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永遠の鳥籠

作者: 湯月 睦
掲載日:2026/10/24

 影に溶け込むように、一人の青年が立っていた。

 肩あたりで切り揃えられた銀の髪、片側の耳横だけ細い三つ編みが垂れる。瞳は琥珀からペリドットのグラデーションで、目元と口元の印象的な黒子が白い顔に妖艶さを醸し出している。

 

 身につけた衣類はこの世界では見たことがない。そう、前(・)世(・)で(・)な(・)ら(・)ば(・)あ(・)る(・)けれど、青年の容貌は明らかに異世界の人間だ。

 

 開け放たれた扉から差し込む光で、じゅくじゅくとした傷口のような湿った床が照らし出され、ブルーメはこんな場所に閉じ込められた惨めな姿を、この美しい青年に見られていることを恥ずかしく思った。

 

 青年の顔は微笑むかのように口角が上がり、ブルーメを見下ろす。

 

「見つけた。私の小鳥」

 

 彼が口にした瞬間、部屋中に靄のようなものがかかり、ブルーメの意識は闇に沈んだ。


*****


「えーと、このクラスに寒河江さんっている?」

 トイレ帰りで教室に入ろうとした葵の背後から、優しげな男子の声がした。まさか自分に話しかけてるとは思わずに、そそくさと席に着こうとドアを開けようとすると「あ!」と件の男子らしき声がした。

 

 何かあったのかな? と振り返ると、割と近い距離に長身で細身の男子が立っていた。

 男子とは普段関わることのない地味子の葵にはあり得ない距離に少しギョッとする。相手もしまった、みたいな顔で一歩退いた。

 

「あ、ビックリさせてごめんね? 俺……じゃなくて、僕はD組の風早って言うんだけど。このクラスの体育祭の委員て寒河江さんだよね? 呼んでもらっていい?」

 

 目の前にいる風早くんは小首を傾げ、申し訳なさそうに、微かに耳を赤くしてこちらを見ていた。

 葵は思わず呆けた顔でこくこくと頷く。風早くんは確か見かけたことがある。D組は工学専攻で校舎が違うからあまり会うことはないが、体育祭や文化祭のような全体行事では専攻関係なく開催されるので名前は知っていた。

 

——こんなカッコいい人だったんだ……。

 

 葵の知る風早くんは、黒セル縁の大きなメガネと飾り気のないボサボサの髪の毛、背は高いけどヒョロヒョロして……お世辞にもカッコいいとは無縁だったように思う。ところが今は、メガネもないし前髪も左から右に流して綺麗な眉と少し色素の薄い灰色がかった大きな瞳が見える。睫毛も長く、儚い美人という印象の美貌につい見惚れてしまった。

 

 不思議そうに、けれどどこか嬉しげにこちらを見つめ返す風早くんの視線にハッと意識を取り戻す。このままでは急に男子を見つめる変態だと思われてしまう。慌てて教室に入り、寒河江さんに声をかけた。

 

 その日以降、何かと風早くんを見かけるようになった。あの時はメガネしていなかったけど、その後は元のイメージ通りボサボサの髪に大きなメガネの影の薄い男子のままだ。

 

 それでも、この間のメガネなしで、前髪の隙間から覗く瞳が印象的過ぎて脳裏に焼きついて離れない。

 ときどき廊下ですれ違うたび、彼もまた前髪の奥から、そっと自分を盗み見ているような気がしていた。

 密かに風早くんを見つめるようになってから、あることに気がついた。

 

 同じように彼を熱心に見つめ、牽制するように睨んでくる存在。D組の叶さんだ。

 背が低くて、華奢で、目が大きくて可愛い。工学専攻の姫って呼ばれてる女の子だ。多分風早くんが好きなんだろう。いつもしなだれかかるように腕を組んでいて、でも彼女ではないらしい。そして、風早くんに近づく女子が許せないって感じなんだろう。

 

 違和感を覚えたのは割とすぐだった。

「あ、葵ちゃんだぁ」

 ある日の昼休み、購買から戻る途中に廊下の向こうから叶さんが風早くんと並んで歩いてきた。

 叶さんは葵に気づくなり、ぱっと顔を輝かせる。いきなり名字ではなく下の名前で呼ばれたことに忌避感はあるものの、何も言えず下を向く。すると、気にせず叶さんが話し始めた。

 

