第96話 親子従兄妹入らず
平日の朝がやってきた。俺は私服を身にまとい、コートを羽織ってマフラーを握る。
大丈夫、俺ならできる。自分に言い聞かせながら奈霧お手製のマフラーを巻く。
外履きに足を通したタイミングで、インターホンの軽快な音が鳴り響いた。ドアノブを回して廊下と玄関を繋げ、霞さんと白菊さんにあいさつの言葉を投げ掛ける。
二人と肩を並べて外の地面を踏みしめた。毎度のごとく高そうな車に乗り込み、慣性に身を委ねる間も耳を英語に慣らす。
「ユウ、着いたよ」
顔を上げると、窓の向こう側にある景色が輪郭を取り戻していた。駐車場に靴裏を付けて周りを見渡す。
どこもかしこも私服姿の人影ばかり。日本にも私服で通える学校はあるけど、大半の生徒は小学校を出たら制服を身にまとう。一足早く大学生になった気分だ。
霞さんと白菊さんは中学生。学校は中高一貫だけど昇降口が違う。
俺は二人と別れて教務室に足を運んだ。耳に翻訳機を付けて初対面のやり取りに臨むと、何故か理事長室に連れて行かれた。
翻訳された声を聞くに、理事長は生物学上の父と繋がりがあるようだ。色々良くしてもらったらしく、出来得る限り俺をサポートしてくれるらしい。翻訳機の持ち込みも直々に許可された。
案内役の教師と理事長室を後にした。授業を受けるに当たっての注意点を聞く内に目的の教室前にたどり着いた。
担任の紹介に続いて、俺は英語で自己紹介を行った。左胸の奧はバクバク言っていたものの、何十回と練習したこともあってスムーズに行えた。
同級生の点呼が取られて初めての授業に臨む。
事前に配布された教科書は肉厚だ。ハードカバーで武装した様相は鈍器に使えそうな頼もしさにあふれている。教科書を購入しなくていいのは便利だけど全学年分が詰まっているから重くて仕方ない。
アメリカの学校ではアクティブラーニングを重視する。
教科書と睨めっこする時間は短い。教師というよりは司会に近い印象を受ける。
教室の移動も高頻度だ。形態は日本の高校よりも大学に近い。
休み時間に廊下の床を踏み鳴らすのは、教師ではなく生徒の靴裏だ。各教員が座す教室に少年少女が足を運ぶ。決まった席がないから早い者勝ちで良い席が埋まった。
休み時間には翻訳機を外して同年代に声をかけた。少し遅めに話してくれないかと頼みつつ、怪訝そうな表情を見ながらコミュニケーションを取ろうと試みた。
やっぱり全く分からない。
結果は散々だったけど、英語を用いた意思疎通は留学目的の一つだ。コンシェルジュにあいさつが通じた時の達成感を頼りに、またチャレンジしようと心に誓った。
席は一番前に座って授業内容を録音した。帰宅後には音声を耳にして翻訳機無しでの理解に努めた。
英語が分からなくても授業は進む。
遅れ気味の時は翻訳機の力を借りた。それでも駄目な時は、オフィスアワーを活用して教師を質問攻めにした。
アメリカの学校は宿題が多い。請希高校の比じゃない量が課された。
塾文化が未発達だから。
習い事に重きを置く文化だから。
宿題が多い理由の説はいくつかあるけど、理由なんて分かっても宿題は減らない。課された宿題に追われる日々を送った。
霞さんや白鷺さんと談話する時間はない。恋人の顔を見る機会もなくなってひいひい言いながら手を動かした。
鏡に映る顔はひどいものだった。彼氏としてのプライドを考えると、ビデオ通話は控えて正解だったかもしれない。
この日も教師を質問攻めにして校舎を出た。
珍しくアプリにチャットが入っていた。迎えの車は車体そのものを変えたようで、写真のナンバープレートには見慣れない数字が並んでいた。
写真に写る車を見つけて足を前に出す。
距離を詰める途中で車窓が暗いことに気付いた。遮光カバーだろうか? 車内が見えないから誰が乗っているのか分からない。
車を間違えて射殺された事件が脳裏をよぎる。
念のためスマートフォンの画面を凝視する。三回ナンバープレートを確認してから固唾を呑んで歩み寄る。
運転席側のドアが開いた。思わずびくぅっと背筋が跳ねる。
ヘッドショットから逃れるべく遮蔽物を探すと、車内からスーツ姿の男性が現れた。車体を回り込み、俺の前で後部座席のドアを開ける。
「どうぞ」
腕が車内を指し示す。
乗車を促すジェスチャーだ。ほっと胸を撫で下ろして靴裏を浮かせる。身を屈めて後部座席に尻もちを付き、ドアを閉めて息を突く。
筋肉が弛緩した。溶けたアイスクリームのごとく体がグズグズになってしまいそうだ。
「やぁ」
意識が急速に冷えた。バッと振り向いた先で柔和な笑みを携えた顔と目が合う。
脱出しなくては。
ドアノブを握った時には手遅れだった。窓ガラス越しの景色が後方へと流れて車体が車道に合流する。
「外に出たら危ないよ」
生物学上の父に諭されてしまった。これではまるで、悪戯しようとして叱られた子供のようだ。
観念してひざの上に手を置いた。指をぎゅっと丸めて恥辱に耐える。
「学校はどうだい? 馴染めそうかな」
「はい」
心にもないことだけど、この人に弱みを見せるのは躊躇われる。
視線を窓際に向ける。普段通りの街並みが何とも憎たらしい。
「それは良かった。準備期間を設けずアメリカに放り込んだから、苦戦しているんじゃないかと心配していたんだ」
「自覚はあったんですね」
「まあね。でも杞憂だったみたいで安心した。さすが僕と百合江の子だ」
僕と百合江の子。
百合江は母の名前だ。さりげなく自身を父親として数えた。その図々しさに対する憤りで拳が角張る。胸の奧が微かに熱を帯びたのは子たる者の本能か。
手の平に爪を食いこませて口を開いた。
「よくそんなことが言えましたね。あなたが俺と母にしたこと、忘れたとは言わせませんよ」
「僕も忘れてはいないよ。でも社会は僕を君の父と見なす。資格がないとか、親失格だとか言う人はいるだろうけど、どれだけ言葉をこねくり回しても僕達は親子だ。一生逃れることはできないよ」
手の平がチクッとした。
世の中、親もどきなんて掃いて捨てるほどいる。それこそネットを開けば事例の枚挙にいとまがない。ニュースサイトのコメント欄には親失格、子が可哀想なんて言葉が山のように連ねられる。
その言葉こそ、無意識に相手を親と見なしている証明だ。
親を名乗る資格が無くても血縁関係は消えない。生物学上の父は永遠に一人だ。
静かに奥歯を噛み締める。
世の中には、血縁関係が無くても円満な家庭を築く人達がいる。
彼らに無いものがあるのに、どうして俺達はこうなんだろう。
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