第二話 秘密を抱く瞳
それから数日間、ルミアは夕暮れや明け方の人目につかない時間帯を選んでは、草原に足を運ぶようになった。アドンもまた、ルミアが来てくれるのを心待ちにしていることが、見えない瞳から伝わってくるようだった。
二人の会話はいつも穏やかだった。最初はたどたどしく言葉を選ぶルミアだったが、アドンは決して急かすことなく、時には自分のことを話して相手の緊張をほぐそうとしてくれる。その度にルミアはほんの少しだけ心を開いていくのを感じた。
しかし、ルミアの胸にはいつも“ある不安”が巣食っていた。もしアドンが自分の正体を知ったら、きっと逃げていく。そうでなくても、彼の視線が自分の瞳に触れたら、石化という悲劇を招く。それだけは絶対に避けたい。
今まで村の人間や旅人を、意図せず石に変えてしまった過去――それはルミアが抱える消せない罪だった。あるときは偶然目が合ってしまい、あるときは相手がルミアを追い詰めようとして。どちらにせよ、結果は同じ。悲痛な表情のまま石像になった人々の姿が、今でも夢に出てくる。
それでもアドンは目が見えない。だからこそ、自分の「瞳」を恐れない唯一の相手だと思えた。こんなにも心を許せる人間がいるなんて、想像すらしていなかった。
ある夜、ルミアは思い切って“自分がメデューサの血を継いでいる”ということを匂わせようかと思った。しかし、どうしても言い出せない。
「……ねえ、アドン。もし、もしだけど……すごく恐ろしい呪いを持った人がいたら、どう思う?」
草原を優しい夜風が吹き抜ける中、ルミアは震える声で尋ねた。アドンは少し考え込み、静かに言葉を返す。
「うーん……呪いって、本人のせいじゃないことが多いよね。だから、その人がわざとじゃないなら、ただ苦しいだけなんじゃないかな。その人自身も、きっとその呪いに縛られて辛いと思う」
その答えに、ルミアは胸がきゅっと締めつけられる。アドンの口調には恐れや嫌悪はなく、むしろ「苦しんでいる相手を思いやる」気持ちが滲んでいた。思わずルミアはうつむき、涙がこぼれそうになる。
「……優しいんだね。アドンは」
「そうかな? でも、本当に恐ろしい呪いがあるのなら、僕だって怖がるかもしれないよ」
そう言いながらも、アドンの声には相手を拒絶する気配がない。むしろ、相手が傷つかないように言葉を選んでいるようにさえ感じられる。
夜の星がまたたき、草花の甘い香りが漂う。ルミアは胸の痛みに耐えきれず、そっと自分の腕を抱いた。言いたい。でも、言えない。もし真実を話したら、彼はどうするのだろう。――だからこそ、この時間だけは大切にしたい。あの事故のことを、何も知らないままでいてほしい。
そう思った矢先、アドンはふと明るい声で話題を変えた。
「ねえ、ルミア。僕、近々手術を受けに都へ行くことになりそうなんだ」
ルミアの心臓が一瞬止まった。
「手術……? 目が見えるようになるの……?」
口調に焦りが混じっているのが自分でもわかった。アドンはあまり気づいていないようで、嬉しそうに話を続ける。
「まだわからないけど、村の人たちが都にいる名医を探してくれたんだ。うまくいけば、この目に光が戻るかもしれないって……。もしそうなったら、君の顔だって見られるかもしれないよね。どんな瞳をしてるのかな、どんな髪なんだろう、っていつも想像してるんだ」
それを聞くルミアの胸は、喜びと恐怖が綯い交ぜになってぐらぐら揺れる。もしアドンの視力が戻ったら、自分を見てしまうかもしれない。それこそ瞳が合えば一瞬で石化……。そんな地獄絵図は絶対に避けたい。でも、彼が光を取り戻すことは心から喜んであげたい気持ちもある。
「……よかった、ね。きっと、成功するよ……」
なんとかそう絞り出したものの、声は震えたままだ。アドンは気づいているのかいないのか、穏やかな表情を浮かべているようだった。
夜が更け、別れ際にアドンは言う。
「君の瞳、いつか本当に見られる日が来たらいいな。怖がらないで。そのときは、ちゃんと僕のことを見てほしい」
まるで、ルミアの苦悩など知らないというふうに、優しい微笑を浮かべる。ルミアはその表情を見て胸が痛んだ。言えない。自分の瞳を見れば彼は石になる。だからこそ、彼には真実を知られずにいてほしい。でも、いつかは必ずバレてしまう。アドンの期待を裏切る形で恐怖を与えるくらいなら――どうすればいいの?
帰り道、ルミアは一人になってから涙をこぼす。暗い野道に月明かりが差し込み、影を伸ばしながら歩くたびに、自分の足取りが重くなっていくのを感じた。
「私の正体なんて……言えるわけないよ……」
かつて変えてしまった人々の石像が眠る場所を思い出すたび、心が悲鳴を上げる。できればずっと隠し通していたい。けれどアドンが目を取り戻すなら、いつまでもこのままではいられない。
このとき、ルミアはある決意の萌芽を感じ始めていた。それはまだ漠然としていたが、後に彼女を大きな運命の選択へと導くことになる――自分の“瞳”を捨てる覚悟を、少しずつ育み始めていたのだ。