コックローチ
まだ幼い半透明のコックローチが、真ん丸な黒目をしてこちらを見ていた。僕の視界一杯にまで近づき、まるで対等のサイズ感であるかのように逃げ出しもしない。口元の触覚が蠢いている。映像ならばグロテスクが半減して感じられる。半減したグロテスクは娯楽になり得る。こうして上映時間が過ぎてスクリーンには蛍光灯の明かりが落とされた。街にはクラシックレゲエで聞くような叫び声がこだましていた。建物に立ち寄ってみれば壁に汗が滴っていた。高層ビルのふもとにビニル板の掘立小屋が積み上がっている。道路は整備されておらず、暮らす人々が勝手に使いこなすことでギリ道として存在している。さっきまで下をくぐっていたはずが今は上を通り越していた。歩みを進めるごとに熱い飴を練るような感覚に襲われる。襲われるとしても毎日通わなきゃいけない場所がある。帰るべき場所もちゃんとある。帰らなければ明日は来なかった。深夜を翌日だと思うことに抵抗があるのはそういうわけだった。誰かと明日を共有できた幸せを、また明日へと繋げる営みのことを日々と呼ぶのだと、休日の公民館の標語に飾ってあった。窓辺の席、図書館の窓から暴走するビルの水蒸気をみていた。夏も相まって暑そうだった。もはや季節よりも街が猛暑の元凶だと誰もが知っていた。季節はとうになくなっていた。枯れ葉が散ったセンチメンタルくらいのものに過ぎなかった。もはや感動することもない。生の実感とは、怠惰と熱狂の交錯するあいだであるはずが、僕にはまったく熱狂が足りていなかった。あるいは街ごとかもしれない。怠惰の泡が弾けてまた生まれていた。海へせり出したマグロの缶詰工場から届いた泡だった。怠惰は日差しに反射して、ときどき光を放って、月と似ていた。月夜を過ごしたある独身の男には、明日が訪れなかった。テレビニュースでみるとグロテスクが半減していた。自販機の横の飲料会社のロゴには知らない虫が這っていてそれで似合っていた。今この瞬間に飲み物を買うために、毎日通勤しているのだと自分に言い聞かせ歩いた。映画館にペットボトルを持ち込んでも誰も咎める人はいなかった。スクリーンのため蛍光灯の明かりは落とされた。