「風早くん、草壁さんは知らないよね? 私、最近仲良くなったんだ」

「へえ、そうなんだ。この間、寒河江さんを呼んでくれた子だよね? 叶と友達って知らなかったな。よろしくね」

 違う……と言いかけた葵を遮るように叶さんが話し始める。

「……ねえねえ、風早くん。昨日の試合、惜しかったよねぇ」

「ああ、最後のやつ? 叶が前に出すぎたからでしょ」

「えーっ! だって風早くんがカバーしてくれると思ったんだもん!」

「いや、僕もリロード中だったし」

「もう! そういうの先に言ってよぉ!」

 ぽかぽかと風早くんの腕を叩きながら、叶さんが笑うと、風早くんも、少し困ったように笑っていた。

 

 葵はその光景を、ぼんやりと見つめてしまった。

 ゲームの話? 確か、風早くんはPCでFPSとかなんとかをやっていると聞いたことがある。叶さんも同じゲームをしているらしい。

 二人は放課後、ボイスチャットを繋いで何時間も一緒に遊ぶほど仲がいいのだとか。

 そのこと自体は、別におかしくない。同じ趣味の友達なんて、いくらでもいる。ただ——

 

「あ、そうだぁ」

 叶さんが、何かを思い出したように葵を見た。

「葵ちゃんって、ゲームする?」

「……え? あんまり、しないかな」

「そっかぁ。じゃあ分かんないよねぇ」

 にこにこしながら、叶さんは風早くんの腕に自分の腕を絡めた。

 

「私と風早くん、いっつも一緒にゲームしてるんだよぉ。私が配信もやっててぇ……昨日も夜中の一時くらいまで遊んでたんだよね?」

「いや、十二時半くらいじゃなかった?」

「えー、細かい! あ、でも風早くん、そのあとも私の配信見てくれてたでしょ?」

「まあ、ちょっとだけ」

「ほらぁ!」

 嬉しそうに笑う叶さんが葵に目線を向ける。

 

「風早くんってね、ゲームしてるときは結構口悪いんだよ? 普段はこんなにおとなしいのに。ふふ、葵ちゃんは知らないよねぇ」

 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。もちろん知らない。葵が知っているのは、廊下でときどき見かける、眼鏡をかけたおとなしい男の子だけだ。

 彼がどんなゲームをして、どんなふうに笑って、夜中に誰と話しているのかなんて……知るわけがない。

「……そうなんだ」

 曖昧に笑うと、叶さんは満足そうに目を細めた。

 

「うん! 私たち、ずっと固定で組んでるんだぁ。ね、風早くん?」

「ん? まあ、最近はそうだね」

「えへへ。だからね、風早くんを取られちゃうと困るんだよねぇ」

 冗談めかした口調で、けれどその瞳だけは少しも笑っていなかった。

 

——取るって、何を?

 

 そもそも葵は、風早くんと親しく話したことさえないのに。突然絡まれたことに戸惑っているうちに、二人は自分たちの校舎へと帰って行った。

 

 それから、叶さんは何かにつけて葵の前で風早くんとの親密さを見せつけるようになった。

「風早くん、昨日私のために設定見直してくれたんだよぉ」

「私のPCの調子悪くなったときも、通話しながら直し方教えてくれたの」

「そうそう! 風早くんって、ゲームだと私のこと下の名前で呼ぶんだよねぇ」

 聞いてもいないのに、話しかけてくる。風早くん本人がいないときほど、叶さんは饒舌だった。

 

 ある日は、わざわざスマホを見せてきた。画面には、ゲームの戦績が表示されている。どうやら二人のプレイヤー名らしい。

「見て見て! 昨日、二人でめっちゃ勝ったんだよ!」

「……すごいね」

「でしょぉ? 風早くん、ほんっと強いんだから。私がやられそうになると、すぐ助けに来てくれるの」

 叶さんはうっとりと微笑んだ。

「私が『助けて』って言うと、絶対来てくれるんだよね」

 そして、ふと声を潜めた。

「……葵ちゃんが呼んでも、来てくれるかなぁ?」 

 ハッとして顔を上げると、叶さんは何でもないように笑って言った。

「なんちゃって!」

 くすくすと笑う彼女を前に、葵は何も言えなかった。

 

 別に、風早くんと付き合いたいと思っていたわけじゃない。ただ、綺麗な目だと思った。 

 メガネを外したときの、あの灰色がかった瞳が忘れられなかった。それだけなのに。 

 どうして、こんなふうに言われなければならないのだろう……。何も言えないまま時間だけが過ぎていった。

 

