第97話 伏倉家の屋敷
会話が途切れた。車内の沈黙が痛い。
かといって、自ら口を開こうとは思わない。生物学上の父と交わしたい言葉は無いし、視線を交わすのも億劫だ。口を閉ざしてアメリカンな景色を眺める。
怠惰の代償は、時間の経過とともに訪れた。外は日が落ち、窓の向こう側に知らない景色が広がった。どこに向かおうとしているのか見当も付かない。
甘かった。
車はマンションの前で停まると思っていた。気まぐれで父親らしいことをしたくなったのだろうと、無意識にそう思い込んでいた。
胸の奥で、焦燥が泉のごとく湧き上がる。
俺をアメリカに留学させたのは、異国の地で人知れず始末するためだったのでは? そんな考えが脳裏をよぎって、ぶるっとした震えが体を駆け巡る。
父は俺と母を捨てた。母が亡き今、俺は父に残った唯一の汚点だ。この世から消すことは十分考えられる。
逃げなければならない。焦燥が危機感に転じたものの、動く機は完全に逃していた。
アメリカの国土は広大だ。街から街の間には、とてつもなく長い空白があることも珍しくない。日本より車が買われるのも、長距離を走る公共交通機関が整備されていないからだ。
それに、ここは治安の良い日本じゃない。夜中に一人歩くなんて男性でも論外だ。下手をすると、街の灯りを見る前に脳天をかち割られかねない。
静かに拳を握り締めて、体の震えを必死に隠す。
弱味を見せない努力を続ける内に、フロントガラスに灯りが映った。次いでヘッドランプが大きな門を浮かび上がらせる。
車が停まって数秒。門がおもむろに隙間を覗かせる。
再び体に慣性が掛かり、背中が背もたれに接触する。
思わず目を見張る。
フロントガラスの向こう側に屋敷がそびえ立っていた。敷地を贅沢に使って左右に広がり、所々が人工的な灯りで飾られている。いくつ部屋があるのか、一目見ただけで数える気も失せる。
「着いたよ」
ドアを開ける音がして我に返った。俺もドアノブを握って腕を引き、車内に外気を迎え入れる。
建物のある場所で降ろされたことにほっと胸を撫で下ろす。靴音が鳴った方に視線を向けると、燕尾服の運転手と生物学上の父が背を向けていた。俺は遠ざかる背中を足早に追う。
生物学上の父が、洋画で見られそうな扉の前に立つ。奇妙な装置に顔を近付けて扉の取っ手を握る。
電子的な音が鳴った。開けた扉の中央から温かな明かりが漏れる。
網膜認証に指紋認証。二重のセキュリティが設けられた扉の向こうには、高級感のある内装が広がっていた。
俳優が胸を張って歩きそうなレッドカーペット。絢爛な色合いの壁。奧では吹き抜けの階段が左右に展開し、エントランスの奥行きをこれでもかと見せ付けてくる。
生物学上の父が足を止めて振り向いていた。口元が微かに緩んでいるのを見て、俺の頬が焚火で炙られたように熱を持つ。
運転手が知らない男女と肩を並べた。一斉に一礼されて、俺は思わず息を呑む。
自己紹介された。彼らは、この邸宅の持ち主に仕える執事と使用人らしい。貴族社会にありがちなそれらの概念は、この現代社会にも密かに実在したようだ。
俺の自己紹介を以って歩みが再開する。
廊下を踏み鳴らした末に、前を歩く執事が足を止めた。手首を翻して暗褐色の扉を三度小突く。白鷺さんの仕草も絵になったけど、燕尾服の男性が醸し出す優雅さも目を見張るものがある。
見惚れる間に扉が開け放たれ、燕尾服姿が隅に寄る。
生物学上の父が悠々と通過する。入っていいものか逡巡すると、白い手袋に包まれた手で入室を勧められた。
俺は一礼して室内に足を踏み入れる。
エントランスに違わず広々とした部屋。俺の自室があるマンションとは大違いだけど、さすがにそろそろ慣れてきた。近くには生物学上の父もいる。無様なところは見せられない。
「時間が来たら声を掛ける。それまで好きな所に腰を掛けてなさい」
生物学上の父が身を翻す。
好きな所と言っても、腰を掛けられるのはソファーかチェアくらいだ。
いずれも高そうで気後れしそうになるけど、呼ばれるまで突っ立ったままは精神的にも体力的にもよろしくない。
俺は近くのソファーに体重を預ける。
文字通り体が沈んだ。体から力を抜くなり、包み込まれるような感触がやってくる。程よい柔らかさに、奈霧を抱き締めた時の感覚が呼び起こされる。
最近は忙しくて奈霧と連絡を取れていない。日本で元気にやっているだろうか。
スマートフォンは手元にあるけど、時間を考えるとビデオ通話は難しい。自室に戻ったらチャットで連絡を取ってみよう。
生物学上の父が執事を連れて、元来た扉の向こう側に消える。
程なく扉がノックされる。女性の使用人がティーワゴンを押して戻ってきた。会釈してティーカップに腕を伸ばす。作法とは何たるやを思い出しつつ、紅い液体を口に含む。
芳醇な香りがぶわっと鼻腔を駆け抜けた。甘い。そう錯覚させるほどの濃厚な香りに包まれる。
果樹園を幻視しながらティータイムを楽しんでいると、コンコンコンと扉が鳴らされた。開けた扉が白銀と金の美貌を覗かせる。
既知の顔。
胸の奥から噴き上がるものに突き動かされて、俺はソファーから腰を上げる。
「二人ともひどいじゃないか」
「何がですか?」
白鷺さんの声色は平坦。悪びれないその態度に胸の奥がチリッとした。
「何がじゃないだろう。あいつと二人きりにして、一体何のつもりだ」
「それはご挨拶ですね。家族団欒の時間を作ってあげたのに」
「誰がそんなこと頼んだんだよ」
蒼穹のような瞳を睨む。
二人は俺達の内情を知らない。純粋な善意からの行動なのは分かるけど、俺はかなり不快な思いをした。
同じ過ちを防ぐためにも、ここは迷惑だとしっかり伝えておくべきだろう。
「ごめんねユウ。そんなに嫌がるとは思ってなくて」
霞さんが仲裁に入った。白鷺さんがまぶたを閉じて謝罪を口にする。
いまいち反省した風には見えないけど、ここで事を荒立ててもメリットがない。
俺は小さく息を突いてソファーに腰を下ろす。
会話と紅茶で時間を潰す内に、また扉が鳴らされた。暗褐色の扉が左右に分かたれ、皮靴が談話室の床を踏み鳴らす。
室内の空気が絞り上げられたように張り詰める。畏れにも似た衝動に突き動かされて、床を鳴らした革靴の主を見据える。
スーツをまとった長身の男性。俳優然としているものの、冷厳とした雰囲気が抜き身の刃を想起させる。
スーツ姿はもう一つあった。遅れて入室した男性の方は、生物学上の父に近い空気をまとっている。
二人とも三十代くらいだろうか。
年齢を推定していると、二つの視線が俺を見て止まった。靴裏が床を離れて俺との距離を詰める。
二人が口を開く。
さっぱり分からない。たぶん英語だ。二人とも日本人に見えるけど、アメリカでの生活に適応してペラッペラになっているらしい。
音声翻訳機を準備しようとした時、白鷺さんがソファーから腰を上げた。