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白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました  〜婚約破棄してきた王子より、契約書を持ってきた宰相様の方がよほど誠実なんですが〜

作者: 夢見叶

 お前を愛するつもりはない。


 その一言を聞いたとき、最初に浮かんだのは悲しみでも怒りでもなかった。


 ああ、やっぱり契約書を確認しておいてよかった、という前世じみた感想だった。


「リディア。顔を上げろ」


 目の前の王太子レオンハルト殿下が、つまらなそうに私を見下ろしている。黄金の髪に宝石みたいな青い瞳。絵画から抜け出してきたみたいな完璧な容姿。中身さえ見なければ、王子様、なんだけど。


 けれど今この瞬間、彼の口から出てくるのは私を切り捨てるための言葉だ。


「お前は聖女として、国と女神のために存在していればいい。俺がお前を愛する必要はないし、お前も俺を愛さなくていい。これはそういう、割り切った婚姻だ」


 白い結婚。


 誰かが小さくそうつぶやいた。王宮の小広間に集められた貴族たちが、私と王太子のやり取りを固唾をのんで見守っている。


「……そういう、婚姻」


 私はかすかに復唱して、胸の奥の痛みを、息と一緒に押し込めた。


 レオン殿下の隣には、今日もぴたりと寄り添う影がある。栗色の巻き髪に、控えめな笑みを浮かべた侯爵令嬢ミレーヌ。彼女はこの国で、もう1人の「聖女候補」と呼ばれている。


「真に俺が愛するのは、ミレーヌだ」


 殿下は、当然のことのように言った。


「だが、国は聖女の加護を必要としている。だからお前とは、形式だけの結婚をする。ベッドも別、子はミレーヌとの間に生まれた子を次の王にする。お前は、国のための聖女として、俺たちを支えればいい」


 あまりにもはっきりした宣言に、小広間の空気が凍る。


 誰かが椅子をきしませ、誰かが扇を落とした。けれど、王太子に異を唱える声は一つもない。


 私はゆっくりと、息を吸いこんだ。


 これが、3年かけて私が守ってきた婚約の答え。


 政略結婚だと分かっていた。恋愛ごっこをしようなんて、最初から思っていなかった。それでも、同じ国を、同じ女神を見て歩いていける相棒になれればいいと、そう願っていたのは私の勝手な思い上がりだったのだろう。


 だけど。


「……確認させていただいても、よろしいでしょうか」


 気がつけば、私はいつもの癖で、前世の仕事口調になっていた。


 会議室。ホワイトボード。分厚い契約書の束。深夜2時の蛍光灯の光。そんな残業風景が一瞬、脳裏にフラッシュバックする。


「俺に確認? なんだ」


「今、殿下がおっしゃった内容は、これから作成される祝福婚姻契約書に、すべて明記されるのでしょうか」


 この国で、聖女の結婚には特別な手続きがいる。


 女神と、聖女と、国。この3者の間で結ばれる「祝福婚姻契約書」。そこに記された条文は、女神の加護を受けて、現実に強い効力を持つ。


 例えば、過去にはこんな条文があったという。


 夫は妻を守護すること。

 その一文だけで、戦場で夫が無意識に妻を庇って矢を受けた記録が残っている。


 だからこそ、祝福婚姻契約書は慎重に、慎重に作られる。


 ……はずなのだけれど。


「当たり前だろう?」


 レオン殿下は、私の問いに鼻で笑った。


「女神の前で、白々しく愛だの忠誠だのを並べるつもりはない。お前は聖女として国のために働き、俺は王太子として国を治める。それだけだ。全部、契約書に書いてしまえ」


 周囲から「それはあまりにも」といった視線がちらほらと飛んでくる。けれど殿下は、まるで気づいていない。


 私は、そんな彼を見上げながら、心の中でひとつだけ決意した。


 そうですよね。契約に、全部書いてしまうんですよね。


 なら――私の望みも、全部書かせていただきましょう。


「かしこまりました。殿下のお言葉、祝福婚姻契約書の草案に反映させていただきます」


 私はスカートの裾をつまみ、深々と一礼した。


 その時、視線の端に、1人の男性の姿が映った。


 黒髪灰瞳。地味な色合いの礼服。けれど、立っているだけで空気が引き締まるような存在感。


 王宮宰相補佐、セルジュ・ラグランジュ。


 彼は一瞬だけ目を細め、何かを見透かすように、じっと私を見ていた。


 


