Stufe 6: Rückkehr
カクヨム掲載作品です。
薄いレースカーテンに緩和された西陽がリビングに差し込んでいる。ソファーに座った女性に抱えられ、暖かい体温に揺られながら、子守唄を聴いている。意味の無い音を発しながら、優しげな顔に手を伸ばそうとする。その小さな花弁を指先で撫でながら、女性は花のように表情を綻ばせた。豊かなブルネットが華奢な肩から滑り落ち、視界は金のカーテンと彼女の微笑みで満たされる。
「それは、君の国の子守唄?」
「ああイーサン、ごめんなさい。ようやく泣き止んだところなの」
向こう側から男性の声が聞こえ、足音が近づいてくる。女性は振り返りながら苦笑すると、すぐにまた愛おしげな瞳をこちらに向けた。程なくして視界に、ダーティブロンドの男性の姿が追加される。
「こっちではマザーグースが一般的だから」
「──そうなのね。私のお母さんが歌ってくれたのは、これだけよ」
「でも、その歌の方がこの家には合ってるよ。とても──伝統的な響きで」
「ロッキングチェアがあったら完璧だったかもね」
視界の先で繰り広げられる仲睦まじい男女の会話が、音となって降り注ぐ。
「ロッキングチェア? ──じゃあ今夜から設計を始めようか」
「本当に? ふふ、……良かったわね、ベイビー。あなたのお父さんは魔法の職人さんなのよ」
細い指に額を撫でられる。暖かい体温に眠気が誘われ、次第に瞼が落ちていく。
「エリーザ、夕食は?」
「あとは温めるだけよ」
「じゃあ、あとは俺がやるよ。それから、暖炉に火を入れようか。そろそろ寒い季節になったしね」
徐々に意識が微睡み、二人の笑い声が遠のいていく。そして日没とともに視界は暗転した。
──転換。
彼女が庭の手入れをしているのを、揺り籠から見つめる。煉瓦で囲われた花壇の土を耕し、種を植えていく。ワンピースの裾が地面に擦れ、砂や泥で汚れるのも構わずに、時折麦わら帽子を抑えながら、鼻歌混じりに作業を進めている。
日除けから伸ばされた薄い蚊帳ごしの光景は幻想的にも見える。彼女の姿が遠く感じると喉が引きつり、起き上がろうとするもままならず、腕は空中でもがくだけ。耐えきれずに漏れた声を聞き取ると、彼女は道具を放り投げてこちらに駆けてきた。
「ごめんなさい、少し夢中になりすぎちゃったわね」
グローブを外して服を軽く叩き、蚊帳をめくった彼女に抱き上げられる。逆光のなか、額に浮かんだ汗をそのままに眉尻を下げ、彼女は微笑んだ。日差しは彼女と彼女の麦わら帽子で遮られ、生温い風が肌に当たるだけで心地よい。
「いつか、ここでガーデンパーティをするのが夢なのよ」
あやすように体を揺らされれば、喉も落ち着きを取り戻していく。穏やかな声がだんだんと子守唄に変化する。
「なんとか夏までには、完成させたいの。──応援してくれる?」
そのまま彼女は窓辺まで移動し、ガーデンチェアに腰掛けた。傍のテーブルにはレモンの沈んだ透明なピッチャーが汗をかいている。グラスに注いで一口飲むと、またこちらに向かって微笑みかけた。
「心配しないで。あなたの分もちゃんとあるから」
頬に彼女の指先が触れ、くすぐるように撫でられる。それがなんともおかしくて小さく笑うと、彼女はそれ以上に嬉しそうに口角を持ち上げた。
──転換。
ダイニングで夕食を囲んでいる。パン粉にムラがあり、焦げ目が不均一で少し硬いチキンカツレツ、ハーブの香り漂うパサついたベイクドポテト、しんなりしたサラダにレモネード。それぞれのプレートの真ん中にはバケットのバスケットと、ソーセージを盛り合わせたプレート。多少不格好ではあるが、温かみのある食卓だ。
「今日はなんだか豪勢なんじゃないか?」
仕事帰りに手洗いと洗顔を済ませたイーサンが、色とりどりのテーブルに表情を緩ませる。そして向かいに着席しながら、いまだにキッチンで忙しなく動くエリーザに瞳を向けた。
「おかえりなさい、イーサン。今日は街で懐かしい料理のレシピ本を見つけたから、それに習って作ってみたの」
カウンターの笠木に乗せてあるレシピ本を指差して、エリーザが笑う。そんな彼女に目を細めるイーサンの横顔は穏やかだ。
「君の家庭料理?」
「正直なところ、これくらいしか覚えてないんだけどね」
最後にワイングラスとワインの乗ったトレイを持って、エリーザがイーサンの隣に座る。イーサンがテーブルに置かれたワインを手に取って互いのグラスに注ぐ。
「お待たせ! 今日はうまくいった方なの。遠慮せず食べてね」
エリーザがこちらに向かって笑いかける。そんな彼女のグラスの縁に、イーサンが自らのグラスを小さく当てた。二人が見つめ合って乾杯する。背後で古い振り子時計の鐘が鳴り響いた。
──転換。
エリーザと肩を並べてベッドに座る。彼女の膝には古い絵本が乗せられ、隣でページがめくられていくのを眺めている。彼女は本の文字をなぞりながら、囁くように内容を読み聞かせてくれていた。
「この上の文字は何?」
「ん? ああ──これは、ママの故郷の文字。こっちでは使わないから、あなたのために書き直したのよ」
「じゃあ、これはママの本?」
「そうね。ママが子供の時に読んでて、一番好きだった本かな」
エリーザはそう言って、挿絵の水彩画を指先で撫でる。懐かしむように細めた瞳はどこか寂しげだ。「ふうん」と気の無い返事をしてその違和感を誤魔化し、開かれていたページの絵を指差した。
「この子、死んじゃったの?」
エリーザを見上げると、彼女は優しく目を閉じて肩を引き寄せてきた。その後すぐに頭の上に重みが乗せられる。不思議に思いながらも身を任せ、彼女の言葉を待つ。
「この子は死んじゃったけど、祈りが通じて雨が降って、街は生き返ったの。だからみんなはせめてこの子がこの街で雨を感じられるように、この子の像を造ったのよ。この子の魂はもう別の誰かになっちゃったかもしれないけど、感謝の気持ちとしてね」
「ふうん?」
よく呑み込めていない返事をしたことで、頭上から小さく笑い声が漏れる。そして、あやすように肩を優しく叩かれた。
「まだ難しくて分からないかもしれないけど──人に優しくすること、感謝をすること……それってとっても美しいことなのよ。神様は必ず私たちの生き方を見ていて、相応の助けをくださるの」
エリーザは歌うように言葉を紡ぐ。音楽のように聴いていれば、自然と誘われるような眠気が訪れる。
「小さなことでもいいの。誰かに優しくしたり寄り添ったりすることが、誰かの助けになったりする。それはあなたにとっても同じ。そうやってお互いに助け合いながら生きていけば、人生はそれだけで幸福なものになるわ」
頭上から溢れる穏やかな笑い声に瞼の力を抜こうとするが、ドアのノック音で覚醒する。それはエリーザも同様だったようで、頭上から暖かい重みが消えた。
「ここにいたのかい、エリーザ」
作業着姿のイーサンが、開いたドアから半身を覗かせた。エリーザは慌てて背後を振り返り、窓の外を見て小さく息を呑んだ。
「まあ、もうこんな時間! ごめんなさいイーサン、夕飯の支度がまだだったわ」
寄り添っていた体が離れ、半身から体温が失われる。気づけば部屋には夜の冷気が漂っていた。
「いいよ、エリーザ。たまには街に降りて外食にしよう。俺も着替えるから、その間に君も支度して」
「本当にごめんなさい。すぐに済ませるわ」
慌てて立ち上がってクローゼットに向かうエリーザを、イーサンの暖かな眼差しが追う。そんな二人を眺めていると、冷ややかな視線がこちらを向いた。
「ミゲル」
夜の帳のような声だ。抑揚を失った声色と表情、静寂を纏った立ち姿。呆然と、瞳を合わせる。
「早くしなさい」
声に意識を縫い止められ、体は条件反射で立ち上がる。エリーザの声を遠くに聴きながら、足がドアへと向かっていく。イーサンの脇を通り抜けようとすれば、射抜くような視線を頭頂部に感じる。しかしそれを受け流すことしか出来ない。あとは逃げるように自室に向かうだけだった。
──転換。
「ミゲル、どうしたの? 学校で何か嫌なことでもあった?」
自宅に駆け戻り、飛び込むように自室に引き籠ってからしばらく経つ。そんな様子を訝しみながらも夕飯の支度をしていたエリーザが、ドアの向こうからこちらに呼びかけている。昔は大きかったテントも、今では膝を抱えなければ狭く感じるようになってしまった。──だが、その空間は確実に、心を落ち着けてくれる場所となっていた。
ドアに鍵は掛かっていない。それなのにエリーザはいつも、勝手に部屋に入って来ようとはしない。何かこちらが応えるまで、懸命にドアの外から声をかけるのだ。
「何かあったなら……話してほしい。ミゲルが何を思ってるか知りたいの」
窓からの日差しは消え、部屋の中はほとんど暗闇だ。テントに装飾された小さな電灯だけがじんわりと部屋を照らしている。その暖色に身を委ねながら抱えた膝に額を乗せ、ドアの向こうの声を聴く。その声が労りの色を帯びるほどに胸がすいていく。それだけ。それだけで充分だった。
