第八話「対称性の檻と、零の胎動」
深い夜の帳が、ヴァルハイト公爵邸の図書室を外界から切り離していた。
加速した時間の中では、空気の粒子さえもが静止しているかのように重い。
私は、卓上に広げられた膨大な魔導数式と、ジュリアンの鋭い眼差しを交互に見つめていた。
「令嬢、先ほどあなたは『聖女の光が闇を生む』と仰った。それは確かに、この世界の片肺を説明する理論です」
ジュリアンは、使い古された羽ペンを、まるで外科医のメスのように数式の上に滑らせた。
「しかし、それでは均衡が取れない。世界という天秤が、光の負債によって一方的に闇へと傾くだけの破滅装置になってしまう」
彼は、真っ白な紙の中央に、垂直な一本の線を引いた。
「光が消費され、秩序が固定された時、その背後に『不条理な闇』が生まれる。ならば、その逆はどうなるのか」
「……闇を消費し、不条理を燃焼させたとき、何が生まれるのか、ということですわね」
私は、己の指先に僅かな闇を纏わせ、それを混沌の回路へと流し込んだ。
闇が消える。 正確には、別の何かに変換される。
「ジュリアン。闇とは、形を持たない可能性の泥沼ですわ。それを私が『混沌』という炉で消費したとき……そこからは、真っさらな『空白』が生まれる」
「空白、ではありませんな」
ジュリアンは、私の言葉を即座に否定した。
その不遜な態度こそが、私が彼を傍に置く理由だった。
「闇が消費されたとき、そこに生まれるのは『純粋な輝き』だ。属性としての光ではなく、存在そのものが放つ、根源的な肯定……。つまり、闇を燃やすことで、私たちは聖女の光とは別の『真の光』を手にすることができる」
ジュリアンの言葉が、私の脳内で稲妻のように弾けた。
聖女が振りまく光は、世界から借りてきたもの。 私が闇を食らい、変換して生み出す輝きは、世界を浄化した果てに残る「結晶」。
「聖女が借金を作り、私がそれを回収して純化する……。この循環が成立したとき、初めて世界は完結するのです」
ジュリアンは身を乗り出し、私の双眸を覗き込んだ。
「令嬢。あなたは闇と光の双方を、五分と五分の均衡で保つべきだ。どちらかに傾いてはならない」
「五分、ですわね。対称性を保てと?」
「然り。闇で負債を引き受け、光で可能性を定義する。その比率が完全な『一対一』となったとき、あなたは世界のゴミ箱でも、聖女の対抗馬でもなくなる」
彼は、引いた線の中心に、力強く点を打った。
「あなたは、世界の『対称性の軸』となる。そこに立って初めて、あなたは神としての視座を、人の器のまま維持できるのです」
ジュリアンの指摘は、私の傲慢さを鋭く刺した。
私は、闇を食らって強くなることばかりを考えていた。 だが、それでは私は「闇の怪物」へと変質していくだけだ。
光と闇。 秩序と混沌。 その双方が、一点の曇りもなく釣り合っている状態。
「……それが、混沌の真の姿。動いているのに、静止しているように見える、極限の回転」
私は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外の月を見上げた。
ここから遥か遠い場所で、今この瞬間も、聖女は人々の喝采を浴びながら「光」を浪費しているのだろう。
「彼女は、気づいていないのでしょうね。自分の足元で、どれほどの闇が積み上がっているかということに」
「気づくはずもありませんな。彼女は『善』そのものです。善とは、自分の影を見ない者の別名だ」
ジュリアンは、冷笑とも感銘とも取れる表情を浮かべた。
「無邪気な光のヒロイン。彼女にとっては、奇跡を起こすことは呼吸と同じくらい自然なこと。代償? 均衡? そんな汚らわしい言葉は、彼女の辞書には存在しない」
想像がつく。
聖女は、汚れなき瞳で困窮する人々を見つめ、ただ「救いたい」と願う。 その純粋な祈りが、世界の理を無理やり捻じ曲げ、そのしわ寄せをすべてこちら側へと流し込んでくる。
彼女に悪意はない。 だからこそ、彼女は「修正」することができない。
「天然の災厄……。それは、どんな悪魔よりも質が悪いわね」
私は、胸元で揺れる銀のペンダントに触れた。
「だが、彼女が光を撒き散らせば撒き散らすほど、私はこの五分と五分の天秤を研ぎ澄ませることができる。彼女が作り出す借金を、私が宇宙の資産へと書き換えていく」
「その通りです。これぞ、公爵令嬢としてのエレオノーラ様が成すべき、究極の『管理』」
ジュリアンは、私の足元に跪くのではなく、ただ満足げに腕を組んだ。
「さあ、始めましょう。対称性を保つための、地獄のような均衡作業を。聖女が奇跡を一回起こすごとに、あなたは一昼夜、闇の濁流に耐え、それを光へと純化させねばならない」
「望むところだわ。私は、誰よりも高く、美しく、この世界という牢獄を支配するのだから」
私は、部屋の空間を再び固定し、時の流れをさらに加速させた。
外の世界では、一瞬。 この部屋の中では、果てしない自己変革の時間。
闇を吸い込み、光で焼き、混沌の炉で対称性を模索する。
五分と五分。 その針の穴を通すような精密な均衡を求めて、私の精神は幾千回もの試行錯誤を繰り返す。
肉体が悲鳴を上げ、魂の形が歪むほどの負荷。
だが、その苦痛こそが、私が「聖女」というシステムの支配から脱し、世界の軸へと至るための唯一の道だった。
「待っていなさい、聖女。あなたの無邪気な祈りが、私という名の『神』を完成させていくのだから」
加速した空間の中で、私の瞳が、眩いほどの灰色に輝き始めた。
それは、光を拒まず、闇を恐れず、ただ全てをあるべき均衡へと導く、絶対者の眼差しだった。
翌朝、マルタが部屋を訪れたとき。
そこにいたのは、昨日よりもさらに透明感を増し、しかし触れれば指が凍りつくような冷徹な気品を纏った、一人の令嬢だった。
「エレオノーラ様……。なんだか、以前よりもずっと……お綺麗になられたような気がいたします」
マルタの言葉に、私は鏡を見ることなく、ただ優雅に紅茶を口にした。
「そうかしら。ただ、少しだけ『釣り合い』が取れるようになっただけよ」
私の声は、もはや人間のそれというよりは、精緻に組まれた数式が奏でる旋律のように響いていた。
聖女が現れるその時、私は完成された世界そのものとして、彼女を迎え入れるだろう。
それが、この物語の真の幕開けとなる。