 その夜、私は神殿の自室で、天蓋付きのベッドに寝転びながら、ぼんやりと天井を見上げていた。


 白い天蓋のレース越しに、壁にかけられた女神の聖印が見える。


「……また、徹夜コースですね」


 思わず、そんなつぶやきが漏れる。


 契約書を作り直すのは嫌いではない。むしろ、きっちりした条文を組み立てる作業は楽しい。だけど今回は、相手が悪すぎる。


 婚約者が自分を愛する気がないと言い放ち、別の女性を本当の妻と宣言する。


 これ、前世の会社だったら普通にコンプラ案件ですよね。


 私は小さく笑ってから、目を閉じた。


 前世の記憶は、転生してからもずっと色濃く残っている。


 日本という国。昼間はオフィス街がぎゅうぎゅうに詰まって、夜は終電前の駅に人が溢れ返る、あの世界。私はそこで、しがない会社員として働いていた。


 部署は総務兼法務。主な仕事は契約書のチェックと、相手企業との調整。


 字だらけの書類。細かい条文。責任の所在。リスク管理。トラブルにならないように、よく読み、よく考え、赤ペンでびっしりと修正を書き込む日々。


 気がつけば、終電は過ぎていた。


 ビルを出たときの、ひんやりした夜風の感触をまだ覚えている。その次の瞬間、目の前が真っ白になって、気がついたら女神がいた。


 ふわっとした白い光の中で、柔らかそうな髪を揺らしながら、女神は言った。


 あなたはよく働きましたね、と。


 あなたみたいに契約書を大事にする人が、うちの世界には足りていないんです、と。


 だから私は、聖女候補としてこの世界に転生した。


 魔物を祓う力も一応ある。でも一番役に立っているのは、やっぱり契約書を読む能力だった。


 神殿と王家。神殿と貴族。神殿と商人。あらゆる契約書に目を通し、危ない条文を削り、補足を加え、働きすぎの神官たちをさりげなく守ってきた。


 なのに、自分の婚姻契約だけは、この有り様である。


「……笑えないですね」


 自嘲ぎみにそうつぶやいた時だった。


 部屋の中の空気が、ほのかに甘い香りを帯びた。


 柔らかな光が、視界の端で揺れる。


「リディア」


 名を呼ぶ声に、私は上体を起こした。


 そこに立っていたのは、前世で見たのと同じ姿の女神だった。ゆるく波打つ髪。眠たげな瞳。けれど、その目の奥には、深い光が宿っている。


「女神様……」


「今日も、お疲れさまでした」


 女神はベッドの端に腰かけ、私の頭をそっと撫でた。


 女神に頭を撫でられる聖女。なんだかとんでもなく恐れ多い光景のはずなのに、いざやられると、ただただ眠くなる。


「殿下とのお話、全部聞いていましたよ」


「そうですか」


 どうせ全部聞かれているなら、取り繕う必要もない。


「……正直に申し上げると、だいぶ傷つきました」


「だろうと思いました」


 女神はあっさりとうなずいた。


「あなたは、自分を犠牲にするのが当然だなんて、一度も思っていない子でしたからね」


「そんなに、分かりやすいでしょうか」


「分かりやすいですよ。契約を読む時の顔とか」


 神様に契約書を読んでいる顔を見られている、という事実に、なんとも言えない気まずさを覚える。


 女神はふっと笑い、表情を少し真剣なものに変えた。


「リディア。あなたはどうしたいですか」


「どう、とは」


「王太子殿下との婚姻について。あなた自身は、どうしたいのか」


 どうしたいのか。


 その問いかけに、胸のどこかがひりついた。


