Stufe 1: Schatten
カクヨム掲載作品です。
海岸沿いの街、サンクレスト・クルーズ。その名の通り、太陽光がすべてを包む海辺の街だ。ロングビーチには色とりどりのパラソルが咲き、海ではサーフボードが水しぶきを生み、光の粒を撒き散らしている。パラソルの花畑の先には、ボードライン・パーク。緩やかなコースターのレールと小さなアトラクションが並ぶ、古びた遊園地だ。虹色の籠が揺れる大きな観覧車が街を見下ろしている。乾いた青空の下、砂浜の上に絵具を溢したような色彩が、そうして散りばめられていた。
少年は、ビーチ沿いのボードウォークからその景色を眺めていた。その目は虚無だ。まるで彼だけが別世界に取り残されているかのように浮いている。しかし賑やかな喧騒のなか、彼の存在は”影”に等しかった。
花畑に背を向け、少年はボードウォークをそれとは逆方向に進む。スケートボードに乗った若者がすぐそばを走り抜け、生温い風がシャツの袖を揺らす。一瞥もせず、少年は悠然と歩く。周囲の人間の視界に少年が入っていないように、少年もまた、必要なもの以外のものが見えていないようだった。
賑わうビーチの片隅に降りると、そこから離れた岩場へと向かう。音楽や声が行き交っていた音が止み、波と風だけが少年の耳をくすぐる。岩場をくぐり抜けるとその先には、錆び付いた小型の作業船が打ち捨てられ、微かに波間に揺られていた。
船殻の端に黒いスプレーで碇のマークが落書きされた、名も無き船。それをうまくよじ登り、縁を跨いでデッキへ辿り着く。太陽の光がわずかに傾いた昼下がり、街特有の乾いた風に、潮の湿気が混ざる。小さく岩に当たって跳ねる波の音、遠くからこちらを呼んでいるかのような海鳥の声、錆びた船の軋む音。デッキに座り込み、縁に寄り掛かった少年は、何をするでもなく、ようやく安らぎを手に入れたというように、──ゆっくりと瞳を閉じた。
「ミゲル! またこんなところで居眠りしてるの?」
少女の声で、ミゲルはぼんやりと瞼を上げた。ゆっくりと瞬きを何度か繰り返し、視界が鮮明になると、景色が少し変わっていた。目の前では、長いブルネットに臙脂色の古びたワンピースを着た少女がミゲルを覗き込んでいる。その向こうで、操舵室の壁にもたれている少年が、小さな本を片手にミゲルを見ていた。その傍では別の少年が、デッキに開いたメモ帳にペンを走らせている。
「夏とはいえ、潮風は身体に毒だよ、ミゲル」
本を持った少年が、ミゲルに優しく語りかける。彼はシャツの上に薄いカーディガンを羽織り、風対策は万全のようだ。
「ミゲルも何か趣味を見つけたらいいのに。せっかく僕らの逃げ場所が出来たのに、いっつもそうやって寝てばっかり」
メモ帳にペンを走らせていた少年が顔を上げる。白いページには、船から見える海や空の景色が精巧にスケッチされている。居もしない、天使のような架空生物が追加されているのは、彼の遊び心なのだろう。
「そうね。──アンタはいっつも一番乗りするクセに、不貞腐れたみたいに寝てばかり。……あとジョナス、ここは”逃げ場所”なんかじゃないわ! ただの秘密の遊び場よ。──アタシたちだけのね」
「どっちでも変わらないと思うけど……君は本当に細かいね、ソフィ」
「ノアは黙ってて! ちょっと年上だからっていい気にならないでよ。いつでも”同盟”から外してあげるんだから」
ソフィが呆れ顔で肩を竦め、ミゲルから視線を外して後ろのジョナスを睨みつける。竦み上がったジョナスの代わりにノアが苦笑すると、それでもソフィは強気に食ってかかる。──ミゲルにとってその光景は、何にも代えがたいものだった。ただ何をせずとも、目の前で繰り広げられる会話に耳を傾ける。……それだけで、彼の枯れ切った心は水を吸って蘇るのだ。
「ミ、ミゲル、……その、何か好きなことは無いの? 笑ったところも見たこと無いし、──僕らの前では好きに過ごしていいのに」
ジョナスが遠慮がちにミゲルに語りかける。しかし、ミゲルよりも先に反応したのはソフィだ。彼女は、捨てられていたのだろう──縒れたコミックブックの砂を叩きながら、大きな溜息を吐く。