「──ごはん、出来たのよ。もうすぐイーサンも帰ってくるし……ひと足先に食べましょう? 何か食べたら気持ちが落ち着くかもしれないわ」
何も応えないことで気落ちした声が、どうにかして部屋の外へ誘おうとする。眉尻を下げ、瞳を潤ませながら──その表情まで想像できて、ゆっくりと膝を崩す。そしてゆっくりとテントから顔を出して立ち上がり、気配だけとなってしまったドアの外に向かって歩き出す。ドアノブに手をかけて開けば、すぐ傍の壁に背を預けて座り込むエリーザの姿があった。弾かれたようにこちらを見上げる瞳は、明らかに安堵している。
「ごめんねミゲル。私、ダメな母親よね。あなたを助けたいのに、気持ちに全部気付いてあげられない。ねえ、ミゲル……あなたが強い子なのは分かるの。でも、それは弱いところを見せちゃいけないってことじゃないのよ。あなたが落ち込んだって泣いたって、私はあなたを弱いなんて思わない」
両手を掴み、祈るように──エリーザはその手を額に触れさせる。それが、昔読んでもらった絵本の”雨を祈る子ども”を思い起こさせる。教会に跪いて両手を組み、額をそこに合わせて祈りを捧げる水彩画。エリーザが小柄なことは、世間に出るようになって気づいたことだ。それでもまだ彼女は自分よりも大きいはずなのに、まるで小さな子供のようだった。
「私がダメなら、イーサンに言ってみて。彼はとっても頼りになるの。それに優しい人よ。──きっと、あなたを導いてくれるわ」
温まっていた心臓が一気に冷え始める。空虚な鼓動の音を聞くたび、脳が麻痺していくような感覚。エリーザがせめてもの助けとして編んだ言葉の糸が喉に絡むような気がして、頭を振る。
「大丈夫」
絞り出すようにそれだけ言った。色を失う瞳としっかり視線を合わせながら、凛とした声音で”これだけは守ってほしい”と願いを込めて。
「だから、パパには言わないで」
言ったところでどうなるかなど分かっている。だけど、それだけは。──それだけは。
──転換。
階段に座り込んで玄関ドアをぼうっと眺めていた。リビングから聞こえるのは両親の声だ。週末の昼下がり、昼食の後にこっそりと足を忍ばせて部屋を出て廊下を歩き、ここまでやって来たのだ。
「イーサン、あの子……学校で疎外されてるんじゃないかしら? やっぱり、こんな辺鄙なところに住まずに街で暮らした方が良かったのかも」
「そんなことはないよ、エリーザ。ここは君のお父さんの家だろう? 管理も兼ねているんだし……それに、こうしてゆったり過ごせる家の方が子供は伸び伸び育つと思うよ」
息子が部屋に引きこもったのだと安心しているようだ。ソファから漏れてくる声に耳を傾けながら、狭い段差で膝を抱える。
「でもあの子、友達の話を一切しないし、家にも連れてくる様子がないじゃない。そもそもここが街から遠すぎてハードルが高いのかもしれないけれど……私、心配だわ」
「君は何か相談されたことがあるのかい?」
「いいえ。──私が頼りないから、何も言えないのかも……」
「それは違う。君はとても思いやりがあるし、親身に接してくれる良い母親だよ。──だからつまり、そもそもああいう子供なのか……それか、君の前では格好つけたいのかも」
「──え?」
「……俺が、話してみるよ」
イーサンの声に顔を上げ、音に細心の注意を払って立ち上がる。そして廊下を滑るように進み、自室に飛び込んでそっとドアを閉じる。そのまま逃げ込むようにテントの中へ入り込み、膝を抱えて耳を澄ます。重厚な足音がだんだんとこちらへ近づいて、それに呼応するように心臓の鼓動が重くなる。やがてドアの前でそれがピタリと止まると、呼吸を最小限に抑えるように息を潜めた。
「──こんなに広いのに、お前の家はそこだけなのか、ミゲル?」
ノックも無くドアを開け、イーサンの靴がラグの起毛を踏み締める。部屋の中央で足を止めるとしゃがみ込み、テントの入り口から覗き込む瞳と目が合う。優しげな垂れ目とは裏腹に口角は真一文字だ。それが、静かにこちらを威圧する。
「お前はただ弱い人間なのか? それともエリーザを困らせたいだけなのか?」
彼女を困らせる気など毛頭ない。だが、自分を取り繕えるほど大人でもない。不安や焦燥は精神を蝕み、言葉を奪っていく。街に出ると、まるで自分が檻の中で見世物にされているような感覚に陥るのだ。だからそれを黙って受け流すしか術がない──それだけなのだ。
しかし、この葛藤を目の前の男に話せば”終わり”だということも直感で分かっていた。まるで朽ちかけの尖った崖の先に、踵を向けて立ち尽くしている気分だ。一歩でも後ずされば落下し、遥か下の大地に当たって潰れるだけ。だが前に足を踏み出そうにも──彼が居る。
「……友達の一人も出来ないのなら、自分一人でも満足出来る人間になればいいだけだ。そうだろう? 至極簡単なことだ、ミゲル」
イーサンはそう言ってわずかに口角を持ち上げる。
「人はみんな孤独なものだ。だから別にお前は一人でも問題ないはずなんだ。そうやって黙っているだけなら、割り切って生きていくしかないんだよ」
それでも応えが無いのを嘲笑ったのか、ふっと吐息のような笑いを漏らすと、イーサンは立ち上がって踵を返す。そのまま止まって顔だけ振り返り、肩越しにこちらを見下ろした。
「お前が何を恐れてるのか知らないが、言う気が無いならエリーザを困らせるな。──男と男の約束だ」
それだけ言い残すと、イーサンは早々に部屋を退出した。ドアの閉じる音が虚しく部屋に響き、遠ざかる足音とともに静寂が訪れる。耳鳴りすら聞こえてきそうな静けさを、風に揺れる窓ガラスが震わせた。
──転換。
「とってもいいおまじないがあるの」
エリーザはある日、そう言って彼女の部屋に招いてきた。まだ日が登って間も無い休日の朝だった。イーサンは早いうちから車で外出していて家には居ない──そんな休日。
小さい頃に何度も通った部屋は変わらず、シーリングライトやテーブルランプの暖色と、ロータスピンクのまろやかな甘さに包まれている。彼女がベッドサイドの小さなテーブルセットに手招きしてきたので歩み寄れば、その上には美しい絵の描かれた古めかしいカードが何枚も散らばっていた。
「座って。そして目を閉じて、今日一日のことを思ってこのカードの中から一枚選んで」
言われるがままに着席し、瞼を下ろし、暗闇の視界の中でテーブルを探る。散らばったカードから一枚摘んで目を開けると、エリーザがそれを手に取ったところだった。
「これは……”愚者”のカードね。いちばん自由で、いちばん始まりに近い意味を持つの」
「”ぐしゃ”……」
燦々と輝く白い太陽の下、軽やかな足取りで歌うように進む先には崖がある。それなのに描かれている青年の華やかな服も、手に持つ白い薔薇も、そばに控える犬も全て生き生きとして、恐れている様子がない。
「怖がらずに前に進める、自分のままでいられる……カードはそう言ってるわ。あなたは今日、新しい一歩を踏み出せるって。別に大きなことじゃなくてもいいのよ。些細なことでもいいから、やろうかどうか迷っていたことに一歩踏み出してみるとか、そんなことが出来る一日なんだって」
こちらにカードを向けながら、エリーザは小鳥を扱うような声で語りかける。穏やかに微笑む顔は朝の微睡にも似ていた。
「ねえミゲル、今日から毎日一日の始まりにこのカードを引いて。そしたら私が、あなたがその日どんな風に過ごしたらいいか、カードが教えてくれたことを伝えてあげる。カードはリビングに置いておくから、引いたら見せに来て」
愚者のカードと残りを混ぜてカードを纏めると、エリーザはそれをカードケースに丁寧に納めた。そしてテーブルに頬杖をつき、もう片方の手で優しく頭を撫でられる。その手つきに心が温まると同時に、言い知れない焦燥感が燻った。
「さて、それじゃあ──何かを始めるにふさわしい今日に、ミゲルは何をするのかな?」
カーテンの隙間、格子窓から日差しが差し込んでいる。エリーザは部屋に入るなりライトのスイッチを入れたので、この部屋に朝を告げてるのは、その小さな光のヴェールだけだ。時間の感覚とともに、頑なだった心も曖昧になっていく。そして、彼女の問いかけに引きずられるように、おずおずと口を開いた。
「──お母さん」
「ん?」
エリーザが小首を傾げる。そのヘーゼルの瞳の奥を見つめ、溢れ出す感情を勇気に変換する。
「──……お父さんが、怖いんだ」
その後、矢継ぎ早に何を言ったかはあまり記憶が定かではない。ただ、エリーザは瞠目し、まるでこの世の終わりのような表情をしていた。涙を堪えるように笑いながら、震える手で両肩を掴まれた。
「どうしてそんなことを言うの、ミゲル」
エリーザはずっと、イーサンを信じていた。だから自分の言葉など信じないと諦めていた。──だが違ったのだ。
この人はただ、暖かな家族を望んでいるだけなのだ。家族とはそういうものだと信じたいだけなのだ。本能的にそう気付いた時、彼女の崩れる表情と同様に、心の奥で何かが壊れる音を聞いた。
ただ、”言わなければ良かった”と──そんな後悔だけが脳内を侵食した。
