第四話 瞳の光、そして始まり
医師が村に到着し、アドンの診察が始まったのは翌日の午前だった。村の人々は期待と不安を込めて見守る。アドンの両親は終始そわそわしていて、アドン自身も手の震えをこらえながら、初めて会う名医の言葉を聞いていた。
「検査してみたところ、手術を試す価値は十分にある。成功率は高いとは言えないが、決して零ではないよ」
その言葉に、アドンは心を決めた。やるしかない。ずっと夢に見てきた“光”を追い求める最後のチャンスかもしれない。
村の広場に用意された簡易の手術室で、彼は麻酔を施され、まどろむ意識の中でルミアの顔を思い浮かべていた。見たことのないはずの彼女の顔。でも、優しく微笑むイメージが頭に広がっていく。――僕は、君の瞳が見たいんだ。どんな色をしているのかな。きっと、とても綺麗なんだろう。
夢の中で彼はそう呟き、手術の痛みさえ感じずに意識を失った。
一方その頃、ルミアは人目を避けて村外れの石造りの廃墟へと足を踏み入れていた。ここは、かつて同胞のメデューサたちが暮らしていたと伝えられる遺跡。その奥には禁術の書が隠されているという噂が、ルミアの一族の間でひそかに語り継がれていた。
じめついた空気の中、石像が無数に立ち並んでいる。いずれも恐怖に歪んだ表情を湛えたままだ。ルミアが偶然に、あるいは自分を襲おうとした人々が、結果としてこうなってしまった――その事実が胸を締めつける。――だけど、私はもう誰も傷つけたくない。特にアドンは……。
祭壇の奥に辿り着くと、そこには黒ずんだ石の台座があり、その上に古びた石板と書物が置かれていた。ルミアは震える手で書物を開き、古代の文字を追いかける。
「……メデューサの瞳の力を封印するには、己が光を捧げねばならない。二度と視界を取り戻すことはできず、呪いの因果のみが断たれる……」
冷たい汗が背中を伝う。視力を失うことへの恐怖はある。けれど、アドンを石に変えるかもしれない恐怖に比べれば、はるかにましだと思えた。
ルミアは唇をぎゅっと噛んだ後、意を決して封印の儀式の文言を読み上げ始める。古代語が喉をかすれさせ、頭痛を伴う。石板に触れた瞬間、瞳に激しい痛みが走った。
「……っ、あぁ……!」
焼けつくような痛みに目が眩む。涙が止めどなく溢れ、視界が歪む。けれど、自分の中にずっと渦巻いていた“石化”の力が、闇に溶けていくかのような感覚も確かにあった。
やがて、ふっと視界が暗転する。音は聞こえるのに、光が見えない――まるでアドンと同じように、世界が闇に閉ざされた。今まで見慣れていた景色が、一瞬にして奪われてしまったのだ。
「……ごめんね……アドン……。本当は、あなたの顔を見たかった……」
小さく呟いたとき、彼女の体は限界に達して崩れ落ちる。血の気が引き、意識が遠のいていく中で、アドンの笑顔だけが心に浮かび上がる。――もう、この瞳であなたを見られなくてもいい。あなたが石になるよりはずっといい。
ルミアはそう願いつつ、静かに瞼を閉じた。
手術が終わり、アドンが目を覚ましたのは翌日の朝だった。医師は慎重に包帯を外しながら、少しずつ光を当てていく。しばらくして、アドンは眩しそうに瞳を細めた。
「……あ、明るい……」
ぼやけながらも光が見える。カラーの色彩はまだ不鮮明だが、闇しか知らなかった彼にとっては衝撃的な世界だ。周囲が息を呑む中、医師は感動を抑えつつも冷静な声で言う。
「成功……と言えるだろう。ただ、しばらくは過度な刺激を避けて、休ませる必要がある。無理をすると失明のリスクもあるからな」
アドンの両親は涙を浮かべ、村人たちも口々に祝福の言葉をかける。アドンはまだ視界がぼんやりしているが、確かにこの世界に“色”があることを感じていた。――ただ、心のどこかで違和感がある。ルミアがこの場にいない。手術の前に「行ってきます」と言ったのに、彼女は姿を見せていない。
一日、二日と休養しながらも、ルミアの来訪はなかった。アドンは不安をかき立てられ、ついに自分で動こうと決意する。まだ安静にと言われていたが、杖を片手に視界のぼやけた世界で足を踏み出した。
――ルミアはどこにいる?
