【八年振りの再会】
戦闘シーンと流血描写があります。
苦手な方はご注意ください。
ひどい苛立ちを押し殺しながらレグルスは夜闇に沈んだ街を駆けまわっていた。たとえ一晩中走り続けたとしてもへばるような体力はしていないが、自分のしていることのあまりの効率の悪さに彼は舌打ちする。
人の多い酒場などで長弓を背負った焦げ茶色の髪の女を見かけなかったかと聞きまわり、ようやく得られた情報は「昼過ぎごろ的当て場で今まで誰も射抜けたことのない『毒サソリの心臓』に見事命中させた女がいた」ということだけ。しかも肝心のその女は賭け事が終わるや否や、賞金をつかんでとっとと姿をくらませたという。
「……シリウスの奴なら、こんな時間食うまでもなく見つけられんのにな……くそっ!」
この国にいる異母兄ならば、造作もないことだ。
いや、それよりもレグルスが忌々しいと思うのは自分の能力がとんだ『できそこない』だということだった。……彼の身に流れる血に反して。
幼い頃から慣れ親しんだ、自分に対する苛立ちの感情。
だが今は苛立ちを感じる時間さえ惜しい。
嫌な予感がするのだ。……とてつもなく嫌な感じのざらつくような予感が。
レグルスは己の経験上、嫌な予感『だけ』は外さないと確信していた。
(だいだい、あの時もそうだ。嫌な予感がして引き返してみれば、あの百回ぶっ殺しても足りねぇぐらい忌々しいジェミニの脱走兵どもが……)
エセルを山小屋の床に押さえつけ服を裂こうとしていた男を見た瞬間、全身の血が沸騰したことを今でも覚えている。
思い出せば今もなお炎を放つ怒りが、レグルスのまとう雰囲気をひどく凶悪なものにさせた。運の悪い酔っ払いがレグルスにぶつかりそうになり、視線があっただけで「ひぃ」と気絶したほどである。
レグルスは勘を頼りに走っていた。
正確には「嫌な予感がはっきりと感じ取れるような方角へ」だ。
それはひどく曖昧な感覚だったけれども、情報が尽きた以上、これしか頼るものはない。
潮の匂いが濃い霧を作る船の墓場のような真夜中の波止場で、嫌な予感は確信に変わった。むっとする潮風に紛れ込む血臭と死臭。レグルスにとって長く身を置いていた空気が漂っていた。
月明かりしか照らし出すもののない船着き場は、今や血なまぐさい戦いの舞台だったのである。舞台には既に事切れた者が数人倒れ伏し、否応なく死の気配を蔓延させている。鋭い剣戟が鳴り響く中、舞台の主役として剣を振るうのは……レグルスにとっていくら月日がたとうとも見間違えるはずのない男だった。
「よりもよって、なんでお前がここにいんだよ…………シリウス」
苦々しい声は波音に呑まれて消えた。
* * *
シリウスの剣技は圧倒的の一言に尽きた。
まだ動いている敵は三人。
いずれも暗色の装束に身を包み、猿のようなと形容するしかない人間離れした動きを見せる。ある者は四肢を使って跳躍し、別の者は停泊した船の側面を走り、巧みにシリウスを包囲しようとする。明らかに暗殺という特殊技能に熟練した者たちの動きだった。
対するシリウスはそれを迎え撃つだけだ。
そう、それで全てが決する。
同時に、前方から、背後から、そして頭上から繰り出される刃をかわす素振りすら見せない。
ただ流れるような動きで己を中心として剣を閃かせた。
夜空を裂く青白い流星の軌跡のごとく、美しい斬撃。
しかしその美しさと対比するように、それがもたらしたものは凄惨だった。
三人の暗殺者はみな剣ごと身体を両断され、六個の『物体』に成り下がったのだ。あまりに鋭すぎる斬撃の影響なのか、一拍遅れて血しぶきが上がる。
血の花が咲く中心にいたというのにシリウスはもう場所を移していた。返り血ひとつ浴びずにまるで最初から気づいていたという顔で、レグルスに近付いてくる。
(……どんだけ腕を上げりゃ気が済むんだよ、こいつは……)
レグルスは歯噛みする。
8年前、レグルスがボレアリス家を飛び出した頃すでにシリウスは剣聖と呼ばれていた。たった17歳の少年が、である。
剣技においても、血に宿る特殊な力においても、人を従える能力においても何ひとつ、レグルスがシリウスに勝てると思えたものはなかった。むろんレグルスは生来の負けず嫌いだったから四歳という年齢差を考慮していなかったという見方もあるのだが……それでも隔たりが大きすぎた。
自尊心が腐り落ちる前に息ができる場所へ逃れたいと願ったことが、サジタリアスを出る一因となったくらいには。