──転換。
沈黙の車内をやり過ごす。丘を下り、窓の景色が自然から街並みに変わるのをただ見つめる。道路の凹凸に揺られてガタガタと鳴るのは、イーサンの仕事道具。後部座席に詰め込まれた工具や道具たちだ。会話が無くともこれさえあれば、体裁は保たれるような錯覚すら覚えた。
学校の入り口付近で車は停車し、それを合図に後部座席のドアを開けて地に降り立つ。ドアを閉める間際、運転席からこちらを流し見るイーサンの瞳とかち合うが、黙って目を逸らし、そのまま閉める。間もなく発車し、見えなくなっていく車を遠くまで見送る。そして踵を返し、学校とは逆の──海辺に向かって足を進める。その背中にこちらを揶揄するような声が掛けられるが、全て無視した。おおかた、いつも突っかかってくる生徒だろう。何が気に入らないのか知らないが、ご苦労なことだ。
連絡が行くかどうか、そうすればどうなるかなどどうでも良かった。ただ学校への拒否反応に従って、ひたすらに歩く。次第に視界が開け、やがてボードライン・パークの虹色のアーチが見え始める。サンドキャッスル・ビーチは朝でも賑わいを見せていて、ボードウォークにはスケートボードを傍に語り合う若者や、ギターひとつで路上ライブを行う者などが音楽に身を委ねていた。
色彩の合間を縫う風のように、少しだけボードウォークを通り抜けた先──クリフサイド・ネストへと足を向ける。少し小高い位置にあるそこは、ビーチの端に広がる岩礁地帯を一望できる小スペースだ。海という海が極彩色と音楽に包まれたサンクレスト・クルーズでは、静かな海を眺めたければ一歩外れるしか術がない。クリフサイド・ネストもその一つで、道路からはみ出した小さな展望スペースに錆びたベンチが二つ置いてあるだけの、もの寂しい場所である。
ベンチの間、手すりに寄り掛かって水平線を眺める。遠くからは未だ風に流されて音楽が微かに漏れ聞こえるが、ほとんど耳を刺激するのは目下の岩礁に当たる波音だ。その音の出所を目で追ううち、視界の端に奇妙な物体が映る。岩礁から抜け出せず、岩場に半分乗り上げた形で小型の作業船が波に揺られていたのだ。その姿は錆びきって、もう長い間そこに揺蕩っているのが窺える。
ふと、背後からクラクションの音がした。何となしに振り向くと、信号に引っかかって停止している車の中から、こちらを指差す恰幅の良い女性のシルエットが見える。心臓が重い音を立てたと同時に車のウィンドウが開かれ、いかにも人の良さそうな年嵩の女性が車内から顔を出した。
「ちょっとあなた、こんなところで子供一人、何をしてるの?」
声は至って優しげだ。しかしそれが返って恐怖にも似た焦りを呼び起こす。反射的に海辺に向かって足をずらしながら、無理やりに口角を持ち上げた。
「すみません、ビーチで待ち合わせしてるんです。でもこの場所初めてで知らなかったから、つい立ち止まってました」
「ビーチには、ご両親が?」
「はい、そうです」
女性は訝しんだ表情を消さなかったが、信号が変わったようで車の列が流れ始めた。隣から何か言われたのか車内で軽く会話が行われ、再び女性がこちらに振り返る。
「ならいいけど……車と、知らない人には気をつけるのよ」
そう言い残し、女性の車が発進する。流れ始める車の列に内心で安堵の溜息を吐くと、逃げるようにビーチに向かって駆け出した。
今度はクリフサイド・ネストから見えた廃船に向かって足を進める。サンドキャッスル・ビーチの端にある人気のない砂浜を通り抜け、岩礁地帯に到着すると、岩場に足を掛けて奥に向かう。しばらく行くと、波音に軋んだ音を立てながら小さく揺れる、目的の廃船へと到着した。
黒い船殻の片隅にあるラダーをよじ登り、傾いたデッキへと降り立つ。色あせたグリーンから小さく突き出した白いブリッジがあるだけの、錆びた廃船。見た目も居心地も快適ではないが、そこから見る水平線は格別だった。
視線を少しずらせばボードライン・パークの観覧車が霞がかり、喧騒が小さく流れ込んでくる。しかしこの場所は波音と海鳥の声が主体だ。軋みながら不安定に揺れる船体も、身を委ねれば揺り籠に揺られているようだ。暖かな日差しに目を閉じれば、次第に眠気に誘われる。明るい太陽の下で自分だけの空間が見つかるなど、思いもよらなかった。
「あれ、今日は先客がいるのか」
ブリッジに寄りかかり、いつの間にか眠っていたようだ。突然の声に身体が反応し、無意識に目を見開く。すると目の前にはいつの間にか、こちらを覗き込む少年の姿があった。
「大丈夫? 具合悪いってわけではなさそうだけど……」
毛先が緩く跳ねたダークブラウンの髪、横に流した前髪から覗くヘーゼルの瞳。声は少年だが身体の線が細く、儚げな印象の人物。片手には端が皺になって半ば捲れ上がった小さなペーパーバックを持っており、どうやら荷物はそれだけのようだ。
「──えっと……」
「もしかして、君も逃げてきたの? ……”向こう側”から」
突然の邂逅に言葉を詰まらせていると、少年はそう言ってボードライン・パークの方を指差した。そして、こちらに向けて微笑みかける。その雰囲気から、少し年上であることが窺えた。
「うん、まあ……」
遠慮がちに応えると少年は苦笑して、少し離れた位置に座って縁に寄り掛かった。そして徐に本を開き、ブックマークを外す。体勢を落ち着けるとこちらを向いてまた微笑み掛けてきた。
「じゃあ、申し訳ないけど……僕もしばらくここにいていいかな? 君と同じで僕も”向こう側”が居づらくてね。こうしてここで本を読むのが日課なんだ」
問いかけた割にはそうすると決めているようで、こちらの返事も待たずに少年はページに目を落とした。茫然とその様子を眺めているとその顔が再び持ち上がり、視線が合う。すると少年は、今度は申し訳なさそうに小さく笑みを溢した。
「ごめんごめん。君も好きに過ごしたら? 邪魔しないし──空気みたいに思ってくれていいよ。……ああそうだ、僕はノア。君は?」
なんの変哲もない自己紹介だ。なのに、それがとてつもなく尊いものに思え、胸の内から溢れる温もりで体温まで上昇する。海風がそんな肌を攫っていくのが妙に心地がいい。
「ミゲル」
「ミゲル? そう、よろしくね」
──転換。
「こいつ、ほんと何考えてんのか分かんないよな」
「わかる。不気味だよ」
「こういう奴が親から銃盗んで、学校で暴れるんだぜ」
「ねえ、知ってる? こいつの家、街からずっと離れた丘の上にあるの」
「知ってる知ってる。デカいだけのゴーストハウス」
「こいつの親もどうせ変人だよ。関わらない方がいい」
「私の家、前こいつの親に塗装頼んだらしいけど、ひどかったってママが言ってた」
「ああごめん、見えなかったよ。ハハハ」
「ねえミゲル。実は僕、本当は外に出ちゃいけないらしいんだ。母さんは僕が病弱だからって言うんだけど、実際のところ、病気なんてしたことないんだよ。でも母さんはあれこれ過保護でさ……なんか少し息苦しくて、ここに逃げて来てるんだ」
「──友達? うーん、僕は友達って呼べるの君くらいだからなぁ。ミゲルは僕以外にも友達が居るんだろう? どんな感じ──……そう。いや、なんとなくそうじゃないかとは思ってたんだけどね」
「いや、本が特別好きってわけじゃないんだ。家に大きな本棚があってさ。誰もあまり使ってないから一冊ずつ持ち出してるだけだよ。家の中で出来ることなんか読書くらいだろう?」
「地球が丸いのにどうして僕らが落ちないのかって? それはね、重力があるからだよ。こう、──球体の中心に向かって引っ張る力がかかってて、海や大陸、その上の自然とか、建物とか、僕らみたいな人間とかの全てのものは、否応なしに地球に立たされているんだよ。……え、無くなったら? そしたら僕らみんな空に浮かんで、宇宙に放り出されちゃうんじゃない?」
「……君って案外おしゃべりだよね。最近じゃ空気になる暇もないよ。はは、冗談冗談。読書なんて真剣にやってないからさ」
──転換。
最近、エリーザが塞ぎがちだ。理由は分かる。学校にも禄に行かず、廃船で知り合った友人との時間を過ごし、家にもギリギリまで帰らない──そんな日々が続いているからだ。加えてイーサンの仕事も忙しく、家を空ける事が多くなった。必然的にこの広いだけの部屋にエリーザは取り残されることとなり、リビングのソファで膝を抱えている後ろ姿を何度も見た。
始めのうちは律儀に守っていた”朝のタロット占い”も、いつの間にかやらなくなった。会話のきっかけとして持ちかけて来たのは知っていた。だからやらなくなれば自立したと喜ぶのかと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。だが再開しようにも気まずさが勝り、そうしているうちに会話も減っていった。
平日は朝食を食べ、学校へ行くふりをして廃船へ向かう。たまに気まぐれにクラスへ足を向けることもあったが、周囲の奇異なものを見る目線と、明確な拒絶、体当たりやロッカーへの嫌がらせなどは相変わらずだった。だがそれを鼻で笑えるようになったのは、新しく出来た友人のおかげだ。