 国のため。女神のため。神殿のため。そうやって、私はいつも自分を後回しにしてきた気がする。


 けれど今、目の前の女神は、ただ「私」の望みだけを聞こうとしていた。


 喉が詰まる。その詰まりを、ゆっくりほどくように、私は言葉を探した。


「……私を、人として大切にする気がない人たちから、きちんと解放されたいです」


 自分の声が、少し震えている。


 女神は、私の言葉を最後まで聞いてから、静かにうなずいた。


「いい望みですね」


「そう、でしょうか」


「はい。とてもいい望みです」


 女神は、いたずらを思いついた子どものような目で私を見た。


「では、きちんと契約に書きましょう。あなたが『夫を捨てたい』と望んだときに発動する条文を」


「……夫を、捨てたい」


 ひどく物騒な単語がさらりと出てきた気がするのだけれど、女神は気にしていない様子だった。


「祝福婚姻契約書は、あなたと、国と、わたしの三者契約です。そこに、あなたを守る条文を追加するのは、何の問題もありませんよ」


「でも、殿下が同意しない気がします」


「内容をよく理解しないまま、なんとなく署名する人間、あなたの前世で山ほど見てきませんでしたか」


「見ました」


 即答してしまった。前世の取引先の担当者の顔が、何人か頭をよぎる。


「じゃあ、今回も同じです」


 女神は指先で空中に文字を書いた。光の粒が集まって、紙のかたちを作る。


「条文案は、あなたが考えなさい。わたしはそれを承認するだけです」


「私が、考える」


「そう。あなたは契約のプロでしょう? わたし、あなたのそういうところ、とても気に入っているんですよ」


 さらりとそんなことを言われて、思わず頬が熱くなる。


 女神は立ち上がり、私に向かって手を差し出した。


「では、リディア。あなたの新しい契約を作りましょう。あなたが、あなた自身を大切にできるように」


 私は、その手をぎゅっと握り返した。


 


 翌日。私は神殿の応接室で、宰相補佐セルジュと向かい合っていた。


 大理石の机の上には、女神が渡してくれた光の紙をもとに作った婚姻契約書の草案が広げられている。


「……なるほど」


 セルジュは、淡々とした声で言った。


「随分と、攻めた条文案ですね」


「攻めているでしょうか」


「ええ。とても」


 彼の視線が、紙の一部分で止まる。


 条文第3条。私が昨夜、女神と一緒に考えた、あの一文。


 妻が夫との婚姻を継続しないと神前で宣言したとき、妻は一切の不利益なく婚姻から解放される。


 セルジュは、そこをじっと見つめてから、目を上げた。


「これは、王太子殿下にとって不利すぎます。通常であれば、国側が絶対に認めない条文です」


「そうでしょうね」


 私はおとなしくうなずく。


「ですが、今回の婚姻は、殿下のご希望による『白い結婚』です。愛情を持たない代わりに、殿下は国と女神のために聖女を『利用する』と宣言されました。ならば、私も私を守るための条文を要求したいのです」


 セルジュの灰色の瞳が、じっと私を見た。


 責めるわけでも、呆れるわけでもなく。ただ、確かめるように。


「……本当に、それでいいのですか」


「はい」


 私は、はっきりとうなずいた。


「私は、殿下の『飾り』になるつもりはありません。国と女神のために力を貸すことは、これからもやっていきたい。でも、そのために私自身が使い捨てにされるのは、もう嫌なのです」