村人に尋ねても、そもそも彼女を見たことがないという。やむを得ずアドンは、これまでルミアが話していた「廃墟」の噂を手がかりに、村外れへと向かった。視界は霞んでいるし、道は危険だが、彼女の気配だけは感じられるような気がしてならない。
ようやく廃墟に辿り着くと、その薄暗い石造りの奥でアドンは思わず息を飲んだ。無数の石像が並ぶ不気味な光景の先で、少女が祭壇の上に倒れているのを見つけた。そして、その少女の姿に目を凝らした。新たに視界を取り戻したばかりの彼には、世界が鮮やかな色彩で満たされ、すべてが新鮮に映っていた。しかし、ふとした瞬間、彼の心にある確固たる記憶が呼び起こされた。
倒れている少女の着ている、柔らかなシルエットのフードや、ほのかに残る花模様の刺繍、その微かに揺れる髪の質感――これらは、かつて彼女が語ってくれた声と共に、彼の中に深く刻まれていたものだった。
そのとき、アドンは思い出す。ルミアがいつも、静かな夕暮れの草原で、恐る恐るも自分に寄せる声や、そっと差し出した温かい手の感触。それらの記憶が、今目の前にある少女の姿と重なり、彼に確信を与えたのだ。
「ルミア……」
その一言が、アドンの心に深く響くとともに、彼は新たに見える世界の中で、たった一人の存在を確かめる。全ての光が一瞬にして彼女を示し、彼は涙ながらに駆け寄った。
彼女の瞳は開いているのに焦点が定まっていない。かつての自分を見ているようで、アドンは胸が押し潰される思いだった。
「……アドン……? 本当に、見えるようになったんだね……よかった……」
かすれた声で微笑むルミアは、光を完全に失っていた。今まで美しく輝いていたはずの瞳から、かつての魔力を感じない。
アドンはその姿を見て、すぐに悟る。ルミアは自分を守るために、その瞳の力を捨て、同時に光までも奪われてしまったのだと。
「どうして……どうしてこんな……」
アドンは震える手でルミアの体を抱きかかえる。まだ呼吸はあるが、全身の力が抜けている。ルミアは弱々しく笑みを浮かべて、彼の声に答える。
「私……あなたが石になっちゃうのが、一番怖かった。だから……これで……もう大丈夫、だよね……」
その言葉にアドンの視界が涙で滲む。見えるようになったばかりの瞳なのに、もう涙が後から後から溢れて止まらない。
「馬鹿だ……。僕が苦しんできたのを、君は一緒になって支えてくれたのに。今度は僕が君を支える番なのに……どうして、こんな犠牲を……」
「……ごめん……でも、私は平気。あなたが笑って暮らせるなら……それが一番、だから……」
ルミアはか細い声でそう言ったきり、意識を手放すように瞳を閉じた。アドンは祈るように彼女を抱きしめる。もし以前の自分なら、彼女の傷ついた顔もわからなかったかもしれない。けれど今は、この光を取り戻した瞳でこそ、ルミアの涙や痛みを知ることができる。
――ならば、僕は何をすればいい?
答えは決まっていた。ルミアがどんな状態でも、彼女の手を決して離さない。たとえもう二度と光が戻らなくても、その闇の中を共に歩いていく。かつて彼女がそうしてくれたように。
廃墟を出ると、外には優しい春の日差しが広がっていた。ルミアを背負うアドンの瞳には、揺れる草の緑、微かな花の彩り。決して明るい未来だけが約束されているわけではないが、それでも彼はこの光でルミアを照らしてやりたいと強く思う。
――これが、僕たちの始まりだ。