休日は朝食の席に座ることもあれば、前日の夜にキッチンからくすねたパンや果物をバッグに詰め込み、自室から廃船へ直行することもあった。それをすればエリーザが悲しむことも分かっていたが、やめられなかった。安息の地はそれほど中毒性があったのだ。
相変わらずイーサンは、家にいる時はエリーザの側にいた。少しだが歳を重ねて分かったのは、彼がいつになっても彼女の”恋人”だということだ。幼少期から自分に向けられていた敵意にも似た拒絶の理由。遠くから二人を眺めながら、いくらイーサンがエリーザだけに目を向けようとしても、エリーザがイーサンだけを見ることはないとほくそ笑む。もういっそのこと壊れればいい──そんな感情さえ生まれ始めていた、そんな時だった。
ある休日の朝、窓からイーサンが森に入っていくのを見た。朝焼けの光を受けてその長身の影が大地に伸び、森に消えて行ったのだ。ガレージのシャッター音で目を覚ましたことで気づいてその姿を見送ると、妙な好奇心に駆られて上着を羽織る。靴を履き、ハンガーポールに引っ掛けてあったライトを手に取ると、忍び足で家を出て後を追う。森に入るのは初めてだ。昔は狩りをする人もいたらしいが、最近ではそれも無くなり、ただ鬱蒼とそこにあるだけになったという話はエリーザから聞いていた。だから、迷っては危ないから入ってはいけない、とも。
朝露滴る葉が服に当たる度、その水分を服が吸い上げる。霧がかった森の中はうっすらと朝の日差しを受け、どこかで小鳥の囀りが響き、神聖にも見える自然美が目の前に広がる。しかし前日降った雨が土をぬかるみに変えていて、それだけが不快だった。
不幸中の幸だったのは、そのぬかるみが、獣道すら見えないただの森の道標を作っていたことだ。イーサンが通った後の足跡が残されていた。妙に左右に振った道筋だが、足跡を追って進めば危なげなく森を抜けることが出来た。
森の先にあったのは木小屋だ。家の白く塗られたラップサイディング壁と異なり、木の板をただ重ねただけのシンプルな造り。雨に濡れて湿った部分には所々苔の生えた一角も見える。まるで秘密基地を発見したような高揚感を覚え、高鳴る胸を押さえ込む。使うことの無かったライトをボトムスに突っ込むと、ポーチの段差を慎重に上がって玄関ドアに耳を付ける。そして中の音に集中すると、不可解な声を耳が拾った。
くぐもって聞こえづらいが、何かが呻いている。最初は連続していたそれが、だんだんと断続的になっていく。何の音なのか確かめたくて、玄関ドアのノブを下ろす──鍵は、掛かっていない。そっとドアを引くと、真っ直ぐ続く廊下の先から一際大きな物音が聞こえ、息を呑むと同時に肩が跳ねる。その後、静かに響く笑い声──それがだんだんと嘆きに変わり、誰かが苦しんでいるのだと胸の奥で理解する。
何も分からない。何も想像できない。扉の先にどんな光景が待っているのか──期待に満ちていたはずの心に、恐怖の染みが広がり始める。しかし、理由のない好奇心が足を前に動かしていく。そっと、木板の床が軋まないよう祈りながら。すると、半分進んで固唾を飲んだところで、目の前の扉がゆっくりと開かれた。
「──ミゲル?」
ドアから出て来たのは、悪魔だった。シャツとスラックスに大量の赤を纏った、ダーティブロンドの悪魔。いつも着ている作業着には何色ものペンキがこびり付いているが、目の前の悪魔はただ、私服に大量の赤を飛び散らせている。ドアから漂う鉄錆のような匂い、体温のような生暖かい熱気のようなものまで感じ、胃が無意識に痙攣する。だがそれでも、目の前の光景が何なのか、脳が理解しようとしない。
「森は危険だから入るなと、エリーザに言われていただろう」
いつもの嗜めるような声音で、悪魔は言った。段々と、得体の知れないものがイーサンになっていく。息苦しさに空気を吸おうと肺が動くのに、異様な香りを放つ空気が鼻を通るたびに胃が拒絶反応を示す。足がガクガクと震え、よろめいた身体が壁に当たり、それを支えに何とか体勢を保つ。それを、冷たい瞳でイーサンが見下ろしている。
「ミゲル、来なさい」
イーサンは静かにそう言い放ち、ゆっくりと踵を返した。その言葉に操られるかのように、足が廊下の奥へと進んでいく。そして奥の部屋の、半分開かれたドアに手をかけ開けた先。そこには地獄の光景が落とされていた。
脳が拒否する。砂嵐が煩い。判然としない視界にちらつくのは、椅子に縛られた何か。コンクリートの床は赤く染まり、水の滴るような音がやけにはっきりと耳に届く。ドアの前で声を出せずにいると、イーサンが椅子の背もたれを蹴る。大きな音を立てて椅子とその上の物体が倒れ込むと、とうとう口から悲鳴が上がる。一度タガが外れればそれは断続的に続き、イーサンがわずかに顔を顰めた。
「静かにしろ!」
初めて聞く怒鳴り声に息を呑む。胃の痙攣が止まない。悲鳴と一緒に必死に飲み込み、その場に硬直する。イーサンは赤い海に揺蕩うハンティングナイフを手に取り、したたる滴も構わずに椅子に縛られている物体の縄を切り始めた。そして物体が椅子から離れると、椅子だけ持ち上げて部屋の脇に移動させる。そのままバケツに入った水で椅子を洗い始めた。
「言いつけを破った制裁を──と、言いたいところだが……エリーザにはお前が必要だ。忌々しいことにな」
胸を押さえて込み上げるものを堪えることに必死になりながら、そんなイーサンの挙動を見守る。彼は仕上げとばかりにバケツの水を椅子に全てかけると、道具を置いて立ち上がった。透明な水が床を這い、赤と混じって色を滲ませる。視線を下ろせばその光景が喉に痛みを伝えるので、心を保つにはイーサンを見上げるしか術がない。
「いいか、この事は誰にも話すな。一切の口を閉ざせ。さもないとエリーザの事など関係なく全てを壊す」
血を浴びた顔がランプの灯火に陰り、瞳だけが光るようにこちらを見下ろす。荒くなる息を抑えるために両手で必死に口を抑える。指の間から漏れる空気が皮肉にも、冷え切った掌をじんわりと温めた。
「お前はこれから共犯者だ。──手伝え」
それから先のことは曖昧だ。動かなくなった物体を引きずり、部屋の奥にあるドアから外に出す。その先には、木が避けてわずかに視界の開けたスペースが奥に向かって広がっている。出たすぐ脇にある簡易トイレやドラム缶すらそのまま通り抜け、奥まったところに二人で穴を掘る。
そして終わった時、振り返った地面に残る赤黒い滲みとぬかるみに刻まれた曲線──自然が放つ清々しい酸素を吸った瞬間、堪えていたものが逆流する。胃がねじれ、声も出せずに吐いた。
自然が吐き出す酸素に溺れるように──全てを。
──転換。
「ミゲル、来なさい」
ひたすらに穴を掘る。
「誰にも言うな、お前は共犯者だ」
森の木々が、土を抉る音を跳ね返す。
「ミゲル、最近どうしたの? 挨拶すらしてくれないなんて……」
深く、出来るだけ大きな穴を掘る。
「イーサン、ミゲルが……ミゲルの様子がおかしいの。最近ずっと外に出かけてるのが何か関係してるのかしら? 私、好きにさせ過ぎてたの?」
穴を掘るたび、付近から異臭が漂う。
「エリーザ、君の方が病んでしまいそうだ。ミゲルのことは俺に任せて、しばらく休んだ方がいい。部屋も辛いなら……アティックがあるから」
涙や怯えなどとうに忘れた。
「ねえミゲル、君、最近なんか変じゃないか? 何かあったの? ──もしかして、喋れないの?」
もう逃げられない。何度繰り返したかも覚えていない。
まるで、地球の重力から解き放たれ、宇宙に投げ出されたかのようだ。世界はもうガラス越しにしか見えない。そのガラスは、自分の声だけは通さない。
あの、静かな不和に包まれた日常が恋しくなる日が来るなど──誰が想像しただろうか。
──転換。
「あ、ごめんね。ここってもしかして、君の場所だった?」
摩耗する日々で唯一自分を取り戻せる場所に、珍客があった。短いブラウンの髪と、頼りなさげに下げられた眉、こちらを窺うような上目遣いの、小柄な少年だ。消え入るような声を絞り出した彼の両手には小さなメモ帳とペンが握られている。ブリッジに寄りかかって絵を描いていたらしい。開かれたページには黒の陰影だけで水平線が表現されていた。
小さく首を横に振って、いつかの友人のように少し離れた縁に寄りかかって座る。そしてゆっくり瞼を閉じようとしたところで再び声がかかった。
「あ、あの……僕ここにいても大丈夫?」
遠慮がちな声に、小さく頷く。すると少年はほっとしたような、まだ不安をぬぐい切れていないような表情で空笑いを漏らすと、立ち上がりかけていた背中をブリッジに落ち着けた。
目を閉じ、しばらくペンが紙を擦る音を聞いていると、それが時々止まる。景色を眺めているのかと片目を開いて様子を見れば、上目遣いと目が合った。
「あっ、ごめん! そ、その……僕本当にいて大丈夫なんだよね? 君、何も言わないし……本当は嫌だったりしないのかなって……」
