第一話 出会いの小径
翌日もアドンは村の用事を手伝った後、夕暮れどきに草原へ向かった。ほのかに温かい春の日差しと、緩やかに流れる風。見えないからこそ、五感のうち他の感覚が研ぎ澄まされている気がする。
地面を杖で探りながら、いつものように腰を下ろすと、アドンは耳を澄ませた。すると、やはり昨日と同じように、誰かがいるような気配がする。足音というほどはっきりしたものではないが、確かに近くの草が微かに揺れる音を感じたのだ。
逃げるような、けれど気になって仕方がないような、そんな迷いが混じった動きだとアドンには思えた。いったい誰だろう。人ではないのかもしれない。森の小動物? それとも、噂に聞く“妖精”の類なのだろうか。
「……隠れてないで、よかったらこっちに来てくれないかな」
そう声をかけると、しばしの沈黙の後、小さな少女の声がかすかに返ってきた。
「……ごめんなさい、驚かせるつもりは……なかったの」
アドンの心臓がどくん、と大きく跳ねる。少女の声は震えているようで、それでもどこか透きとおる響きがあった。
「驚かせてなんかないよ。むしろ……嬉しい。君は、村の子? いつもここに来てるの?」
アドンが優しく問いかけても、少女はすぐには答えない。アドンの見えない目を気にしているのか、それとも自分の存在を知られたくないのか。
やや会ってから、か細い声がまた草の向こうから聞こえてくる。
「私は……ここには住んでないの。ごめんなさい、姿を見せられなくて……」
「大丈夫。僕は目が見えないから、姿を見てもわからないよ」
そう言うと、少女は一瞬息を呑んだようだ。アドンは彼女の戸惑いを感じ取り、少しだけ笑ってみせる。
「でも……君の声は、すごくきれいだと思う。まるで綺麗な鈴が鳴るみたいで……。もしよかったら、もう少しお話していかない?」
その言葉に、少女の胸には混乱と安堵が同時に湧き上がる。どうしよう、このままでは正体がバレるかもしれない。でも……彼は私を怖がらない。少なくとも、いまこの瞬間は。
少女は自分の顔――特に瞳を見られないよう、フードを深く被りながら、ほんの少しアドンのそばに近づいた。
「……私、ルミアっていうの。名前だけでも……名乗らせて、もらっていいかな」
「ルミア……。綺麗な名前だね。僕はアドン。村に住んでるんだ。よろしく」
そう言って差し出されたアドンの手を、ルミアは見つめたまま躊躇する。握ってしまえば、もっと近しくなってしまいそうで――けれど、なぜだか拒めない。そっと彼の手のひらに触れると、その指先は温かく、柔らかく自分の手を包み込んだ。
生まれて初めて、こうして自然に手を触れられたかもしれない。ルミアは、胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
「……よろしく、アドン」
それだけ言うと、彼の顔を見ないように視線を下げる。アドンは見えない瞳のまま、微笑んでいるようだった。
日が暮れはじめ、世界が淡い紫の闇へと移ろう。その空気の中で、ルミアは恐る恐る質問を返した。
「その……アドンは、目が見えないって言ったけど、不自由……しないの?」
気を悪くさせるかもしれないと分かっていたが、どうしても確かめたかった。アドンは少し困ったような顔をした後、うん、と言葉を探すようにうなずいた。
「正直、不便はあるよ。道を間違えないように常に気をつけなきゃいけないし、人の顔だってわからない。でもね、不思議と悲観はしてないんだ。僕なりに“見える”ものがあるから……風の気配、花の匂い、人の声……そういうもので世界を感じている。だから、たまに羨ましいと思うことはあっても、嘆きはしないかな」
それを聞いたルミアの胸はちくりと痛む。自分とはあまりにも違う。「瞳」を忌み嫌われ、他人を避け、ずっと寂しさを抱えてきた自分。それに比べて、アドンは見えないなりに世界を受け入れている。そんな彼が眩しく思えて、同時に胸が熱くなる。
このときルミアは、まだ自分の“呪い”についてアドンに話すつもりはなかった。話したら、きっと彼は去っていくだろう。今までそうだった。――それでも、もう少しだけ、こうして話していたい。
日が落ちきるまで、二人は草原でささやかな会話を交わし続けた。お互いに知っている花の名前、村の行事の話、またルミアから見た自然の光景を、アドンが想像して楽しむ。それだけで、二人の間には不思議な温もりが生まれていた。
そして別れ際、ルミアは微かに笑みを浮かべ、震える声で言う。
「……私、またここに来てもいい……?」
アドンはためらいなくうなずき、朗らかに笑った。
「もちろんだよ。僕も君とお話できると嬉しいから、いつでも待ってる」
空には淡い星が瞬き始める。ルミアはその星空を見上げると、胸にこみ上げる切なさを抑えきれず、そっと唇を噛んだ。けれど、同時に小さな希望の光が生まれつつあるのを感じる。――もし、この人が私の“瞳”を見なくて済むなら。もし、このまま隠し通せるのなら。
ルミアはそう願いながら、夜の闇へと静かに姿を溶かしていった。