 前世。終電を逃して、タクシー代も自腹で帰った冬の夜。翌朝にまた、何もなかったような顔で会社に行った日々。


 あの感覚を、もう一度繰り返すつもりはない。


「だから、逃げ道を用意しておきたいのです。神様と、ちゃんと話し合った上で」


 セルジュは、しばらく黙っていた。


 やがて、ほんのわずかに口元をゆるめる。


「……あなたは、本当に」


「はい?」


「いえ」


 セルジュは視線を紙に戻し、さらさらとペンを走らせた。


「第3条。文言を少しだけ修正させてください。『不利益なく』だけでは範囲が広すぎます。『財産権及び社会的信用を保持したまま』も追加しましょう」


「財産権と、社会的信用」


「聖女としての地位は、婚姻とは別に神殿と結んでいる契約に基づきます。そこも明文化しておいた方が、後々トラブルになりにくい」


「……さすがです」


 思わず感嘆の声が漏れた。


 セルジュは淡々と仕事を進めながら、ふとだけ目を上げる。


「他にも、この第4条」


「夫が妻を軽んじる発言をした場合、その内容を神前にて公開される、の部分ですね」


「ええ。このままだと、殿下の評判が一気に奈落に落ちかねません」


「そうなっても、自己責任では」


「……そうなのですが」


 セルジュは小さくため息をついた。


「公開の範囲を『婚姻に直接関わる関係者の前』に限定しましょう。そうすれば、大炎上は避けられます」


「大炎上」


「あなたの前世の言葉を借りました」


 私がつい口にしたネット用語を、こんなに自然に回収されるとは思わなかった。


「セルジュ様は、もしかして、私の前世の話に興味があるのですか」


「聖女の前世に興味を持つなという方が無理でしょう。たまに出てくる妙な比喩も、気になっていましたし」


 少しだけ、空気がやわらぐ。


 でもそれも一瞬で、セルジュはすぐに真剣な表情に戻った。


「最後に、この第5条」


 妻が婚姻から解放された際、女神は妻をもっとも大切にする者を、新たな伴侶候補として示す。


 セルジュはその文を指先で軽く叩いた。


「……これは、かなり踏み込んだ条文です」


「女神様の提案です」


「納得しました」


 あまりにもあっさりとした返事に、思わず笑ってしまう。


「殿下が不満を示される可能性は高いですが」


「読まずに署名してくれないかな、と少し期待しています」


「あなた、時々ものすごく本音が出ますね」


「すみません」


「いいえ。嫌いではありません」


 セルジュはさらりと言って、紙から目を離さなかった。


 その横顔を眺めながら、私はふと思う。


 この人は、最初からずっと、私の味方でいてくれたのかもしれない。


 書類の山に埋もれた神官たちを助けるために、神殿と宮廷の契約を調整してくれたときも。聖女の過労が問題になった時も。いつも、淡々と、正しい方向に話を進めてくれた。


 そんな人が今、私のために、私の逃げ道を整えてくれている。


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


 