怯えるように言葉を詰まらせながら、少年が慌てて弁明する。そんな姿をじっと見つめてどう答えようか迷っていると、助け舟があった。
「──大丈夫。別にここは誰の場所ってわけでもないし、僕ら二人とも、勝手にここへ来て各々好きに過ごしてるだけなんだ」
ラダーを伝ってノアがデッキへやって来る。声を聞いていたのか、代わりにそう言って少年を安心させるように微笑みかけた。
「そ、そうなんだ。えっと──」
「僕はノア。こっちはミゲルだよ。──ちょっと、家で色々あったみたいで……喋れなくなっちゃったみたいなんだ」
「え、それって、大丈夫? ごめんね僕、いろいろ話しかけちゃって……」
「気にしないよ。ミゲルは喋れないけど、ここにいるのは安心なんだって。──僕ら、ここに避難してる者どうしなんだ。ええと、君は?」
ノアの問いかけに、窺うような視線ばかり向けていた少年の表情が緩む。それから、安堵したように笑みを溢した。
「僕、ジョナスっていうんだ。僕も、ここへ逃げて来た。──パパが、怖くて……家が嫌いなんだ。学校も、虐められるから嫌い」
三人は瞬時に打ち解け、日が暮れるまで話をした。もちろん言葉を発するのはノアとジョナスだけだ。しかし耳を傾けながら首を使って会話に参加した。
気が緩めばジョナスはおしゃべり好きで、感受性豊かなアーティストだった。彼の控えめな個性は耳心地が良く、現実を忘れさせる安らぎをもたらしてくれる。
「ねえ、地球が丸いってことは、ここから紙飛行機飛ばしたら後ろから戻って来るのかな?」
メモを破り、紙飛行機を作って水平線に向けて飛ばした。すぐに風に煽られて波間に落ち、しなびて水面をゆらゆらと行き来するしかなくなった姿を見て笑い合った。
「海にも虹があるの知ってる? 水しぶきがいい感じになった時、手の届く場所に出来るんだよ」
三人で岩場に降り、波の飛沫が上がって虹が出来るのをひたすらに待ったこともあった。
「雲の上ってどんなベッドより気持ち良さそうだよね。食べたらクリームの味がしそう」
「──ジョナス、残念だけど……雲は実は霧の塊みたいなものなんだ。綿みたいに柔らかくてクリームみたいに甘かったら素敵だけどね。……君、もしかしてお腹空いてる? それとも眠い?」
ノアに現実を突きつけられ、恥ずかしそうに笑う彼を見て安らぐ時もあった。
彼のどこか夢見がちな声に誘われて、何度も幻想の世界に浸った。だがどこかで、その真綿のような安息が永遠ではないことも、悟っていた。
──転換。
いつものようにデッキで三人各々過ごしていると、久々の珍客があった。臙脂色のワンピースを纏った、長いブルネットの少女だ。突然船殻をよじ登ってやって来た存在に三者三様に面食らっているうち、少女はデッキに上がりきって腕を組むと、勝気な瞳で三人を見下ろした。
「へえ? ここってもしかして、”負け犬小屋”って感じ?」
不敵に口角を上げながらひとりひとりの顔に順に視線を流す。縁に寄りかかって絵を描いていたジョナスは肩を竦め、ブリッジを背にしていたノアが目を丸くする。そんな二人越しに少女を見上げると、挑戦的な目が太陽光を反射したのか、眩しさに目が眩んだ。
「うーん、悪く言えばそうなるのかもしれないけど……”避難所”ってところかな」
「あらそう」
頬を掻きながら苦笑するノアに対し、少女は事もなげに返事をする。そして三人の間を抜けてフォアデッキへと向かった。──とはいえ小型船なので、さほど距離は無い。フォアデッキの手すりに手をかけて遠い水平線を眺める彼女の後ろ姿を、再び三者三様に見守る。真っ直ぐに伸びた髪とスカートの裾が海風に揺られて靡く。しかし彼女は肩幅に開いた両足でしっかりとデッキを踏みしめ、まるでここには存在しないマストのようにしっかりと立っていた。
「──確かに良い場所ね。風が気持ちいいし、”避難所”っていうのは言い得て妙だわ」
大人びた口調で髪を払いながら振り返る。陽光の下、燃えるような瞳が三人を見据えた。
「でも”避難所”ってことは、避難者は来る者拒まずってことよね?」
「え、もしかして君も、──”向こう側”から逃げて来たのかい?」
不敵な笑みを浮かべていた表情が、ノアの言葉で瞬時に顰められる。睨みつけられて軽く身を引いた彼に向け、少女は吐き捨てるように言った。
「”逃げて来た”なんて人聞きの悪いこと言わないで頂戴! アタシは”見捨ててやった”のよ」
言い捨てた後はころりと表情を戻し、溜息を吐く。まるで嵐のように苛烈な少女だ。
「世間に溶け込んでおけば自分は安心だなんて思ってる奴らの下らないコミュニティから、避難して来たってだけ」
言いながら縁に寄りかかり、足を伸ばして座る。黙っていれば可憐にも見えるのに、表情と物言いが彼女を強靭な精神の持ち主だと知らしめる。その表情はとても眩しく見えた。
「はは、すごい言い様だ。別に僕ら、ここで集まって特別何かしてるわけでもないから、君も好きに過ごしたら良いと思うよ。ね、ミゲル、ジョナス?」
問いかけられたジョナスは、肩を竦めたままおずおずと一言返事をした。隣の消え入る様な声を聞きながら、小さく頷く。すると少女はくるりと顔を向けて来た。
「どっちがミゲルでどっちがジョナス?」
「ぼ、僕がジョナス……だよ」
「じゃ、アンタがミゲルね」
首肯すると少女はノアを見やる。ノアは心得て微笑んだ。
「僕はノア。君は?」
「アタシはソフィよ」
片足をもう片方に乗せながら、ソフィは勝気な笑みを浮かべた。
「よろしくしてあげる」
──転換。
ソフィの提案で、廃船に集まる四人組は”ブラックアンカー同盟”となった。黒い船殻のわずかに色付いた部分に黒いスプレーで描かれた碇マーク。その落書きを、ソフィが目ざとく見つけたのが切っ掛けだ。四人はただ世間から避難してここで燻っているだけなのではなく、未来に向けて互いの思いや考えも話し合う──そんな、独自のコミュニティになろうとしていた。
「どうして人は自分を大きく見せたい時、誰かを標的にするんだと思う?」
「集団心理ってやつについて考えてみない? それに囚われる奴はバカっていうのを前提としてね」
「理想の大人ってどう思う? なりたい自分を想像するのと、なりたくない自分を想像するのってどっちが建設的なのかしら」
「こうやって、よく分からない腐った船がずっとこんな所に漂ってるのって、人間社会の真理だと思わない?」
総じて彼女の物言いは小難しい。ジョナスなどはいちいち質問を重ねながら一生懸命噛み砕いて聞き、ノアは彼女が話題を持ちかけるたびに舌を巻いて目を丸くした。
「君って本当、なんていうか哲学的な話題が好きだよね」
「だって、学校じゃこんな話出来ないもの。変人呼ばわりされて終了よ」
ソフィはノアが感心するような声を上げるたび、戯ける様な笑みを浮かべた。きっと、彼女は自分の考えを整理したいのだ。自分の中に生じた疑問や納得のいかない事柄──それらについて話し合い、自らの糧とするために。
だが、それ以前に彼女はしっかりと”自分”を持った少女だった。ある日、頑なに絵を見せようとしないジョナスに対して彼女が言及した時の二人のやり取りを見て、なんとなくそう思ったのだ。
「だ、だって、学校でバカにされるから……ヘタだって」
「他人をただバカにする奴の評価なんかアテにならないわ。いいから見せてみなさいよ」
根負けしたジョナスに差し出されたメモ帳を受け取り、ソフィがパラパラと絵を眺める。緊張の沈黙の中、すっかり眉尻を下げて不安げなジョナスの背後では、悠然とノアが本のページを捲っている。それが相変わらずの光景だった。
「ハン、やっぱりね。想像出来るわ。アンタをバカにした奴なんてどうせ、態度ばっかり大きくて何にもできない無能でしょ」
突き返されたメモ帳をおずおずと受け取ったジョナスの目が、心なしか潤んだように見えた。言葉を返せないでいるジョナスなど気にも留めず、ソフィは続けた。
「黒いペンだけでここまで風景を描けるのはすごいことよ。それに、あんたの夢見がちなエッセンス付き。これって充分アートじゃない。なのになんでそれが分からないヤツなんかのでたらめな評価を気にするのよ。いい? 純粋に絵を見てくれる人の評価だけを聞き入れなさい。じゃないと才能が潰れるわ」
彼女は苛烈だが、偽りがない。時に胸を引っ掻く様な事も言うが、それだけに、認められた時の言葉は劇薬だ。彼女が嫌うのは理不尽や横暴、矛盾。それらをキッパリと否定する姿は何よりも眩しく見えるのだ。
「うん、……ありがとう、ソフィ」
目頭を赤くしたジョナスが、メモ帳を抱きしめて震える声で礼を告げる。しかしその弱々しい態度はソフィのお気に召さなかったらしい。
「もう、うじうじしてるんじゃないわよ!」
眉を釣り上げるソフィに対し、ジョナスは小さく笑う。そんな二人からふと視線を外すと、ノアと目が合った。彼は安堵の溜息と共に肩を竦めると、黙って本に視線を戻す。それに倣って瞳を閉じ、遠くなる声に微睡みながら、誘われるままに意識を閉じた。──そんな、少し前の記憶。