 最初は、教室での小さな噂だった。

「葵ってさ、D組の風早くんのことストーカーしてるらしいよ」

「え、怖っ」

「叶ちゃんに嫌がらせしてるんだって」

 身に覚えなんてない。それでも、葵が何か言おうとすると、みんな露骨に目を逸らした。

 

 友達に囲まれ、大きな瞳に涙をいっぱい溜めた叶さんが、これ見よがしに葵の方を見て言い募る。

「葵ちゃんのこと、悪く言わないであげて……。きっと、風早くんのことが好きなだけなんだよ」

 まるで自分が、悲劇のヒロインであるかのように。

 

 けれど、廊下ですれ違ったとき、叶さんは葵にだけ聞こえる声で囁いた。

「ねえ、葵ちゃん」

「……」

「私、風早くんと昨日もゲームしたんだぁ」

 そして、にっこり。

「葵ちゃんの話もしたよ」

「……何を?」

「んー? 内緒♡」

 叶さんは、楽しそうに唇に指を当てた。

「でもね、風早くん、黙って聞いてくれたよ」

 それが、何を意味するのか……葵には分からなかった。

 

 ある日の放課後、叶さんに呼び出された。場所は、工学棟の端にある人気のない階段だった。行かないという選択肢もあったが、こんな風に嫌がらせが続くことについて、一度は話し合わなくてはいけない。なけなしの勇気を抱えて向かうと、彼女は一人階段の上で待っていた。

 

「ねえ、葵ちゃん。いい加減にしてくれない?」

 叶さんは、いつもの甘い声で言った。

「……何を?」

「だからぁ、風早くんのことだよ。わかってるでしょ?」

 なぜか呆れたような声音で諭すように語りかけてくる。嫌がらせは冤罪なのに不気味で仕方がない。こちらが何も言えないでいると、叶さんは小さくため息を吐いた。

 

「私たち、毎晩ゲームしてるんだよ? 毎日通話してるし、休日もずっと一緒に遊んでるの。風早くんの好きな武器も、苦手なマップも、緊張すると無口になる癖も、全部知ってる」

 叶さんは一歩近づいた。

「葵ちゃんは、何を知ってるの?」

「……別に、私は」

「何にも知らないよね?」

 笑顔が消えた。

 

「それなのに、何で風早くんを見るの?」

 声が、少し低くなった。

「何で、あの人もあんたを見るの?」

 葵は息を呑んだ。

「……そんなの、私に言われても」

「うるさい」

 ぴしゃりと遮られた。

 

「あのね、葵ちゃん。私、風早くんとゲームしてるときが一番楽しいの」

 彼女は胸の前で指を組み、うっとりとした表情を浮かべる。

「私が失敗しても、怒らないし。私がやられたら、助けに来てくれるし。『ナイス』って褒めてくれるし……なのにね」

 すっと、瞳が細くなる。

「あんたの名前を出すと、急に黙るんだよ」

 葵の心臓が嫌な音を立てた。

 

「『あの子、何なの?』って聞いても、ちゃんと答えてくれないの。『関係ないでしょ』って、すごい冷たい顔して」

 叶さんの口元が歪んだ。

「……何で? 私があんなに尽くしてるのに、何であの子の話になるとそんな顔するの?」

 それは葵に向けられた質問ではなかった。答えなんて、最初から求めていない。

「私のほうが、ずっと近くにいるのに」

 叶さんは笑った。ひどく、歪んだ笑顔だった。

 

「だからね、葵ちゃん」

 すっと、葵の制服のリボンに指が伸びた。

「あんた、消えてくれない?」

 

 それからの毎日は、地獄だった。ロッカーに入れてあった教科書はすべて出されて切り刻まれていた。

 体育の授業から戻ると、制服が水浸しになっていた。

 クラスのグループチャットから、いつの間にか外されていた。

 

 誰も、助けてくれなかった。叶さんが泣くからだ。

「私、葵ちゃんと仲良くしたかっただけなのに……」

 その一言で、葵が何を訴えても、ただの逆恨みになった。しかも、叶さんの嫌がらせは学校の中だけでは終わらなかった。

 

 知らないアカウントから、SNSにメッセージが届くようになった。

『人の男に手を出すな』

『叶ちゃんに謝れ』

『学校来んなよ』

 夜中まで通知が鳴って、スマホを切っても眠れなかった。

 

 翌朝になれば、また学校に行かなければならない。

 そして、学校に行けば叶さんがいる。

「あ、葵ちゃん。おはよぉ!」

 いつもと変わらない、甘ったるい声。その笑顔を見るだけで、胃が締めつけられた。

 

 ある日、廊下で風早くんとすれ違った。

「……草壁さん?」

 彼が足を止めた。眼鏡の奥の瞳が、切羽詰まったように揺れていた。

「最近、元気ない? ……何か、困ってることない?」

 その言葉に、喉が詰まった。

 

——知ってるの? それとも、何も知らないの? 叶さんから、何を聞いたの?