 そして、婚礼前夜の神前確認式の日が来た。


 神殿の大広間。高い天井。色とりどりのステンドグラスから、柔らかな光が差し込んでいる。


 中央には女神の祭壇。その前に、私とレオン殿下が並んで立っている。少し距離を開けて。


 周囲には、王族と貴族たち。神官たち。ミレーヌ嬢も、最前列で神妙な顔をしている。宰相補佐セルジュも、列の端の方に控えていた。


 神官長が、婚姻契約書を手に取る。


「これより、王太子レオンハルト殿下と聖女リディア殿の祝福婚姻契約書の内容を、女神様の御前にて確認いたします」


 張り詰めた空気が、広間を包む。


 契約書を作る側に回ることは多かったけれど、こうして自分が読み上げられる側に立つのは初めてだ。


 心臓が、どくん、どくんと音を立てている。


 神官長が、条文をひとつずつ読み上げていく。女神への誓い。国に対する責務。そして、問題の条文に差しかかる。


「第3条。妻が夫との婚姻を継続しないと、神前において宣言したとき、妻は財産権及び社会的信用を保持したまま、いかなる不利益も受けることなく婚姻から解放される」


 ざわっ、と周囲が揺れた。


 レオン殿下が、初めて真面目に契約書を見た顔をする。


「……なんだそれは」


「殿下がご希望された『白い結婚』の性質上、不平等を避けるために追加された条文です」


 セルジュの落ち着いた声が、広間に響いた。


「聖女殿は国と女神に力を貸す代わりに、婚姻において『いつでも身を引ける』権利を持つ。それが今回の合意内容となっております」


「そんな条文、俺は――」


 レオン殿下が何か言いかけて、ふん、と鼻を鳴らした。


「まあいい。どうせこいつが婚姻を解消したいなどと言い出すことはない。聖女の地位を捨てて、どこへ行くというのだ」


 ……この人、やっぱり読まずに署名した。


 心の中で、私は静かにため息をついた。


 神官長は、さらに次の条文へと進む。


「第4条。夫が妻を軽んじる発言をした場合、その内容は神前にて婚姻に関わる関係者に公開される」


 再び、ざわめき。


「おい」


 レオン殿下の眉間に、皺が寄る。


「なんだその条文は。必要ないだろう」


「殿下」


 セルジュが、一歩前に出た。


「これは、殿下ご自身のご発言に基づきます」


「俺の発言?」


「はい。『女神の前で白々しく愛だの忠誠だのを並べるつもりはない』『聖女を利用する』などの、過去のご発言を参考に」


 広間の空気が、一瞬止まった。


 セルジュ。さらっと爆弾を投げこんでこないでほしい。


 レオン殿下は顔を真っ赤にしながら、私をにらみつけた。


「お前、俺のことをそこまで悪く書いたのか」


「事実を整理しただけです」


 私は冷静に答える。


「殿下の発言が、殿下の望まない形で伝わらないように、『正しく』公開されるための条文です」


「余計なお世話だ!」


 殿下が怒鳴った、その時だった。


 天井のステンドグラスの向こうから、きらきらと光の粒が降ってくる。


 ああ、と私は心の中で思った。


 始まった。


 女神の声が、広間全体に響き渡った。


「第4条、試験運用開始しますね」


 声が、やけにクリアだ。音質がいい。どこかで聞いたことがあるような、定期連絡の自動音声を思い出す。