だから誰も彼女を否定しない。むしろ彼女の考えを紐解きたくて質問を重ね、自らの意見を投げるのだ。
言葉が出ない代わりに、三人の言葉を借りて持論を積み上げる。そうすることで自分が出来上がっていくような、妙な快感を覚える。
刺激的な現実逃避は存外心地よく、中毒性のあるものだった。
──転換。
「ミゲル」
ドア越しに呼ぶ声が聞こえる。山小屋の寝室。ベッドの足元にあるハンガーラックの下で膝を抱え、顔を埋めてなにも見聞きしない様にしていたが、弾かれたように顔を上げた。
「おい」
再度硬質な声に呼ばれ、慌ててベッドを跨いでドアへ向かう。廊下に出れば、奥の部屋からこちらに向かって歩いて来るイーサンの姿があった。
「少し取りに行くものがある。その間、中を見張ってろ」
そう言って背後の部屋を指し示すと、玄関ドアの向こうに消える。外鍵を閉める音とともに気配が遠ざかり、しんとした空気が漂った。唾を飲み込んで廊下の奥を見やる。数センチほど開いたドアの先がその時点でどうなっているか、想像するのも恐ろしい。
イーサンが”作業中”にミゲルを呼びつけるのは初めての事だった。いつもは寝室に閉じ込めて居ないものとして扱いつつ待機させ、事が済んだ後に声がかかる。そして惨状を洗い流す手伝いをさせるのだ。しかし今回は”中を見張れ”と言った。つまり、事はまだ、済んでいない。
重い足取りを引きずる様に廊下を進む。永遠に続けば良いという願いは届かず、すぐにドアに手が掛かる。ゆっくりと引きながら覗き込むようにして中を窺うと、少なくとも惨状になっていないことに安堵した。中央に置かれたダイニングチェアに繋がれた人物は俯いていたが目立った怪我は無く、呼吸する背中はゆったりと上下していた。
肩まで伸びたダーティブロンドの長髪が顔の両側を覆い、その表情は伺えない。アイボリーのシャツとダメージジーンズ、スニーカー、そして痩せた体つき──どうやら若い男性のようだ。
動かないその人物を刺激しないよう、音を立てずにドアを閉める。そして部屋を壁伝いに歩くようにして角まで行くと、視線を中央から外さぬまま蹲み込んで膝を抱える。しばらくそうして言付け通りに見張っていると、唐突に目の前の人物が頭を持ち上げた。
伸びた前髪の間から、地球を模したようなアース・アイが覗く。顔立ちは青年と少年の間のようで、それほど年が離れていないことに心臓が軋む。だが彼の瞳はこのような状態でも蒼炎のように静かに燃えているかのように見えた。
「──お前、アイツのガキ?」
背もたれに後ろ手に縛られ、両足首も椅子の足に固定されている。そんな状況下の相手に掠れた声で問われ、瞠目した目が乾く。まるで自分の方が間違っているのかと錯覚するほど、目の前の少年は”普通”だった。
「名前は?」
更に問われるも、声を失って久しいミゲルは頷いたきり黙り込むしかない。すると諦めたように小さく笑いを漏らし、少年は出来る限り身を起こす。そして背もたれに体重を預けるように態勢を整えると、大きく深呼吸をした。
「そうやって、あの異常者の言いなりになってんの」
そう言って、彼は喉の奥で笑った。その声のひとつひとつが心臓を、脳をかき乱す。見張れと命令されている手前視線は外せないが、相手の目を見ることが出来ない。
「お前、それで納得してるわけ?」
まるで暇つぶしでもするかのように問いかけられ、眉間に皺が寄る。イーサンが彼をこれからどうするのか、具体的な事は知らない。だがその後の状態はいつも、目を背けたくなるような──吐き気と闘い続けなければならないものとなっている。数日は夢に魘され、聞こえるはずもない恨み言に耳を塞ぐ日々が続くのだ。
それを分かっているのかいないのか、彼の声はのんびりとしたものだった。声が出るなら伝えてやりたい。この後どんな痛みや苦しみが待っているのかを。想像の範疇を越えているので詳しくは言えないが、大量の血を流し、身体の一部は形がひしゃげ、絶命するほどなのだ。その痛みを知らなくとも手足が震える程の恐怖を呼び起こす──惨劇がきっと、これから行われるのだ。
「何でそこに座ってるだけなんだ? お前は俺みたいに手足が縛られてる訳じゃない。自由に動けるはずだろ? 何だって言いなりになってんだよ」
言葉が刃となって刺さる。焦って”縄を解いてくれ”と頼むでもない、純粋な疑問が投げかけられる。なぜそのように平静を保っていられるのかと苛立ちすら覚え、同時に羨望にも似た衝動が小さく燻り始める。
「あ、それとも何? これって異常者になるためのテストだったりすんのかよ?」
初めて少年の目が、蔑むように細められた。反射的に何度も首を横に降る。頭痛すら引き起こしそうなほどそうやって否定すると、少年は小さく笑った。
「へえ、だったらなんで何もしないんだ? 嫌なんだったら抵抗してみろよ。お前の手足は自由だろ」
ようやく彼のアース・アイを見上げることに成功する。腹の奥底に潜む何かがずっと燻っている。それが彼の瞳に視界を縫い付け、頭に声を響かせる。だんだんとそれが強くなっていく。
「俺だってどうしようもない親から生まれたどうしようもない人間だ。アイツが異常者だって知りながら自暴自棄になってここまで着いてきた。──まあ、心残りが無いわけじゃないが……もう後悔したところで遅い」
膝を抱えていた腕が外れる。その手がコンクリートに触れ、腰が持ち上がろうとする。言葉が紡がれる度に手足に力が戻るような錯覚。そんな様子を、全く期待のこもらない目が見つめている。
ああ、彼はもう自らの人生を諦めているのだ。ようやくそう思い至る。まるで自らにも言い聞かせるように、仕切りに「抵抗しろ」と言う。なぜ自分ばかりにと子供じみた怒りすら湧き始める。当て付けだ。
「お前は? 膝抱えて目と耳塞いでも、何も知らなかったことにはならないぜ」
いよいよ体の内で何かが爆発しようとした時、冷酷な声がそれを一気に鎮めた。
「”狩り”にしようか迷ってたところだったが、引き返してきて正解だった。──何を話し込んでるんだ?」
ゆっくりとドアを開け、イーサンが現れたのだ。何も感情を映さない瞳が、部屋の隅で立ち上がりかけていた姿を見下ろし、眉をわずかにひくつかせる。少年はそんな悪魔のような人物が戻ってきても、口角を上げて小さく乾いた笑いを喉から漏らしていた。
「ミゲル、何も話してないだろうな?」
「そいつが俺に何か告げ口したところで、この状況は変わらねえだろ」
「黙れ」
「アンタ、こんだけの事しといて何かが怖いのか?」
「──お前がこんなにも生意気な口をきく奴だとは思わなかった」
挑発的な発言を止めない少年に小さく舌打ちをすると、イーサンは壁のラックに引っ掛けられていたハンマーを乱暴に手に取った。その衝撃で周辺の工具がいくつか、けたたましい音を立てて地面に落ちる。思わず肩を震わせ、一瞬目を閉じる。再び恐る恐る開けば、ハンマー片手に佇む目前のイーサンを、好戦的な目で睨むように見上げる少年の光景が視界に飛び込む。息を呑む音に重なり、ハンマーを持つ手が振り上げられる。それが振り下ろされた瞬間、少年の声が部屋に木霊した。
「──ミゲル、やれ!」
鈍い打撃音が響き、呼吸が一つ停止する。入室した時と同様、少年がぶらりと首を垂れた。その頭からは血が滴り、あの時呼吸で上下していた背は、もう微動だにしていない。呆然とその姿を見つめる視界の端で、イーサンがハンマーを落とした。震える手を自ら押さえるようにしてその場に蹲り、荒い息とともに引きつった笑い声を喉から搾り出している。しかしそれは次第に泣き声にも似た呻きに変わった。何をそんなに必死に抑えようとしているのか分からないが、長身は力なく折り畳まれ、無防備な背を晒していた。
音の消えた世界で、視界の端に煌めくものがあった。散らばった工具に混じったそれを、天から与えられたもののように恭しく手に取る。頭の中に彼の声が反響する。
「抵抗しろ」
「やれ」
「お前は自由なはずだ」
無意識に足が進み、丸まった背を見下ろす。そして操られるように──手斧を持った両手を振り上げた。
ザッピングのように続いた記憶の断片が止んだ。窒息しかけた喉が機能を取り戻し、急激に肺に酸素を送る。喉と鼻を通して腐臭が体に入り込み、咳き込み──逆流しようとえずくのを何とか飲み込む。酷い耳鳴りに混じって呻き声が聞こえる。それが久しく聞いていなかった自らの声だということを自覚して驚きながら、正面の光景にもう一度目を向けた。
もはや記憶がなければ何なのか理解出来ないほど、黒ずんだ塊がライトに照らされている。ミゲルは力の抜けた足を何とか叱咤し、ドア付近に落ちて遺体を照らすライトを手に取った。
電気の通らない部屋をぐるりとライトで照らす。そしてまた中央に戻し、変わり果てた姿の二人を映す。虫が這い、羽音も舞っている。窓の無いこの部屋の一体どこから湧いたのか──そんな事を思いながら廊下に後退り、そっとドアを閉める。振り返って廊下の先を照らし、静寂のなか、足音を気にせず玄関へと進む。ドアに掛けられた鏡に映ったミゲルは、記憶よりも少し髪が伸びている。顔色は青白く、目は寝ぼけたように虚だ。視線の高さも心なしか上がっていた。
