プロローグ
静かな春の夕暮れだった。淡い橙色の空が広がり、地平線はほんのりと紫がかっている。村外れの草原には、まだ冷たい風が吹いていたが、草花の間には小さな春の芽生えが見え隠れしていた。
その草原の中央に、一人の少年が立っている。アドン――生まれつき目が見えない彼は、いつもここで風の流れを感じ、空気の変化を確かめるのが習慣だった。
目に映る世界は闇だけれど、風が肌を撫でる感触や、足元から伝わる土の湿り気、そして遠くで鳥がさえずる声……それらの“音”や“匂い”が、彼にとっての世界の彩りだ。誰かにとってはごくありふれた景色も、アドンにとっては想像の羽を広げるヒントになる。そんなふうに「見えない世界」も決して味気なくはない、と彼は思っていた。
とはいえ、不便がないわけではない。村では皆が親切に助けてくれるが、時には遠巻きに囁かれることもある。
「可哀想に……」
「こんな体で苦労ばっかりだろうに」
けれどアドンは、あまり気にしていない。むしろ、特別に気遣われるほど自分は不幸ではないとさえ思っていた。両親や村人たちの優しさに包まれ、十分に幸福だったからだ。
しかし、なぜだろう。夕暮れ時、この草原に立つと、心がざわめくのを感じる。まるで、誰かの気配が風に乗って届いているかのように。
「……誰かいるの……?」
ふと、そんな問いが唇から零れ落ちる。もちろん返事はない。けれど、いつもより草が揺れる音が細かい気がして、アドンは少しだけ胸が高鳴る。
このとき、まだ彼は知らない。闇の中に生きる自分が、後に“ある瞳”と出会い、その運命が大きく揺れ動くことを――。
静かな風が、少年の髪を優しく撫でながら通り過ぎていった。