 女神の声は、そのまま続けた。


「それでは、レオンハルト王太子殿下の発言を再生します」


 私の背筋に、ぞくりとしたものが走る。


 嫌な予感は、だいたい当たる。


『お前を愛するつもりはない』


 広間の空気が、固まった。


 それは、さっきこの場で殿下が言った言葉。そのままの声、そのままの抑揚で、女神の声が再現する。


『真に俺が愛するのはミレーヌだ』


 ミレーヌ嬢の顔色が、一瞬で変わる。


『お前は聖女として国のために働き、俺は王太子として国を治める。それだけだ。全部、契約書に書いてしまえ』


 貴族たちが顔を見合わせている。


 女神の声は、そこでいったん区切りをつけた。


「以上、レオンハルト王太子殿下の公式発言でした」


 最後の一言が、妙に軽い。


「こ、公式……?」


 レオン殿下の肩が震える。


「待て。今のは、その……ええと、言葉のあやというか」


「リピート再生しますか?」


 女神の声が、さらっと尋ねてきた。


「『お前を愛するつもりはない』×3」


「やめろーーーッ!」


 ここが神殿でなければ、私は多分、膝から崩れ落ちて笑っていたと思う。


 いや、ここ神殿なんですけど。もうだめだ。女神様、完全に楽しんでいる。


 広間の空気も、凍りつきながらどこかおかしい感じになっていた。


「……とりあえず、第4条の効力は確認できましたね」


 セルジュが淡々とまとめる。


 レオン殿下は、耳まで真っ赤にしながら叫んだ。


「こんな条文、認めるか!」


「もう署名済みです」


 セルジュが冷静に追撃する。


「殿下が婚姻契約書に署名されたのは昨日。女神様の承認も、本日すでに済んでおります」


「なっ……」


 殿下が言葉に詰まった瞬間、女神の声が再び響いた。


「では、次の条文に進みますね」


 そこから先は、早かった。


 神官長が第3条を再度読み上げ、女神が静かに承認の言葉を告げる。


 そして。


「第5条。妻が婚姻から解放された際、女神は妻をもっとも大切にする者を、新たな伴侶候補として示す」


 神官長の声が、その文を読み上げた瞬間。


 私は、前に一歩進み出た。


「女神様」


 自分で自分の声に驚いた。震えていない。


「はい、リディア」


 女神の声が、やわらかく返ってくる。


「第3条に基づき、私の意思を伝えます」


 私は、深く息を吸い込んだ。


「私は、レオンハルト王太子殿下との婚姻を継続しません。神前において、そう宣言します」


 広間が、しん、と静まり返った。


 次の瞬間、私の薬指にはめられていた婚約指輪が、ぱきん、と軽い音を立てて砕け散った。


 光の粒になって、床に落ちないまま空中で消えていく。


「な……っ」


 レオン殿下が、間の抜けた声を上げる。


「ちょっと待て、勝手に――」


「勝手ではありませんよ」


 女神の声が、ぴしゃりと殿下の言葉を遮った。


「契約に書いてありましたからね」


 どこかで聞いたようなフレーズだな、と思ったら、私の口癖だった。


「殿下。あなたは『聖女を利用する』と宣言しました。その代わりに、聖女には『いつでも婚姻から解放される』権利が与えられました。これは三者合意です。文句があるなら、契約書をよく読みなさい」


