猛獣の笑みだ。
レグルスは言うやいなや、俊敏に身をひるがえし銀色の何かを投げ放った。
視界によぎった血の滴に、それが彼の背に刺さっていたナイフだと知る。
鋭い音を立てて飛んだナイフは、こちらに迫っていたアンタレスへの牽制だった。
ダガーを振りかぶり跳躍してきたアンタレスが空中で身をひねる。
ナイフを紙一重で避けた暗殺者の少年は琥珀色の目を嫌そうに眇めた。
「あっぶねー。つーか、見知らぬおにーさん、アンタ何で死なねーわけ? ナイフに仕込んであんのは象でも一瞬で殺せるってぇ貴重な毒なんだけど?」
「は、毒なんざ俺にゃ利かねえよ」
「マジでか。……オイオイ勘弁してくれよー。チートなのはそこの銀髪犬だけで十分だっつーの」
部屋の奥に目をやれば、群がる黒サソリに舞うような剣技で対処しているシリウスの姿。もはや押し寄せる雲霞のごときサソリの大群を剣さばきだけで駆逐していくのは、ある意味恐ろしい芸当だ。
シリウスの相手を、十分な数出現したサソリにまかせ、アンタレスは目的を達成すべくこちらに来たのだろう。
そもそもの目的。
即ち私に抱っこされているミーファを殺すために。
腕の中にいるふわふわした生き物の温もりを守らなければと思うのに、竦んでしまった足は思うようには動かず、私はただ戦いを見つめていた。
ランプの明かりにも煌めく金色の髪をなびかせ、レグルスが駆ける。
獲物に食らいつく獅子のごとく、猛然とアンタレスめがけて剣を振るう。
剣線は技巧を尽くしたものではなく、ただひたすらに真っ直ぐだった。
その分、ひどくシンプルで速さと力強さを秘めた一撃。
足元にうごめく毒サソリを蹴散らし、危険なはずの毒虫にも頓着しない。
一切の迷いのない、決然とした剣が一閃する。
ギィィィンッ!
激烈な音が響く。
レグルスの剣は禍々しいダガーと斬り結び火花を散らして――――そのままダガーごとアンタレスの体を吹っ飛ばしていた。
少年の体が壁に叩きつけられ、ずるりと床に落ちる。
すぐに立ちあがったもののアンタレスの手にダガーはなく、部屋の中央に転がっていたそれをレグルスは数匹の黒サソリごと隅へ蹴り飛ばした。それから長い足に這い上ってきていたサソリを面倒くさそうに振り払い、アンタレスに向かって剣を構える。
「一つ聞く。てめぇの親父はやたら色が白くて目が紅くて、蛇を首に巻いてる男か?」
「……っく……ははっ、いきなり何? オレ親の顔なんて知らないけど?」
「自分がなんで王族の力を使えんのか、疑問に思ったことはねぇのか?」
「スコルピオンの後宮はすげー規模だかんね。王族の血を引いた人間がわらわらいても不思議じゃないっしょ。たまたま血を受け継いでいて、力を持ってるのが暗殺者のオレだったってだけだろ?」
「条件が重ならねぇ限り、いくら血を受け継いでても力は使えねぇよ。血を継いでるだけでいいなら力を使える奴がもっと大勢いるはずだ」
「……悠長だねー、見知らぬおにーさん。言っとくけど、アンタがオレに勝てたのは運だよ。単にクスリの効果が切れる時間がちょーどさっきだったってだけ。……今オレを殺さなかったこと、アンタきっと後悔するよ」
呪いのような言葉とは裏腹にあっけらかんとした笑みを浮かべて、アンタレスは何事かを呟いた。
その小声は聞き慣れない響きで……黒サソリを召喚する時の韻律に似ている。
刹那、床にできていた血の染みにぐぷりとアンタレスの体が沈みこむ。
そう思った次の瞬間には、少年の体は部屋から消えていた。
もはや妙なことが起こりすぎていて驚けないが、不可思議なことは連続して起こった。
乾いた音を立てて、あれほどいた黒サソリが全て砕け散ったのだ。
あとにはただ、赤黒い砂のようなものが残っているだけ。
「レグルス!」
こんなに必死に叫んだのはいつ振りだっただろう。
めったに出さない大声に喉の奥がひりついて、急いで駆け寄ったことで痛みは更にひどくなった。
「傷を、手当しないと……」
上着にまで血が滲んでいる背から視線がそらせない。
手を伸ばそうとした瞬間に、気を利かせてくれたミーファがぴょんと跳ねて腕からすり抜けていった。
「そんな今にも死にそうな顔すんな。これぐらいの傷なんともねぇよ」
「でも毒は? 毒が塗ってあったってアンタレスが言ったはず……」
その言葉になぜかレグルスの眉間の皺が深くなった。
「アンタレス?」
「さっきの暗殺者の名前。軽い調子で自己紹介してた」
「…………っち、予想通りかよ。あんのクソ親父ほんっとうに迷惑だな」
忌々しく吐き捨てた言葉の意味がよく分からない。
けどそんなことよりも私はこれ以上レグルスの体から血がこぼれ落ちるのを止めたくて、強引に背中にまわった。
「とにかく止血しないと。毒の心配がないなら尚更すぐにでも」
「あ、ちょ。おい、服を剥ごうとするな!」
「上着脱いで。手当ができない」
もどかしくてシャツの襟元に手をかけると、なぜか顔を赤らめたレグルスがそれを止めようとする。
あせった調子で私の手首をつかみ、そこに視線を這わせた瞬間、彼の柳眉が跳ねた。
「…………これは?」
私の手首は縛られていた名残か、くっきりと紅くなっていた。
「いや今はどうでもいいし。それよりも止血」
「…………どうでも良くねぇよ」
恐ろしく不機嫌な声が降って来たかと思うと、その声を紡いだ唇が私の手首に近付いてきて…………
「離れろ、愚弟」
凍てついた夜よりもなお冷然としたシリウスの言葉と共に、殺気がぶつかって来る。
強烈な殺気から隠すように背に庇われてレグルスの血の匂いを間近に嗅ぎながら、早く止血しないと、とそればかりが私の頭をよぎっていた。