第99話 遠い背中
第二ゲームが始まった。
一回マスワリしただけでは物足りないらしい。先行は俺の物と言わんばかりに才覇さんがブレイクを打つ。
今度は初撃で失敗した。キューの先端で突かれたボールが無様に跳ねる。まな板の上でバタバタする魚を幻視した。
俺はとっさに口を押さえた。喉の奥から込み上げる衝動を懸命にこらえる。
才覇さんのプライドはエベレスト並みに高そうだ。吹き出し笑いなんてしたら何をされるか分かったものじゃない。
「あはははははっ!」
俺じゃない。
振り向くと聡さんが腹を抱えて笑っていた。
才覇さんの額に青筋が立つ。
「覚えたぞ聡。貴様の所業は、俺の記憶に確と刻まれた」
「怖いなぁ。遊戯くらい仲良くたしなもうよ。ね?」
聡さんが上体を倒してキューを構える。
スッと空気が引き締まった。朗らかな表情が鳴りを潜めて、真剣身を帯びた瞳が手球を見据える。
優しいお兄さんと言ったイメージから一転。鋭利な雰囲気をまとってキューを引くさまは、サーベルを構えた騎士を思わせる。
キューの先端が手球を捉えた。軽快な音に遅れて、白いボールが別の球をポケットに押しやる。
刺突が続く。先角が手球を打つたびに、激突した的球が次々とポケットを鳴らす。
このゲームは聡さんが終わらせる。
そう直感した刹那、キューの先端が手球の側面を打った。
逸れたボールが頼りなくラッシャを転がる。最後に残った的球の近くで止まった。
「うーん惜しい、最後の最後で外しちゃったなぁ。次は市ヶ谷さんの番だよ」
「はい」
左胸の奧が鼓動を打った。
勝てる。これ以上ない千載一遇のチャンス。一突きで勝てそうだからか、自然とキューを握る手に力がこもる。
人生初めてのビリヤード。才覇さんと聡さんのプレイを見ていたけど、実際にキューで突くのはこれが初めてだ。
見よう見まねで上体を倒す。棒を左手の上に乗せて、白いボールの中心を見据える。
思っていたよりも狙いが定まらない。突きの勢いを乗せるべく右腕を引くと、その都度先端が明後日の方を向く。
これは失敗する。ビリヤードプレイヤーが押さえておくべき何かを、俺は知らないんだ。
「いつまでやっている。早く打て」
「そう急かしちゃ駄目だよ才覇。彼はキューを持つことすら初めてなんだから」
後方から靴音が近付く。
振り向くと聡さんが背後に立っていた。
「市ヶ谷さん、少し触るよ」
聡さんの手が俺の右手にかぶさった。香水を付けているのか、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
大人の男性というイメージを得た直後、左腕で姿勢を矯正された。
「腕全体を引くと目線がぶれやすいんだ。動かすのは肘から下だけ。振り子を意識するとやりやすいかな」
体に触れていた熱がそっと離れる。
教わった流れを脳内で反芻する。キューを二回押し引きして、体の動きと想像図を重ね合わせる。
意を決してキューを押し出す。
カンッとした音に続いて、勢いづいた手球が九番の球を鳴らした。的球がすーっとポケットに吸い込まれる。
ほっと一息突くなり、後方で拍手が起こった。
「上手いじゃないか。これは才覇を超えるのもそう遠くないね」
「調子に乗るなよ貴様ら。一回もマスワリしていない分際で」
何故か俺も睨まれた。やつ当たりだろうか。こんなことで目を付けられるのは勘弁してほしい。
「才覇さん、落ち着いてください。聡さんは悪意があって言ったわけじゃないと思います」
霞さんが仲裁に入った。
あどけなさのある笑顔に毒気を抜かれるかと思いきや、シックな空間に舌を打った音が響き渡る。
ルーム内の空気が一気に緊迫した。
「どうした? 普段は隅っこで縮こまっているくせに、今日は随分と饒舌じゃないか。久しぶりにそこの男と会ったから浮ついているのか?」
「い、いえ、そんなことは……」
霞さんの視線が床に落ちた。
白菊さんが一歩足を前に出す。
「才覇様、どうかその辺りでお収めください」
「白鷺、何故前に出た? 貴様の主人は変わったと聞いていたが、違うのか?」
「いいえ、才覇様の認識で間違いございません」
「ならば控えていろ。不貞の子の分際で、よもや調子に乗っているのではあるまいな」
「いえ、決してそんなことは」
「その口答えこそ調子に乗った証明だろう。存在を認知されて勘違いしたか? 伏倉に認められたと自惚れたか。何と図々しい、身の程を弁えろ」
「申し訳、ございません」
白鷺さんも俯いた。聡さんが作った和やかな空気は、すっかり霧散して跡形もない。
フォローすべきなのだろう。その空気を肌で感じるけど、俺が介入したところで好転する未来が見えない。
存在を認知。
伏倉に認められた。
これらのワードを耳にしただけで、俺には口を挟む資格がないと分かる。何も知らないくせにと一蹴されるのがオチだ。
「以後慎め。廃嫡された男の子女の分際で」
廃嫡された男。
その存在について問うべきか迷っていると、キィ……と軋む音が鳴った。
「やぁ皆、何の話をしているのかな?」
ドアの前に好青年のような笑みがあった。背後には燕尾服の男性が控えている。
風船のように張り詰めた空気がふっと緩んだ。
「秀正か。何をしに来た」
「僕はここの当主だよ? ビリヤードをたしなむ資格くらいは持ち合わせているさ」
俺は息を呑む。
生物学上の父が浮かべるのは笑顔。柔和な雰囲気を醸し出す一方で、その表情はこれまでにない威圧感を孕んでいる。細められた目が笑っていない。
「たしなむだと? 貴様は勝負事を苦手としていたはずだが、趣向の変化でもあったのか?」
「まあね。ビリヤードを通じて親睦を深めようと思ってさ。家族は仲良くするに越したことないだろう?」
「よく言えたものだな。優峯を僻地に飛ばしたのは貴様だろうに」
「親しき仲にも礼儀ありだからね。その件に関して僕が恥じることは何もないよ」
冷たい視線がビリヤードテーブルに向けられる。手球がポツンとあるラッシャを見て、薄いくちびるが弧を描く。
「キリが良さそうで良かった。遊戯はそこまでにして、全員食堂に集まってくれないかな?」
「ふん、いいだろう」
才覇さんがキューを離してスタンドの底を鳴らす。俺も聡さんに続いて道具を片付ける。
二つのスーツ姿が客間へ消えるのをよそに、生物学上の父が霞さんと白鷺さんに歩み寄った。うつむく二人の肩に手を置いて優しい声色を発する。
二つの整った顔に微笑が戻った。二人が高い背丈を見上げて言葉を紡ぐ。
まるで家族のようなワンシーン。
落ち込む姉妹を宥める父親の図。そんな言葉が脳裏をよぎって、自然と口元に力が入る。
計四つの靴先が開け放たれたドアに向けられた。花のある背中を見送って、生物学上の父が振り向く。
「釉も行こう。君の祖父が待っているよ」
「あ、ああ」
生物学上の父に続いてビリヤードルームを後にする。
腕を伸ばせば届く背中が、異様に遠く感じられた。