先に口を開いたのはシリウスだった。
レグルスの記憶にあるのと寸分違わない偉そうな口調の、低い声が響く。
「久しいな、愚弟。野良猫暮らしに飽いて戻って来たか」
「んなワケあるか。……それに俺が戻る場所はボレアリス家じゃねぇ。あの家と俺はもう縁切れたはずだろ」
「母上はお前を気に入っているからな。養子縁組を解消したという事実はない。だからお前が嫁を連れて戻ってきて分家を増やそうが、構いはしないはずだったのだが……」
ぞわり、と首筋に違和感が走る。
存在しないタテガミが逆撫でされているような気分にレグルスは悪態をついた。
嫌な予感の根源はこれだったのか、と。
「エセルというあの女は俺のものにする。お前の嫁だろうが何だろうが知ったことではない」
「ふざけんな」
「俺は冗談など言わない。忘れたのか?」
忘れるわけがない。この異母兄はいつだって本気で、だからこそ一番性質が悪いことをレグルスは骨身にしみて知っていた。
「……アイツを、どこへやった」
「相変わらず能力を得ることはできないままか。仮にも天の獅子の血を引くというのに、嘆かわしいことだな」
その言葉はレグルスの中でくすぶっていた炎を容易く爆発させた。
シリウスにしてみれば事実を口にしたまでのこと。挑発ですらないと分かってはいたが、レグルスの苛烈な精神には十分な起爆剤となったのだ。
「……っ、うるせぇよ!」
唸るように吼えて、レグルスは剣を抜き放った。
剣を鞘走らせる勢いそのままに一瞬で間合いを詰め、下段から鋭い斬撃を繰り出す。
常人ならばあまりの迅さに刃の煌めきを捉えることもできず、喉笛をかき斬られていただろうが、シリウスは最小限の動きでその一撃を受け止めた。
交錯した二つの剣が火花を散らす。
両者とも引かずそのまま鍔迫り合いとなった至近距離で、シリウスが表情も変えぬままつぶやいた。
「太刀筋はだいぶマシになったと褒めてもいい。……だが、俺には敵わん」
「ほざいてろ。アイツに手ぇ出す気なら今ここでぶっ殺してやる」
「俺を殺すには百年ほど修行が足りないのではないか?」
絶妙と言うしかない呼吸で斬り結んでいた刃を離し、シリウスは新たな斬撃を振るった。研ぎ澄まされた剣がレグルスの首を薙がんとする軌跡を描く。
間一髪、飛び退って事なきを得たものの、レグルスの背に冷たい汗が流れた。
金色の髪がひと房切られ、はらはらと空間に散る。
この一撃を避けられたのはパイシーズでの軍時代に隊長から鬼のような訓練を受けた賜物だろう。でなければ確実に首が落ちていた。
「剣を引け。流石にお前を殺すのは寝覚めが悪い」
「今さらそれを言うのかよ」
「俺も驚いた。殺し合いができるほどお前が腕を上げたのか、俺の心の持ち様なのか……どうにも手加減が上手くできないようだ」
「とことんムカつく野郎だな……」
悪態をつきつつもレグルスは攻めあぐねていた。
シリウスに隙はない。そしてシリウスに打ち勝つ可能性を見出すこともできなかったからだ。
鮮やかな緑の瞳で異母兄をにらみつけていると、レグルスの耳は近づいてくる足音を拾った。剣を構えたまま、横目に確認すれば駆けてきたのは6人ほどの男たちだ。町人の服を着てはいるが、雰囲気からして訓練された軍人と分かる。
「シリウス様! その男は……?」
「手出しは無用。これは俺の愚弟だ。……それよりも負傷者の安否を報告しろ」
シリウスの言葉に驚きの声をもらしていた部下たちだったが、それでも背筋を伸ばし声を張り上げる。
「ご命令通り負傷者の救護は完了いたしました! 重傷者3名。残りの6名は命に別状はないとのことです!」
「そうか……。では下がれ。毒サソリの始末は完了した」
「ですが…………」
「下がれと言っている」
部下たちの困惑にもシリウスは頓着しない。
冷静な顔でレグルスと対峙していたのだが、次の瞬間、突然眉をひそめた。
風の匂いを嗅ぐように首を巡らせると、街の方へ顔を向ける。
「……神器が、開いたのか? 陛下の『宝』の匂いが……」
シリウスの行動は迅速だった。
あっさりと剣を鞘に納めると街へ向かって駆けだしたのだ。
まるで部下への指示を出す間も惜しいという急ぎぶりに、誰もが唖然とした。
その状態からいち早く我に返ったのはレグルスである。
「ってオイ! どこまで勝手なんだお前は! つーかエセルをどこにやった!」
本気で嫌なことに異母兄の傍若無人っぷりに磨きがかかっていることを確信しつつ、レグルスはその背を追いかけて走りだした。