「なんだその説教は!」


 殿下が顔を真っ赤にしながら叫ぶ。


 女神の声は、どこか楽しそうだった。


「リディア」


「はい」


「ブラック案件からのご卒業、おめでとうございます」


「あ、ありがとうございます」


 女神にそんな風に言われるとは思っていなかったので、つい素直に返事をしてしまった。


 あちこちから、ひそひそ声が聞こえる。


「聖女様、王太子殿下との婚約を……」「一方的に、でも正式に?」


 そんな中で、女神の声がもう一度響いた。


「それでは、第5条の発動に移ります」


 光の粒が、さらに強くなっていく。


「新たに、リディアをもっとも大切にする者を、伴侶候補として示します」


 広間の視線が、一斉に私の周囲に向けられる。


 レオン殿下が、当然のように一歩前に出ようとして――何も起きない。


「……あれ?」


 殿下が、きょろきょろと自分の頭上を見回す。


 何も、光っていない。


 代わりに。


 別の場所で、ふわりと光が集まった。


 広間の端。列の最後尾近く。


 そこに立っていた黒髪の男の頭上を、柔らかな光が包む。


「……え」


 セルジュ・ラグランジュ。


 女神の声が、はっきりと告げた。


「観察の結果、リディアを一番大切にしているのは、宰相補佐セルジュ・ラグランジュでした」


 観察の結果って何ですか女神様。


 思わず心の中でツッコミを入れる。


 広間中が、どよめきに揺れた。


「あの冷酷宰相補佐が?」「人間にも感情があったんだな……」


 失礼なひそひそ声があちこちから聞こえる。


 当のセルジュはというと。


 完全に固まっていた。


 目を見開いて、わずかに口を開け、そのまま数秒。やがて、ゆっくりと息を吐き、祭壇の前まで歩いてくる。


 レオン殿下が、慌てて声を上げた。


「ま、待てセルジュ! これは何かの間違いだろう!」


「女神様の判断に、間違いがあると?」


 セルジュの声は、相変わらず淡々としていた。


「……っ」


 殿下が言葉に詰まる。


 セルジュは、私の目の前まで来ると、片膝をついてひざまずいた。


 灰色の瞳が、正面から私を捉える。


「……申し訳ありません、リディア様」


「な、何がですか」


「わたしは立場上、この感情を押し隠してきました」


 静かな声。でも、その奥には熱があった。


「聖女としてのあなたを、神殿と国をつなぐ存在として、冷静に見ていなければならない。そう思っていました。公私混同してはいけない、と」


 女神の声が、なぜか小さく合いの手を入れる。


「がんばれ〜」


 やめて女神様、セルジュがしゃべりにくそうです。


 セルジュは一瞬だけ眉をひそめたものの、諦めたように小さく息を吐き、続けた。


「ですが、女神様がこうして示された以上、これ以上偽る方が不敬だと思いました」


 彼は、まっすぐに言った。


「わたしは、あなたを深く尊敬しています。契約を通して人を守ろうとする、その在り方を。自分を犠牲にせず、それでも誰かのために働こうとする、その姿を」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 そんな風に言われたことは、一度もなかった。


「……そして気がつけば、尊敬は、もっと別のものに変わっていました」


 セルジュの声が、わずかに震える。


「もし、許していただけるなら。あなたの一番の味方として、隣に立たせていただけませんか」


 広間が、しんと静まり返る。


 レオン殿下も、ミレーヌ嬢も、貴族たちも神官たちも。皆が息を呑んで、こちらを見ている。


 その視線の中で、私は、自分の気持ちを探した。


 レオン殿下に対して抱いていたのは、義務感と、少しの期待だった。国のために頑張ろうという、仕事仲間への信頼に似た感情。


 では、この男に対しては。


 契約書の山の向こう側から、時々見上げてくれた視線。過労気味の神官たちをそっと休ませてくれた配慮。聖女としての私ではなく、ただの「リディア」としてお茶を出してくれた、あの日のこと。


 それらを思い出すたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを、私はずっとごまかしてきた。


 でも今、女神様にスポットライトを当てられてしまった以上、もう逃げられない。


「……セルジュ様」


 私は彼の名を呼んだ。


「はい」


「女神様に、ここまで言われてしまっては、断る理由が見つかりません」


 女神の声が、楽しそうに笑う。


「ふふ、そうでしょう?」


「なので」


 私は一歩前に進み、膝をつく彼の手を取った。


「今度は、私自身の意志で、伴侶を選びます。セルジュ・ラグランジュ様。どうか、私の隣にいてください」


 セルジュの目が、大きく見開かれた。すぐに、それが柔らかく細められる。


「……はい。生涯をかけて、あなたを大切にすると誓います」


「誓い、聞き届けました」


 女神の声が、満足そうに響いた。


「では、新しい契約書も必要ですね。あとで一緒に作りましょう」


「はい?」


 私とセルジュの声が、ぴったり重なる。


 女神は、どこかノリノリだった。


「条文案は、ふたりで考えておいてくださいね。わたし、サインだけしますから」


 女神様のサイン付き夫婦契約書。


 なんだかとんでもないものを作る予感しかしなかった。


 


 数ヶ月後。


 私は、王族ではなくなった。けれど、聖女の地位はそのままで神殿に残ったまま。相変わらず魔物退治や祝福の儀式に呼び出されながら、以前よりもずっと自由な日々を過ごしている。


