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第五話「永劫を抱く箱庭」

公爵令嬢としての朝は、冷徹なまでの様式美から始まる。

侍女たちが私の周囲を蝶のように舞い、最高級のシルクで仕立てられたドレスを、一片の皺もなく整えていく。

背筋を伸ばし、顎を僅かに引き、鏡の中の自分を見つめる。

そこには、神格者としての深淵を隠し持った、完璧なるヴァルハイト公爵家の「至宝」が立っていた。

私は、この窮屈なドレスを嫌悪してはいない。

むしろ、人々の視線を縛り、畏怖を植え付けるための「礼装」として肯定している。

「エレオノーラ様、本日の御予定を確認いたします」

筆頭侍女のマルタが、恭しく手帳を開いた。

「午前は帝国儀礼学の講義、午後は隣国との通商に関わる茶会への出席、夜は公爵閣下との閣僚会議の傍聴となっております」

秒刻みの予定が、私の自由を侵食していく。

貴族とは、領民や国家に対して「象徴」としての責任を負う生き物だ。

その義務を果たすことは、私の誇りであり、この国を支配するための正当な権利の代償でもある。

「……時間が足りませんわね、マルタ」

私は、窓から差し込む朝陽を、まるで物理的な重みを持つ金貨のように見つめた。

「人間という器に留まる限り、私に与えられた砂時計はあまりに小さい」

「申し訳ございません。公爵令嬢として、避けては通れぬ道でございます」

マルタは、申し訳なさそうに頭を下げた。

彼女を下がらせた後、私は一人、自室の重厚な扉を閉ざした。

ここから先は、公爵令嬢としての仮面を脱ぎ、混沌を司る神の雛としての時間が始まる。

私は部屋の中央に立ち、意識を足元の空間へと沈めた。

ジュリアンとの対話で得た、世界を構成する「定義」の揺らぎ。

時間とは何か。

それは、混沌から秩序へと向かう「変化の連鎖」に過ぎない。

ならば、この部屋という閉鎖空間の「変化の解像度」を上げればどうなるか。

「闇よ、空間の境界を固定せよ。光よ、その内側の事象を励起せよ」

私は、相反する二つの命令を、混沌という名の一つの意志で束ねた。

掌から溢れ出した灰色の霧が、部屋の壁、天井、床へと染み込んでいく。

空間が密閉される。

外の世界と、この部屋の「因果の接続」が断たれた。

「……さあ、ここからが真骨頂ですわ」

私は、部屋の空気を掴むように手を広げた。

混沌は全ての可能性を含んでいる。

ならば、ここには「一秒が一年として流れる可能性」も、既に含まれているはずなのだ。

私は、その特定の可能性を指先で手繰り寄せ、空間全体の定義として上書きした。

瞬間、視界が白濁し、鼓動が激しく打ち鳴らされた。

部屋の隅にある砂時計の砂が、目にも留まらぬ速さで流れ落ちていく。

だが、私の肉体、私の精神は、その加速した時の流れの中に安住していた。

「成功……。この箱庭の中では、外の一時間が、ここでの一昼夜に相当する」

私は、部屋の書架にある難解な魔導書を手に取った。

外の世界では、侍女たちが紅茶を淹れる準備をしている僅かな時間。

その間に、私は数日分、数週間分の思索と鍛錬を積み上げることができる。

混沌を扱う神格者にとって、時間はもはや奪われるものではなく、自ら生成するものとなったのだ。

私は、窓の外で静止したようにゆっくりと動く雲を眺めながら、不敵な笑みを浮かべた。

「貴族としての義務を完璧にこなし、なおかつ聖女が一生をかけても到達できぬ深淵を覗く」

「どちらかを捨てるなど、凡夫の選ぶ道。私は、その全てを肯定し、その全てを手に入れる」

私は加速した時間の中で、己の魔力をさらに緻密に研磨し始めた。

闇の収束率を高め、光の浸透度を深め、それらを混沌の渦へと叩き込む。

魂の器が、膨大な経験値によって軋みを上げる。

だが、その痛みこそが、私が人間を超越していくための確かな証だった。

精神が研ぎ澄まされ、世界の理が数式や詩篇のように脳裏に浮かび上がる。

私は、自分の髪を指で弄びながら、来るべき社交界という名の戦場を想った。

聖女、第一王子、そして私を破滅へと追い込もうとする運命。

彼女たちが一歩進む間に、私は百歩先、千歩先の高みへと至る。

「私の前を歩くことを許される存在など、この世界にはいないのよ」

誰もいない、時の加速した密室で、少女の傲慢な宣言が響いた。

数刻後。

私が空間の固定を解き、扉を開いたとき。

外廊下では、マルタがちょうど紅茶のトレイを持って角を曲がってきたところだった。

「お待たせいたしました、エレオノーラ様。お召し上がりください」

「ええ、ありがとう」

私は、わずか数分前とは比較にならぬほどの魔力密度を内包しながら、淑女としての完璧な微笑みでそれを受け取った。

彼女には、私が今しがた「一年分」の思索を終えてきたばかりだとは、夢にも思わないだろう。

神を宿した少女は、優雅にカップを口に運んだ。

その指先には、もはや何者も抗えぬ、灰色の運命が纏わりついていた。



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