「──そうだ、そうだった」
掠れた声で呟く。鏡越しに自らの顔に触れ、確かめるように指先でつるりとした鏡面をなぞる。呆けたように鏡の中の自分と対峙していたミゲルの耳を、鳥の囀りが刺激する。窓の無い小屋は暗いままだが、外はどうやら朝を迎えているらしい。
ぼんやりとした意識を抱えたまま、ドアノブに手をかける。緩慢な動作で押すと、隙間から朝の日差しと冷えた空気が舞い込んでくる。あまりの眩しさに手を翳しながら扉を開き切ると、ポーチの段差に腰掛ける背中が目に入った。
「ミゲル」
そう呼ぶのは、穏やかな声。ゆっくりと振り返ったのは、毛先が緩く跳ねたダークブラウンの髪と、横に流した前髪から覗くヘーゼルの瞳。儚げながらもしっかりとそこにいる、記憶の中と同じ少年。
「君は、レーゲンにはならなかったんだ」
「──ノア」
もう長い事声に出していなかった名を呼ぶ。ノアは目を細めると、段差に腰掛ける自らの隣を軽く手で叩いた。促されるようにそこに腰を下ろし、ミゲルは力なく手すりに肩を預けた。ぼんやりと思い頭もそちらに傾け、じっと目の前の森を見つめる。あれだけ暗かった記憶の中の森は案外明るく、意外にも先の方まで見渡せる。点けっぱなしで片手に持っていたライトを消すと、ミゲルは森に向かってそれを軽く放った。
「僕は、別にどっちだっていいと思っていたよ」
段差の先に転がったライトを見下ろしながら、ノアは言った。
「でもソフィが、どうしてもこのままじゃ嫌だって言って……ジョナスも、怖がりながらも賛成した」
さらりとしたそよ風が草を撫で、濁っていた頭の中の膿を拐っていく。
「──どちらも、君だっただろう?」
「……ああ」
短く答えただけなのに、ノアはわずかに目を丸くしてミゲルに振り向いた。気怠げに手すりに半身を預け、ぼうっと森を見つめる横顔を見てクスリと笑う。
「君、そんな感じだったっけ。しばらく喋らないうちに、何だか変わったね」
耳心地の良い声が、目の前の森を水平線の一望できる廃船へと変えた。そよ風は潮風となり、草木の騒めきが波音に変化する。二人はいつしかあのデッキのブリッジに並んで背を預け、座り込んで海を眺めていた。
「あの時、──みんなの前で家に行くって話になった時……君が何か葛藤してるんだって分かった。それで、行った先で何が待ってるのかも、僕は知ってた。君の中に無理矢理生み出された”強さ”が、膨れ上がってどうしようもなかったんだ。止まった世界の中で廃人みたいに生きながら、実はずっと心の奥で君はそれを育ててた。僕はそんな君をずっと、どうするんだろうって見てたんだ」
勝気なソフィの声と、怯えながらも彼女に追いつこうとするジョナスの声が幻聴となって耳を打つ。デッキで互いに言い合う二人の姿が消えては現れ、ミゲルは遠い目でそれを追う。
「ソフィは引かなかった。レーゲンは僕らを招き入れた。──だから僕は、レーゲンをけしかけた」
ノアは歌うようにそう言って、懐からペーパーバックを取り出した。いつの間にか何処かへ消えた、血濡れの冊子。まっさらに戻ったページを開き、ブックマークを外す。今更ながら、その中身が白紙だったことにミゲルは気づいた。
「僕らの均衡が崩れれば、何か動く気がしたんだ。その先の未来がどう転ぼうと、少なくとも現状は打開できる。僕は君がどっちの道を選んでも今よりはマシだと思ってた。君がどうなろうと見捨てない。──大丈夫。最初の友達は、本物の友達が出来るまで傍にいる」
ミゲルが頭を持ち上げると、海は姿を消し、森が戻る。隣を見やれば変わらず、ノアはそこにいた。
「──ノアも、ソフィもジョナスも……みんな本物の友達だ」
「……ありがとう。あ、ひとつ誤解しないで欲しいことがあるんだ。ソフィもジョナスも、君を恨んでなんかいなかったよ。今も君の言葉を聞いて、きっと喜んでる」
目頭が熱くなるのを誤魔化すように、ミゲルは目元を押さえて俯いた。静かに息を引きつらせる彼の隣で、ノアはすっかり晴れ渡った空を見上げる。そうしてしばらくミゲルに付き合い、彼が落ち着いたところで再び口を開いた。
「……これからどうしたい?」
目元を拭って顔を上げたミゲルは、目醒めたような瞳でノアを見返した。そして小さく深呼吸をすると、決心したように眉根を寄せる。
「行きたいところが、あるんだ」
真剣な眼差しに微笑むと、ノアはゆっくりと立ち上がる。
「──わかった、じゃあ行こう」
段差を下りて振り返るノアを見上げ、ミゲルも立ち上がる。そして、記憶よりも小さくなったノアを先導するように、森の中へと足を踏み入れた。
その日、サンクレスト・クルーズの街にセンセーショナルなニュースが広まった。連日テレビで放送され、新聞記事の誌面を独占する報道は街の人々を困惑させた。やがてそれは海を越え、全世界にまで伝わっていく。誰もが恐怖と怒り、そして虚しさや悲しみを胸に抱き、その話題が彼らをしばらく独占することになったのだ。
『この地域で長年取り沙汰されていた行方不明者の件で、警察は本日、重大な進展があったと発表しました』
『一連の容疑がかけられているのは、イーサン・カルダー』
『容疑者死亡のため捜査は書類送検となる見込みですが、判明しているだけでも九名の遺体が発見されています』
『──凡そ二十年以上にも渡って犯行が……』
『山小屋周辺では複数の遺体が土中から発掘され──』
『過去に未解決と処理された事件についても、再捜査が進められる模様です』
『容疑者は少なくとも死後一年以上経過しており──』
画面の中の声は淡々と事実を読み上げたが、街に流れつく頃には形を変え、湿った憶測と怒りを纏っていた。
「息子さんに遺体の処理を手伝わせてたって。あまり親しくはなかったけど、あの人いつもニコニコしていて、誰にでも声かけるような人だったでしょう? 信じられないわ」
「そうやっていろんな人に近づいて狙ってたんじゃないの? 被害者の遺品を集めた部屋まであったらしいわよ。人は見かけによらないってことよ」
「私はああいうただ親切なだけの人、前から信用ならないと思ってたわ」
「しかし、支配してたと思ってた息子に殺されるとは……因果なもんだな」
「それにしたって遺族はいたたまれないだろ。浮浪者とか売春婦、あと非行少年とか狙ってたらしいから、そもそも身元が判明しないってパターンも多いって。そんな大罪犯したシリアルキラーが裁判にもかけられず、ただ息子に殺されたってさあ」
「──そういや奥さん、屋根裏で見つかったってな。心神喪失で衰弱してたけど一命は取り留めたらしい。ただ正気に戻ったところで旦那も息子も犯罪者ってんじゃあ、報われないな」
「いや、息子は情状酌量の余地アリで、いいとこ施設送りだろう。──それとも異常な父親の血を受け継いだ、単なる危険人物だってのか?」
やがて時が過ぎ、一大ニュースに代わる事件やスキャンダルが相次げば、噂はそちら側に容赦無く移行した。時は止まることを知らない。意図的に秒針を折らない限り、着実に未来を刻むのだ。
あれからは、怒涛の日々だった。全てを打ち明けたあの日──大人たちが慌ただしく動き回り、渦中のミゲルは振り回されるようにあちこち移動し、一年以上閉ざしていた言葉を人生で最も紡ぐこととなった。
ミゲルの対応をする大人たちは皆、一様にミゲルを気遣った。話せる精神状態か窺い、優しく語りかけ、必要以上に近づかない。それが年嵩の女性であろうが男性であろうが、ミゲルに等しく母親エリーザを思い起こさせた。あの時目を逸らしてしまった後悔が再燃し、度々言葉を詰まらせる。一人の時は流れなかった涙が、ちょっとしたことですぐに溢れて止められない。そんな状態の少年に警察や検察、カウンセラーなど様々な人間たちが付きっきりで根気よく接した。その甲斐あって、事件には大方の道筋が開けたようだった。
喧騒のような時を越え、ミゲルは児童養護施設で静かに慎ましく過ごしている。初めての相部屋のルームメイトも、気の優しい同級生だ。ノアともジョナスともソフィとも違う、等身大の少年。それがどんなものか掴めず、未だにぎこちなく会話することしか出来ていないが、相手は気にしていないようだった。
「じゃあミゲル、また午後な」
「──ああ」
さっさと身支度を終えて部屋を出ようとしたルームメイトに小さく応える。彼はこれから学校だが、ミゲルは施設内の教室で個人指導だ。しばらくはそんな生活が続くだろうと教師は言っていた。
ドアに手をかけていたルームメイトは、ぼんやりとした表情で気の無い返事をするミゲルに気付いて動きを止めた。
「……なあ、お前、俺の名前って覚えてる?」
突拍子もない問いかけにミゲルが目を丸くする。
「ジュード、だろ? 覚えてるよ」
訝しみながら小さく笑い、戸惑う声でルームメイトの名を呼ぶ。するとジュードは小さく肩を竦めた。