 そして今、神殿の応接室の机の上には、例の「新しい契約書」が広げられていた。


「……セルジュ様」


「はい」


「これ、本当に『最低限の取り決め』ですか」


「最低限です」


 セルジュは真面目な顔でうなずいた。


 紙には、ずらずらと条文が並んでいる。


 一条 配偶者を尊重し、その心身の健康を最優先に考えること。

 二条 配偶者が疲れているときは、まず休ませること。仕事を増やさないこと。

 三条 配偶者が泣いていた場合、原因に関わらずまず抱きしめること。

 四条 配偶者の前世トラウマを不用意に刺激しないこと。

 五条 月に1度は、必ず一緒に甘いものを食べに行くこと。


 以下、だいたいこんな調子で延々と続いていた。


「これ、ほとんど『リディア甘やかし条項』では」


「不足があれば、追って追記します」


「追記するんですか」


「ええ。必要に応じて」


 迷いのない顔で言われると、反論しづらい。


 その時、天井から光の粒がふわっと降ってきた。


「うんうん。いいですね、その条文」


 女神の声がする。


「第6条に、『配偶者同士、1日1回は笑い合うこと』も追加しましょうか」


「女神様、条文案を出すのは私たちでは」


「いいじゃないですか。わたしもこの夫婦案件にはだいぶ投資してるんですから、口を出す権利くらいあります」


 夫婦案件て。


 女神は笑いながら、契約書にさらさらとサインをした。


「これで、あなたたちの新しい契約は成立です。ちゃんと守らないと、条文第3条あたりが容赦なく発動しますからね」


「第3条は抱きしめる条文ですけど」


「そうですよ。ちゃんと抱きしめてもらいなさい、リディア」


「は、はい」


 なぜか私の方が赤面することになった。


 セルジュは、そんな私を見て、少しだけ表情をゆるめる。


「……今の第6条。いい条文だと思います」


「1日1回、笑い合うこと、ですか」


「ええ。守れるように、努力しましょう」


「努力、しなくても」


 私は小さく笑った。


「セルジュ様といると、勝手に笑ってしまうので」


 セルジュの目が、大きく見開かれる。すぐに、照れたように視線をそらした。


「……それは、とても光栄ですが。女神様の前で言われると、少し恥ずかしいですね」


「もっと言っていいですよ」


 女神がすかさず乗ってくる。


「では、条文第7条。『お互い、相手を褒めることを恥ずかしがり過ぎないこと』」


「増えましたね、条文」


「増やしましょう、どんどん」


 女神とセルジュのノリが妙に噛み合っているのを見て、私は思った。


 前の婚約は、義務と我慢の契約だった。


 今のこれは、笑いと甘えと、少しの照れくささに満ちた契約だ。


 どちらが幸せかなんて、考えるまでもない。


「……今度の契約書には」


 私はペンを手に取り、空いている余白にそっと書き加えた。


「私を一番大切にします、って。太字で書いておきますね」


 セルジュが、驚いたようにこちらを見る。


「それは……」


「もちろん、セルジュ様の分もです。お互いを一番大切にすること。二重線で強調しておきましょうか」


「二重線は、業務文書としてはあまり推奨しませんが」


「ここは業務文書じゃないので、大丈夫です」


 そう言って笑うと、セルジュも、少し照れくさそうに笑い返した。


 天井の向こうで、女神がくすくす笑っている気配がする。


 私は心の中で、そっと感謝を告げた。


 白い結婚を言い渡してきた人たちに対しては、正直、少しだけざまぁと思っている。街の子どもたちが「お前を愛するつもりはない」を変な替え歌にして遊んでいるという噂も聞いたし、レオン殿下はしばらく、どこへ行ってもいじられるだろう。


 それでも。


 あの日、あの場で、私ははっきりと自分の意志で「夫を捨てる」と宣言した。


 その結果として、私は今、こうして笑いながら新しい契約書を書いている。


 それなら、悪くない。


「セルジュ様」


「はい」


「これからも、よろしくお願いします」


「こちらこそ。一生分、よろしくお願いします」


 彼のその言葉を聞きながら、私はペン先で、二重線の上をなぞった。


 今度の契約は、義務ではなく、願いから始まる。


 前世の私に、この契約書を見せてあげたいな、と少しだけ思いながら。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!

「自分を使い捨てる契約から、自分を大切にする契約へ」

「義務じゃなく、願いから始まる結婚って最高では?」

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