 

 聞きたいことは山ほどあった。


 でも——

「風早くーん!」

 遠くから、叶さんの声が響いた。

「今日も帰ったらランクマ行こ! 昨日の続き、絶対リベンジしたい!」

 風早くんがわずかに眉を寄せ、振り返った。

「ああ、うん。課題終わってからね」

「えー、またぁ? じゃあ私、待ってる!」

 叶さんは葵を見てにっこり笑った。勝ち誇ったように。

 葵は何も言わずに、その場を立ち去った。

 

 叶さんの嫌がらせは続き、一ヶ月ほど経過したところで葵は学校を休みがちになっていた。親にも言えず、先生にも言えず、叶さんに言い返すこともできない。 

 だから、その誘いに簡単に乗ってしまった。

 

『叶ちゃんが、葵に話があるって』

 

 かつては友達だと思っていたクラスメイトからのメッセージ。また何かされるのではないかと警戒する気持ちよりも、ただ終わらせたい気持ちが強かった。

 

 待ち合わせに指定されたのは、工学棟の非常階段だった。

 夕暮れの校舎は静かで、部活動の掛け声が遠くから聞こえている。

「あはっ。ちゃんと来てくれたんだぁ」

 叶さんは、いつものように微笑んでいた。

「……話って、何?」

「うん。あのね……」

 彼女は両手を後ろに組んで、小首を傾げた。

「葵ちゃん、学校辞めてくれない?」

 

「……え?」

「だって、もう友達いないでしょ? ここにいてもつらいだけじゃない? 私ね、これでも心配してるんだぁ。ね、転校したら全部やり直せるよ?」

「……あなたのせいじゃない」

「だって、葵ちゃんがいなくなってくれないんだもん」

 叶さんは少し不満そうに唇を尖らせた。

「私、風早くんとずっと一緒にいたいだけなのに」

「……私は、何もしてない」

「そういうところが嫌いなの!」

 突然、声が鋭くなった。

 

「何にもしてないくせに! 何にも知らないくせに! 何であの人はあんたのことばかり気にするのよ! 視線の先も、廊下の影も……全部あんたを追ってるじゃない!」

 叶さんは肩を震わせた。

「私が何時間一緒にゲームしてると思ってるの? 毎晩通話して、休日もずっと一緒で! それなのに!」

 大きな瞳が、怒りでぎらぎらと光った。

「……あんたがいなければ……あの人、私だけ見てくれるよね?」

 背中に隠されていた右手が、ゆっくりと前に出てきた。夕陽を受けて、銀色の刃が光った。

 

 逃げなければ。そう思ったときには、もう遅かった。

 腹部に、鈍い衝撃が走った。

 

「…………え?」

 視線を落とす。ブレザーの中の白いシャツが、じわじわと赤く染まっていくのが見える。 

 熱い……焼けるように、熱い。膝から力が抜け、地面に倒れ込んだ葵を叶さんが見下ろしていた。

 

「……あ」

 彼女は自分のカーディガンを見つめた。

「やだ。血、ついちゃった」

 心底嫌そうな声だった。

「ママに怒られちゃうじゃん」

 

——何、言ってるの。

 

 怖くて、痛くて、何がなんだかわからなくて……声にならなかった。

「……叶?」

 その時、聞き覚えのある声がした。風早くんだった。

 工学棟の角に立つ彼は、目の前の光景を食い入るように見つめていた。いつもの大きな黒縁眼鏡。

 少し乱れた前髪。その奥の瞳が、絶望に見開かれている。

 

「あっ、風早くん!」

 叶さんが、ぱっと顔を輝かせた。そして、咄嗟に持っていたナイフを階段下に放り出すと、すぐに泣き顔を作った。

「助けて! 葵ちゃんが、急に……!」

 

——また、嘘をつく。

 

「私、止めようとしたの! でも、全然言うこと聞いてくれなくて……!」

 

——もう、やめて。

 

