第98話 ビリヤード
「こんばんは才覇様、聡様。ここにおられる市ヶ谷様は、英語での会話が不得手でいらっしゃいます。日本語で意思疎通を図られるのがスムーズかと存じます」
「何だ、まだ英語を喋れないのか」
威圧感のある風貌が目を細める。
日本語もまた、英語と同様に流暢だった。
「市ヶ谷様は短期留学中の身でいらっしゃいます。どうかお手柔らかにお願い申し上げます」
「知らん。貴様達の都合を俺に押し付けるな」
冷たい声色に一蹴されて、桜色のくちびるが閉じる。
辛辣な物言いだけど、俺に起因するものではない気がする。先程から白鷺さんに視線すら振らないし、何かしらの確執でもあるのだろうか。
柔和な雰囲気の男性が手の平を打ち鳴らす。
「まあまあ。今日はせっかく皆で集まったんだし、楽しい一日にする努力をしようよ」
才覇なる男性が再び鼻を鳴らした。冷たい視線が聡さんから外れて俺を見据える。
「貴様が秀正の息子だな?」
まだ座ったままだったことに気付いて、俺はソファーから腰を上げた。
自分の名前を口にしたけど、お返しの自己紹介は続かない。
冷淡な視線が使用人に向けられる。
「秀正の奴はどこに行った」
「秀正様は先代当主と歓談していらっしゃいます」
「そうか」
「あの、そちらの名前を教えてもらってもいいでしょうか?」
微かな苛立ちが言葉になって口を突いた。
冷たい視線に射貫かれて息を呑む。
「……フハッ」
吹き出したような声が空気を震わせた。
何かまずいことを言ったかと思った刹那、才覇さんの口端が吊り上がる。
「そうかそうか。現当主の息子にとっては、敗北者など眼中にすらないということか! フハハハハッ!」
楽しそうな笑い声が室内を駆け巡る。
何がそんなに面白いのか。気にはなったものの、相手に問い掛ける気にもなれない。迂闊に口を開くと拳が飛んできそうだ。
「いや実に愉快だ! 俺は恩義を忘れない男だが、恩義を忘れる奴は忘れてやりたいほどに嫌いだ。市ヶ谷釉だな。その名、覚えておこうじゃないか」
厄介そうな人物に目を付けられてしまった。やらかした空気をヒシヒシと感じる。
「その辺にしておきなよ。彼が私達に会ったのは物心つく前なんだから、覚えてないのは無理もないって」
「俺は生まれてからの出来事全てを覚えているがな」
「普通の人間には幼児期健忘があるんだよ。普通の人間、にはね」
「それはどういう意味だ?」
「さあ?」
聡さんがおどけたように肩を竦めた。
「そうだ。まだ夕食までは時間があるし、ビリヤードルームで親睦を深めないか?」
「フン、まあ腹ごなしにはなるか」
「準備して参ります」
二人の側付きがドアの向こう側に消える。
確定事項みたいな空気に耐え兼ねて、胸の奥から湧き上がった焦燥が口を突いた。
「あの、俺にビリヤードのたしなみはありませんが」
「見て覚えろ。できなければ無様を晒して道化を演じるんだな」
大きな背中が遠ざかる。使用人の後を追って、ドアの向こう側に消えた。
「そう委縮しなくていいよ。ビリヤードは、あくまで距離を縮めるための遊戯なんだから」
「でも本当に初めてなんですよ? 空気を悪くしませんか?」
「才覇はあれこれ言うだろうけど気にしなくていいよ。彼はいつもあんな感じなんだ」
柔和な微笑が浮かぶ。
才覇さんが威圧感にまみれている反動か、凄く優しそうな人に映る。心の壁が氷のように溶けていく。
聡さんと肩を並べてドアの向こう側に踏み入る。
想像に違わずシックな内装が広がっていた。壁際にダーツの的が吊り下がり、ビリヤードテーブルがずらっと並ぶ。その内の一つでは、色鮮やかな玉が集まって三角形を描いている。
俺はキュースタンドから長い棒を引き抜き、手に馴染ませるべく玩ぶ。
重くはないけど軽くもない。変な打ち方をしたら先端がぶれそうだ。
才覇さんがジャケットを脱いで側付きに押し付ける。
キューを構える仕草に一瞬目を奪われた。真剣な横顔が、これぞ貴族と言わんばかりの優雅さを醸し出す。
二回ほど軽く腕が引かれ、慣れた動作でキューが突き出される。
ブレイクショット。白球がまとめられた的球に突撃し、カンッと軽快な音を鳴り響かせる。色とりどりの球体がラッシャの上を転がった。
「まだ先行後攻を決めてないよ? それ以前に、市ヶ谷さんも含めると三人いるんだけど」
「適当で構わないだろう。俺達はプロではない。順番程度で大した差は付かん」
「相変わらず大雑把だなぁ。市ヶ谷さんもそれでいいかな?」
「いいですよ」
順番が回ってきたところで、俺がまともに球を打てるとは思えない。大人しく勉強させてもらおう。
才覇さんが再度上体を倒す。
白球が突かれた。1と記された的球が隅の穴に吸い込まれ、2番の球も後を追う。
3番、4番。次々とポケットに追いやる流れは止まる気配がない。
聡さんが苦々しく口角を上げる。
「何が順番程度で大した差は付かないだよ。さては陰で練習してたね?」
「練習などしていない。仕事の付き合いで打つ機会が多いだけだ」
「このままマスワリにする気でしょ? 市ヶ谷さんもいるのに大人げない」
「何を言う、勝負事で手を抜くなどあり得んだろう。伏倉家の男子たる者、あらゆる勝負事に勝利する義務がある」
「父上みたいなことを言うね。逃げるが勝ち、楽しむが勝ちってことわざもあるのに」
「負け犬の戯言だな」
俺は聡さんの横顔に視線を振る。
「逃げる方はともかく、後者のことわざは聞いたことないですね。アメリカにそういうことわざがあるんですか?」
「ないと思うよ? 私が言いたかっただけだからね」
俺は口をつぐむ。
笑っていいんだろうか。反応に困る。
「マスワリだ」
テーブルの上に視線を戻すと、九番までの的球が無くなっていた。
くくっ、と抑えた声に続き、愉快気な高笑いがビリヤードルームを駆け巡る。
口角を上げてノーミスを喜ぶ才覇さんの姿は、純粋に遊びを楽しむ子供のように見えた。