「ジョナス、何度言ったら分かるのよ? ミゲルには普通に話しかけたらダメ。ヒトが怖くて喋れなくなっちゃったんだから」
ソフィはそう言って最後に表紙を撫でつけ、ミゲルの眼前に掲げた。
「コレは好き?」
ミゲルは逡巡した後、小さく首を横に振る。ソフィは表紙の絵を自分に向け、再びミゲルに問いかけた。
「スーパーヒーローものは嫌い?」
ミゲルは頷く。すると、ソフィはニヤリと笑みを浮かべた。
「そう。アタシもこういう話は嫌いよ。だって現実にこんなヒーローなんていないのに、……みんな夢見過ぎよね」
そう言いながらもパラパラと中身をめくり、ソフィはデッキに寝そべった。ノアがくすりと笑いを浮かべ、小さくジョナスに囁きかける。
「YESかNOで答えられる聴き方をするんだよ、ジョナス。そうすれば、ミゲルは答えてくれる」
「うん、そうだった。──ごめん、ミゲル」
ミゲルは小さく首を横に振る。安心したのか、ジョナスは再びメモ帳にペンを走らせた。
彼らはほとんど毎日、午後の時間をこの場所で過ごしている。何も言わないが、それぞれ日常に帰りたくない理由があった。そうして自然とこの場所に足を向けて、邂逅した。──街から避難するかのように。
中でもミゲルは、昼下がりにはここに来てぼんやりと過ごすのが日常となっていた。故に、四人の中ではいつも真っ先にこの場所にいて、ただ時間が過ぎるのを待っているのだ。仲間が集まれば、そこからは憩いの時間となる。ミゲルはそれで充分だった。
廃船に身を寄せ、邪魔をせず、互いに好きな時間を過ごす。他人の事情に深く首を突っ込まない。──それが、彼ら”ブラックアンカー同盟”の掟だ。黒いスプレーの落書きが、彼らの同盟のシンボルなのだ。
空の青みが薄れてきた頃、コミックをつまらなそうに放り出したソフィが身を起こした。微睡んでいたミゲル、読書やスケッチに没頭していたノアやジョナスも釣られて顔を上げる。ソフィは胡座をかいて岩場の向こうの街を睨み、忌々しげに唇を歪ませていた。
「ねえ、正義のヒーローなんかより、もっと強くてナイスな奴がいるの、……知ってる?」
街から瞳を剥がし、ソフィが唐突に周囲に語りかける。その表情はどこか挑戦的で、彼女が何かを企んでいる時の癖でもある。ノアが眉を持ち上げ、栞を挟んで本を閉じる。ジョナスはあからさまに不安げに眉尻を下げた。
「──別のコミックのキャラクター?」
首を傾げるノアに、ソフィは首を振る。
「そんな空想の話なんかアタシはしないわ。現実の話。──ねえ、丘の上にゴーストハウスがあるらしいの。庭もあって、結構大きい家」
ソフィ以外の三人は互いに顔を見合わせる。そしてジョナスがおずおずと、試すような眼差しを向けるソフィを見上げた。
「丘の上って……セレスト・ヒル? あんな所に家なんかあるの?」
「あるのよ! 外国の人が……別荘? として建てたみたいなんだけど、今は空き家同然になってるって話よ」
「ああそれで、──ゴーストハウスなの?」
ノアは膝を立てて頬杖を付きながら、どこか興味深げな表情を見せた。ソフィが彼の問いかけに首肯する。ミゲルはそんな彼らの声に耳を傾けることで会話に参加していた。
「でもね。──最近その場所に、札付きの不良が住み着いてるらしいのよ。強くて誰の手にも負えない、最強の……”はみ出し者”。アタシたちと同じ」
腕を組み、ソフィはどこか愉快そうだ。反対に、ジョナスの表情はみるみる情けなく歪む。
「それってヒーローよりナイスなの? どっちかっていうとヴィランじゃん」
「アタシがいつヒーローにナイスって言ったのよ? ヴィランの方がよっぽど格好いいじゃない。自分の信念があって、行動力があって、ヒーローを弄ぶ余裕もある」
まるでゴミでも見るような目つきで放ったコミックを一瞥し、ソフィは高らかに言ってのけた。ジョナスが不安げにノアを見上げ、ノアはそんな彼に苦笑を返す。ミゲルは生き生きとしたソフィをじっと見つめていた。
「その不良だって同じ。街にヒーローが居ないから、きっとつまらなくて山に引きこもっちゃったのよ」
肩を竦めてみせるソフィに、ノアは目を細めて微笑みかけた。
「──それで? 君は一体何を企んでるの」