「どうしよう、怖いよぉ……!」

 叶さんが縋りつくように風早くんへ手を伸ばす。

「お前! 何やってんだ!」

 風早くんは叶さんの手首を乱暴に払いのけ、葵の元へと駆け寄った。

 

「……ふざ、け……」

 掠れた声が漏れた。息を吸うだけで、腹部に激痛が走る。風早くんがジャケットを脱ぎ、震える手で血を止めようと強く押し当ててくるのが伝わる。

「全部……あんたが、やったんでしょうが……!」

「ちょっと、何言ってるの? 私、そんな……」

「黙れッ!」

 喉が焼けるように熱い。生まれて初めて、誰かを本気で怒鳴った。

 

「気に入らないからって……人を殺して……全部、なかったことにできると……思わないでよ……!」

「うるさい! あんたが邪魔したからでしょ!」

 叶さんが金切り声を上げた。

「あんたさえいなければ、全部うまくいってたのに!」

 葵は、不意に理解した。この子にはきっと、最後まで分からない。

 自分が何をしても、全部誰かのせいなのだ。

 

「いい? 私が一番なの! 私が選ばれるはずだったの! あんたみたいな女なんか、最初からいなければよかったのに!」

 

 風早くんが震える手でスマホを取り出し、スピーカーにしているのか、救急車を呼んでいるのが聞こえる。でももう間に合わない。それだけはわかる。だからこの女に言っておかなくてはいけない。

「……あんたのこと……絶対、許さない……」

 それから、最後の力を振り絞って。

「……地獄に、堕ちろ……」

 

 通話を切った風早くんが、葵の顔を覗き込んできた。

「草壁さん! 葵ちゃん、葵ちゃん……っ! 目を開けて、頼むから!」

 初めて会ったとき綺麗だと思った瞳から、大粒の涙が零れ落ちて、葵の頬を濡らす。

 

 ——ああ。

 

 神様、お願い。もし、もう一度生まれ変われるのなら……今度こそ悔いのない人生を送りたい。好きなら好きって堂々と言って、ちゃんと向き合えるように。

 

 夕暮れの空が、ゆっくりと暗くなっていく。

 最後に聞こえたのは、風早くんが泣き叫びながら自分の名前を呼ぶ声だった。

 葵の世界は、そこで途切れた。

 

***** 

 

 目が覚めると、冷たく湿った石の床ではなく、驚くほど滑らかな絹のシーツがブルーメの肌を撫でていた。

 鼻腔をくすぐるのは、どこか懐かしい、白檀と雨を混ぜたような、微かに甘く重苦しい薫香。ブルーメは弾かれたように跳ね起き、自身の身体を見下ろした。泥と血で汚れていたはずの粗末な麻の貫頭衣は消え、代わりに、薄青い豪奢な部屋着がまとわされている。

 

「暴れないほうがいい。身体の巡りがまだ戻っていない。普通の人間には転移の負担が大きいからね……特別な香で眠らせたから、きっと辛いはずだよ」

 ほんの少し高く、けれどどこか楽しげな、柔らかで上品な声が耳朶を打った。

 振り向けば、ベッドの脇にしつらえられた重厚な革製の肘掛け椅子に、あの青年が脚を組んで腰掛けている。

 銀の髪がわずかに傾き、片耳の細い三つ編みが揺れる。琥珀からペリドットへと淡く移ろう双眸が、射抜くようにブルーメを捉えていた。目元と口元の黒子が、その整いすぎた造形にどこか毒を含んだ艶やかさを添えている。

 

 そして、彼が身にまとっているのは——前世の記憶にある、あの「和装」だった。

 深みのある濃紺の羽織に、波を思わせる金色の流麗な文様。その下には、前を少し緩めた白と赤の着物。帯は無造作に、しかし機能的に結ばれ、足元には現代的な黒い革靴。かつての日本で「陰陽師」あるいは退廃的な書生や古書店主が身につけていたような、このファンタジー世界には爪の先ほども存在しないはずの、妖しくも美しい異国の装束。少し着崩したその姿からは、この世のものならぬ退廃的な色気が立ち上っていた。

 

「……あなた、誰? ここは……」

「私の居城だ。あの薄汚い地下牢よりは、君の羽を休めるのに相応しいだろう」

 青年は椅子から立ち上がり、音もなく歩み寄ってきた。影のように軽やかで、圧倒的な威圧感を伴っている。ブルーメが無意識に身を引くと、彼は困ったように眉尻を下げてみせた。けれど、その双眸の奥には底知れない熱が渦巻いている。

