エピローグ 琥珀色の密約
脱衣所から、勢いよくシャワーの音が響き始めた。
一人、リビングに残された蓮は、日向が残した「琥珀色の海」と、そこから脱衣所へと続く彼女の足跡をタオルで拭き取っていく。ずしりと重みを増した何枚ものタオルを手に、彼も後片付けのために脱衣所へと向かう。
「入るぞー」
もう浴室にいることは間違いないが、マナーとして声を出しておく。
泣きじゃくる彼女をなだめすかし、何度も「別に嫌いにはならないよ」と声をかけ続けたが、
落ち着きを取り戻して、シャワーを浴びさせるまでに相当の時間が掛かった。
それが今や、お試しが外れた嬉しさが勝ったのか、すりガラスの向こう側で、シャワーの音に混じって彼女が小さく鼻歌を歌うのが聞こえる。
……
「俺のしかないけど、着替え置いておくから」
先ほどより少し大きめの声を出してみたが、返事は返ってこない。
(……よし)
蓮は息を殺し、洗濯機の蓋を開けた。そこには、彼女が先ほど脱ぎ捨てたばかりの、袖が黄色く染まったブラウス、ぐっしょりと濡れたベージュのスカートと薄い下着が重なっていた。
「……っ」
洗濯機の中に溜まった、濃密な熱気。
本来ならすぐに洗剤を放り込んで回すべきなのに、蓮の指先は吸い寄せられるように、その黒ずんだ布地へと伸びていた。
洗濯機の中から、スカートを脇によけて、奥に沈んでいた小さな下着を拾い上げた。
鼻腔を突くのは、生命力に満ちた、暴力的なまでのアンモニアの匂い。
日向が自分への愛と不安ゆえに、限界まで溜め込み、そして溢れだした「証」。
蓮は、温もりを失い、濡れすぼったその手触りと残り香に理性を溶かされ、気づけば下着を両手で包み込み、深く、深く、その中心部に顔を近づけようとしていた。
――その時だった。
「先輩、ボディソープとか借りちゃいますね……って……」
ガラッ、と浴室の扉がわずかに開く。
湯気と共に、髪を洗う前、あるいは体を流す前だったのか、日向がひょっこりと顔を出した。
彼女の脱け殻を手にした、最悪の犯行現場を見られてしまった。
身体が一瞬で硬直する。
「……先輩、何やってるんですか」
日向の冷ややかな、けれど確信に満ちた声が響く。
蓮は脂汗を流し、真っ赤になって慌てて洗濯機の中に下着を放り戻した。
「あー……いや、これは、その……汚れがひどいから、痛まないように予洗いしようと思って……」
「嘘ばっかり。今、絶対匂ってましたよね。私の、……その、おしっこの匂い」
日向は浴室から半身を出し、唇を尖らせて蓮をジト目で見つめた。
蓮は降参するように視線を落とし、消え入るような声で告白した。
「……昔から、少しだけ、あったんだ。女の子が、その……我慢の限界を迎える瞬間に…どうしようもなくドキドキする感覚が。だから、その、気にしないでいいよ。……というか……引いたよな、普通」
蓮が項垂れると、日向は少しだけ間を置いて、クスクスと笑い始めた。
先ほどまでの絶望的な羞恥心は、彼の、自分以上の「秘密」を知ってしまった瞬間に、甘い共犯意識と、少しの「支配欲」へと変わっていた。
「ふーん……。そうだったんだ。変態さんとは、やっぱりお付き合いやめとこうかな」
「えっ、ちょ……日向! それは……!」
「あはは、嘘ですよ。……でもどうしよっかなぁ。……その……『おみやげ』、欲しいですか?」
日向は、蓮がチラチラと未練がましく見つめていた洗濯機の中を指差した。
蓮の喉が、ゴクリと鳴った。
「あっ……」
「わかりました……でも、今日のところは、諦めてください。ほら、さっさと洗濯機を回してください。私、帰る服がないんですから」
日向は、わざと意地悪そうに笑って、彼を追い出すように手を振った。
「次、来るときは……ちゃんと『遊び用』の着替え、持ってきますね」
浴室のドアが閉まり、再びシャワーの音に包まれた。
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一週間後の週末の昼下がり。
蓮の部屋のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、前回よりもずっと気合の入ったコーディネートに身を包んだ日向が立っていた。
彼女の手には、少し大きめの紙袋。その中には、真っさらな着替えが一式入っている。
「ちょっと、ガン見しないでください。……言ったでしょ、ちゃんと着替え持ってくるって」
日向は、玄関先で不自然に内股を固く閉じ、不規則に足踏みをしている。
彼女は小悪魔のような、それでいて潤んだ瞳で蓮を見つめる。
「……あのね、蓮先輩。私、朝からお手洗いに行かずにここまで来たんですよ?褒めてください。……じゃ、お邪魔しまーす」
ドアが閉まり、施錠される音が重厚に響く。
それは、事故ではなく「共犯」としての、二人の長い夜の始まりだった。