待ってましたとばかりに立ち上がり、ソフィは両手を腰に当てる。潮風が彼女の髪とワンピースの裾を揺らし、その影がデッキに伸びてどこか不気味に黒を散らつかせた。
「さっき言ったのは、全部アタシたちに足りないものよ。──見て。どうしてアタシたちが、あそこから離れてこんな所で惨めに燻らなきゃいけないの? 悪いのはアタシたちを虐げる理不尽な大人と、その馬鹿な子供たちよ。ただアタシたちが殴られてるから、馬鹿にされてるから、無視されてるからってだけで理由もなくいじめてくる奴ら。そんな奴らのために、どうしてアタシたちが場所を譲らないといけないの?」
ソフィは、岩場の影から見えるボードライン・パークの観覧車を指差した。ミゲルたちは、そんな彼女の横顔をただ見上げる。
「アタシたちには勇気と、余裕が必要なの。アイツらを見返すためにも、いつまでもこんな所で意味なく過ごしてないで、何かしないとダメ。そうじゃないと、一生このまま、こんな風に生きていくしかなくなるわ。──アタシは、そんなの絶対イヤ」
喧騒に向け、ソフィは忌々しげに声音を尖らせてそう言った。そしてゆっくりとミゲルたち三人を見渡すと、再び両手を腰に当てる。
「だから、行動を起こすの。──手始めに、ゴーストハウスに住む不良を……ブラックアンカー同盟に誘わない?」
ノアがわずかに目を瞠り、ジョナスは不安げな表情でペンを握る手に力を込める。ミゲルは、傾きかけた日差しを背に風を受け、靡く彼女の髪から垣間見える燃えるような瞳にそこはかとない憧憬の眼差しを向けていた。
「む、無茶苦茶だよソフィ。……だって喧嘩になったらどうするの? 強いんでしょ?」
ジョナスの最もな訴えを、ソフィは腕組みと一睨で蹴散らした。
「喧嘩しに行くんじゃない。交渉しに行くの。アタシたちは別に連まなくてもいい。同じ信念を掲げる同志になって、この街に反旗を翻すのよ」
「絶対に断られるよ、そんなの!」
「それでも、まずはやってみないとわからないでしょ? ──ジョナス、アンタはいつまでもクラスメイトに”気に入らないから”って理由で殴られて、その好きでやってるお絵かきも馬鹿にされて捨てられて、それでもじっと耐えるだけ? ソイツらにアンタって人間を分らせてやらないでいいっていうの?」
ソフィがジョナスに詰め寄る。その声には確かな怒りと、彼に対する慈しみが入り混じっている。ジョナスは彼女の勢いに押され、わずかに身を引いた。
「アタシはもうずっと前からうんざりなの。すぐに叩いて脅してくるパパも、見てるだけで何もしないママも、勝てないからって逃げることしか出来ない自分も嫌い。ダサいって馬鹿にしたり、馬鹿にされてるからって遠くからこっち見て笑ってくるクラスの連中も嫌い!」
吐き出すような感情の吐露は、穏やかだったその場の雰囲気を一変させた。誰もが口を噤み、彼女の訴えに聞き入る。しんとした空気のなか、ソフィは一度息を整え、声のトーンを落とした。
「でも、ここに居たって何も変わらない。──アンタたちもそう思わない?」
そう言って、ソフィは徐にミゲルの前に屈み込んだ。彼のどこか生気を欠いた瞳に、彼女は眼光炯々たるひたむきな眼差しを向ける。
「ミゲルだってそうよね? アンタを”そんなふう”にした親も、クラスの奴らも、みんな間違ってると思わない? ──間違ってるのはお前らだって、突きつけてやりたくなるでしょ?」
明るいブラウンの瞳が、午後の日差しに透ける。ミゲルは吸い込まれるように、小さくひとつ首肯した。
「……でも、実行するにしても、──どうやって交渉するつもり?」
そんな二人を見つめていたノアが、控えめに声を上げる。ソフィは勢いよく彼を振り返ると、小さく肩を竦めた。
「アタシもどんな奴なのかまでは知らないの。……だからまず、敵情視察から、してみない?」
近くで渦巻いた波が岩に当たったのか、一際大きな潮騒が鳴る。彼女の囁くような提案は、それでも静かに耳に届いた。ミゲルたちの間に静かな緊張が生まれる。もはや彼女の一言で幕が切って落とされたかのように、──潮騒が遠のき、息をする音さえ、ひとつになったようだった。