 

「そんなに怯えないでおくれ、ブルーメ。……いや、『葵』と呼ぶべきかな」

 その音節を耳にした瞬間、ブルーメの心臓が激しく跳ね上がった。

 葵——それは誰にも明かしたことのない、前世の名だった。

 

「どうして、その名前を……」

「忘れるはずがないだろう。ずっと、ずっと探していたんだから」

 青年はベッドの縁に腰を落とし、ためらいもなく長い指先をブルーメの頬へ滑らせた。冷たいのに、触れられた肌が焼けるように熱を帯びる。

 

「私の名はキルシェ。君を閉じ込めていたあの小国の連中は、君の持つ『聖女の力』だけを吸い上げ、使い潰すつもりだった。だから奪い去ったまでだ。……君の命も、魂も、誰にも渡さない」

 

 キルシェの瞳が、青みを含んだ光彩を怪しく瞬かせた。その執着の深さに息を呑むと、彼はふっと優しく目を細め、ブルーメの髪を一筋すくい上げて唇を落とす。

 

「君はもう覚えていないかもしれない。ただ同学年だっただけで、君をこんな目に遭わせる原因を作った……情けない男のことなんて」

 

——記憶の澱が、急速にかき混ぜられる。

 あの夕暮れ、血に濡れながら泣き叫んでいた、大きな眼鏡の少年。

 銀の髪も妖艶な面影も別人のはずなのに、その眼差しの奥にある不器用な切実さだけが、記憶の中の彼と重なり合っていく。

 

「……まさか、風早、くん……?」

「ああ……呼んでくれたね」

 キルシェは泣きそうに相好を崩した。その歪な笑みには、狂気と歓喜が混ざり合っている。

 

「君が逝ってしまってから、世界は完全に色を失った。あの女が法の裁きを受けるところまでは見届けたよ。その後はどうなったか知らない。興味もなかったからね。……そして、君の後を追った」

 そう言ってキルシェはゆっくりと瞬いた。

「その後、この世界に生まれ落ちて……私は『時魔導士』となった」

「時、魔導士……?」

「そう。自らの老化を止め、時を遡り、未来へと渡る術を編み上げた。君が生まれ変わるその瞬間を、その魂の波長を捉えるためだけに……私は何百年もの時間をかけて、この世界の禁術のすべてを極めたんだ」

 

 さらりと語られた途方もない真実に、ブルーメの喉が引き攣る。

 不老の時魔導士。数百年の歳月。

 目の前の男は、たった一つの魂を抱きとめるためだけに、気の遠くなるような時間を生き永らえ、世界を覆すほどの力を手に入れて追ってきたというのか。


 彼がまとう、和洋折衷の歪な和装。それは、彼が今も前世の「あの国」と、少年時代に芽生えた想いに囚われ続けている証そのものだった。

 

「最初から、ずっと君のことが気になっていたんだ。あの時、廊下で君が私を見つめてくれていることに気づいた瞬間……胸が張り裂けそうなくらい嬉しかった。だけど私は臆病で、ただ陰から君を見つめ返すことしかできなかったんだよ。あんな奴に君を奪われるくらいなら、もっと早く、強引にでも君の手を引いていればよかった……!」

 

 キルシェは自嘲するように口元を歪め、そっと額をブルーメの肩に預けてきた。


「ただ見守るだけでよかったんだ。君が幸せに生きてくれるなら、それだけで……。なのに、ほんの少し目を離した隙に、また君を奪われるところだった。過去を変えることはできる。けれど、その代償が君に及ばない保証はない。……もう二度と、君を失うような賭けはしたくなくて……」

 

 美しく怪しげな時魔導士の仮面が剥がれ落ち、そこにあるのは何百年もの孤独の中で、青く未熟な初恋を永遠に拗らせ続けた少年の脆さそのものだった。

 

「もう二度と離さない。逃げようとしても無駄だよ、葵。この城の結界も、この世界の時間さえ、君を囲う鳥籠に作り変えてみせる。……けれど」

 

 彼は顔を上げ、琥珀とペリドットのグラデーションの瞳を潤ませながら、切実な笑みを浮かべた。

 

「願わくば、その籠の中で、もう一度私に笑いかけてほしい」

 

 触れ合う体温の切なさに、ブルーメの胸の奥がきつく締めつけられる。逃げ場のない籠の中、歪で一途な愛の鎖が、静かに二人の運命を縛り上げていた。

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