「いや、お前たまに俺のこと”ノア”って呼ぶからさ」
じゃあな、と颯爽と部屋を出ていくジュードを茫然と見つめていると、背後から声がかけられる。
「ダメだよ、ミゲル」
振り返ると、窓を背にしたノアがこちらを見て微笑んでいた。逆光に陰っていてもその表情は、記憶が補填してくれる。
「僕らは秘密の友達なんだから」
ノアは小さく笑ってドアを指差した。準備を済ませて早く行け、ということらしい。ミゲルは頷いて鞄を手に取ると、踵を返して部屋を出た。
廊下を進みながら現実の過去を反芻する。随分と長い間、あの家で空虚な非現実を生きた。常に誰かに見られている気がして全ての窓を塞いだ。元々は建設業者だった父親のガレージや倉庫にはそれだけの資材が詰まっていたし、そもそも窓の少ない家だったので自分にも容易だった。巣を作った達成感に浸りながらも、ほとんどの時間をあの廃船の上で過ごした。あそこに居れば友人達と過ごせて、自分を止めてくれたからだ。帰りは父親の財布を使って食料を調達し、すっかり引き篭もってしまった母親の世話をする──それが日課となっていた。
「父さんが居なくなった」と伝えた時には、母親はもう屋根裏の住人となっていた。毎夜亡霊のようにラダーを下りてはリビングのソファでぼんやりと座るだけ。その隙に食事を与え、会話を試みようとしたが駄目だった。彼女が自分に提案してきた一日一枚のタロット占いも効果を示さない。そんな状態の母親に父親の事を伝えると、それだけは理解してとうとうベッドの住人となったのだ。
自ら降りてくることの無くなった母の手を取って導く。ほとんど儀式だった。昼に現実逃避して、夜に現実を見る。時間は限られた円環の中を回るだけ。──ただ、それだけ。とにかく浄化されたかったのだ。
母親は病院で生きているとミゲルは知らされていた。自分よりも真っ当な処置を受け、今頃回復に向かっていることだろう。会いたいと思う。だが、もう二度と会いたくないとも思う。現実にはずっとひとりだったのに、まだ”ひとりになりたい”と思う。なのに、この場所が心地いいとも思う。
「エーレンベルクさんから打診があった」と教師に告げられた時、ミゲルは二つ返事で拒否をした。会ったこともない母方の祖父母は、最も気詰まりの対象だった。母親だけ連れ帰って、自分のことは忘れて欲しい──そう告げ、ミゲルは教師がどこか悲痛に眉間を寄せるのをただ、眺めていた。
教室で待っていると、ノックと共に教師が入ってきた。個別学習の教師ではなく、いつものカウンセラーの女性だ。今日はそちらが先かとぼんやりしながら挨拶をすると、カウンセラーは向かい側に着席しながら小さく笑った。
「──ミゲル、君に会いたいって今朝連絡してきた人がいるの」
「…………誰?」
乏しいながらも戸惑いと警戒の表情を見せるミゲルを横目に、カウンセラーは懐から一枚のメモ帳を取り出した。
「エレナっていう、十九歳で……あなたよりちょっと年上の女の子。──テオドールの恋人だったって、言ってる。君にどうしても伝えたいことがあるみたい」
ミゲルの表情が分かりやすく硬直する。カウンセラーは僅かに身を屈めてミゲルに視線を合わせ、安堵させるように首を振った。
「感謝の気持ちを伝えたいらしいの。……会ってみたい?」
”テオドール”。イーサンによる犯行の最後の犠牲者。不屈のアース・アイを持つ、強さの象徴。ミゲルの瞳が一瞬揺れ、俯き、机に置いていた手の拳が握られる。カウンセラーはその様子を逐一目で追いながら返事を待った。
「……うん」
小さく返事をしながら顔を上げたミゲルの瞳は、全く萎縮していなかった。ひと時の沈黙。確かめるようにミゲルを見つめていたカウンセラーは笑みを深めると、メモ帳を懐に戻した。
「じゃあ、そう返事しておくわ。昼食が終わったら面会室に行きましょう。──その後また、私に時間をくれる?」
ミゲルが首肯する。期待と好奇心と恐れを背に纏った少年は、また一歩未来に足を踏み入れようとしていた。
窓から光が十分に差し込む小さなカフェテリアのような場所に、一人の女性が座っていた。ドアを開けたカウンセラーに続いて入室したミゲルを見上げると、椅子から腰を持ち上げる。輝くようなブロンドの間で、光を受けた青い瞳が煌く。白いシャツにカーディガンを羽織り、下はジーンズというシンプルな服装だったが身綺麗で、背の高い女性だ。肩のあたりで切りそろえた髪が彼女の動作で揺れる。目尻の少し上がったアーモンドアイはどこか世間の影を知っているような渇きを帯びていて、それが彼女を大人びた印象に見せていた。
カウンセラーがミゲルを彼女のテーブルに促し、奥のテーブルへと去っていく。無言で目を合わせながら向かい合って着席した二人は、どちらも窺うようにしばらく見つめ合った。
「……私はエレナ。君がミゲル?」
「……うん」
先に口火を切ったのはエレナだった。少し低めのハスキーボイスが当たり前の自己紹介から始めようとするのをじっと見つめ、ミゲルも小さく応える。初対面の二人はそうして互いの視線を探りながら、徐々に会話を切り開いていった。
「聞いてるかな? 私がテオと──その、付き合ってたって話」
ミゲルが頷く。エレナは視線を僅かに泳がせて逡巡した後、決意したように真っ直ぐミゲルを見据えた。
「君に、ずっとお礼が言いたかったの。……ありがとう」
「……どういうこと?」
向き合う姿勢を見せ始めたミゲルにつられ、エレナはテーブルに両肘をついて肩の力を抜く。そして吐息のような笑いを漏らすと、遠い目を窓の外に向けた。
「私たち両方、親が終わっててさ。──ああ、どっちも片親で、……テオのママはドラッグ中毒者。私のパパはアルコール中毒者だったの。お互い居場所が無いって時にサンドキャッスルのボードウォークで出会って……それで、まあ──付き合ったんだけど」
ぎこちなく言葉を選びながら思い出に浸るエレナの横顔を、ミゲルは黙って見つめる。エリーザとは正反対の雰囲気を纏う彼女に、何となくソフィの姿を重ねていた。
「──正直お互い、”大事な人”が欲しかったってだけで……依存してただけなんじゃないかって今では思うの。けど、確かに大事だった。私は、危ない橋渡りながらも飄々としてるテオに憧れてた。このまま二人で生きていければそれでいいって思ってた」
きっとエレナは、窓の外にテオとの思い出を映している。自らの記憶の内にあるテオドールとは違う、日常の彼を思い浮かべている──そんなことを思いながら、ミゲルはただ耳を傾けた。
「でもあの日、私がテオの目を盗んでドラッグに手を出そうとしてたのが見つかって、すごい喧嘩になって──それからテオは姿を消した。私ね、何度もテオのママにその事言ったんだけど、全然駄目で……警察にも散々訴えたのに、私が非行に走ってるからって真面目に取り合って貰えなかった。その後もドラッグ所持がバレたりパパが捕まったりして──人生散々だった」
エレナは苦笑すると、ミゲルに振り向いて目を細めた。
「なんとか行方不明者リストには載ったけど、テオを真剣に探してるのは私だけだった。私の生活がいくらか落ち着いてもテオは見つからなくて、そんな時にあのニュースがあって……ああ、ごめんテオってすごく後悔した。──でも、君がテオを助けようとしてくれてたっていうのを知って、すごく救われたの」
エレナは確かに微笑んでいた。だがミゲルには、それがどこか病的にも見えた。
「でも──」
「いいの。聞いて。テオは助からなかったけど、それはほとんど私のせいよ。でも、可哀想なテオの魂は君に救われて、──私も今、こうして生きて君に会えた」
ミゲルの肩に何かが触れる。見上げれば、いつの間にか傍にはノアが佇み、肩に手を添えていた。
「見て。あれから私、立ち直って──友達とルームシェアしながら暮らしてるの。アルバイトだけど仕事も見つけて、普通の暮らしをしてる」
エレナはシャツの襟をつまみ、眉尻を下げて誇らしげに微笑む。そんな彼女を、窓から差し込む光が焼き尽くすように照らしている。ミゲルは肩に触れる感触に縋りながら、真っ直ぐに彼女と向き合っていた。
「ありがとう、ミゲル。テオの仇を取ってくれて」
外で吹いた風が窓を揺らした。その突然の歪んだ音が、室内に小さく流れる緩やかなBGMをかき消す。ミゲルは目の前で幸せそうな笑顔を見せるエレナの背後に、神々しい大自然と焼け野原を見た。そんな崖の淵で歌うように礼を告げる彼女を見ていると、警鐘のように耳鳴りが襲ってくる。だが胸の奥に生まれた焦燥と闘うミゲルを無視して、エレナは微笑みのままに一筋の涙を溢す。目を見開くミゲルに掠れた声で、最後の讃歌を口にした。
「君は私の、ヒーローだよ」
ホラーゲームシナリオ的な感じで考えていたので短く済ませるつもりだったけど、なんだかんだ長くなってしまった…
想像の余地として匂わせ程度に残している登場人物の背景なんかも、描かない部分の詳細を構築しながら進めていくと、どうしても時間が掛かってしまうんですよね。
ここまでお付き合いいただいた方に感謝します。




