第94話 奈霧とのビデオ通話
ティータイムをたしなんでから自分の部屋に戻った。霞さんを玄関に迎え入れて手洗いうがいを済ませ、メモ帳とペンを用意して霞さんとセンターテーブルを挟む。
これから為すのはリスニングの勉強。
問題集はない。教材は霞さんだ。英語で難しいことを言われても聞き取れない。日常的に交わす言葉を集中的に勉強する。
本当にシンプルなワードばかりだった。困った時のreallyやWhatなど、誤魔化しの効く局所的な言葉を教わった。覚悟はしていたけど、数日でリスニングをマスターする手段は存在しないようだ。
ある日勉強中に荷物が届いた。
アメリカで物を購入した覚えはない。確認のために包装を見ると生物学上の父の名前が記されていた。
人名は分かるけど商品名も英語だから何が入っているか分からない。白鷺さんと霞さんに開けろ開けろと催促されて仕方なく蓋を開けた。
段ボール箱の中には、耳に付けるタイプのデバイスが入っていた。
スマートフォンを片手に商品名を検索すると、それは音声翻訳機だと判明した。知らない言語を、聞き馴染みのある言語に変換して鼓膜に届ける。学会でも使われるくらい高性能な代物らしい。
この翻訳機を耳に付ければ、外でコミュニケーションを取る難易度は遥かに下がる。
だけどそれじゃ意味がない。
技術の発展で将来的にリスニングの意味合いは薄まる。それでも俺は成長するためにアメリカの地を踏んだんだ。困難と思われる事を練習して、試行錯誤を繰り返した末に現地の人との会話を成立させたい。
欲しいのは成功体験。これを積み重ねることで確固たる自信へと昇華させる。その経験は以降のチャレンジ精神をより一層高めてくれるはずだ。
装置の使用は最低限にとどめると心に決めて、引き続き英会話の勉強に励んだ。
その日も次の日も霞さんは勉強に付き合ってくれた。白鷺さんも休憩時間には紅茶とお菓子を差し入れてくれた。
どこかそわそわした感覚も三日ほどで無くなった。久しぶりに奈霧と電子的な文字でチャットを交わして、夜中にビデオ通話する約束を取り付けた。
俺は入浴を済ませて寝巻をまとい、チェアに腰を下ろしてスマートフォンを用意する。
約束の時間まで後三十分。アプリを起動して適当に時間を潰し、ビデオ通話のアイコンに指を伸ばす。
液晶画面に俺自身の顔が表示された。身なりを確認して応答すると、画面に端正な顔が表示された。
艶のあるくちびるが弧を描いた。
「釉くん久しぶり。アメリカは夜中だっけ?」
聞き慣れた鼓膜に溶けるような声色。
胸の奥でじわっと熱が広がった。自然と口角が浮き上がる。
「ああ。外はもう暗いよ」
「アメリカでの生活は順調?」
「順調と言いたいところだけど、正直不安だらけだな。英語のリスニングに関しては駄目駄目だ」
「本場の英語は速いって言うもんね」
「そうなんだよ。本場の英語を聞く機会があったんだけど、本当に何を言ってるのか分からなかった」
「大変だね。準備期間も無かったようなものだし、せめて頼れる人が近くにいればいいのに」
整った顔立ちに陰りが差す。
自分のことのように心配してくれている。その事実が無性に心を弾ませる。
俺は心配かけまいと口角を上げた。
「それなら大丈夫だ。日本語を話せる人と知り合ったからな」
「そうなの?」
「ああ。さっきもリスニングの勉強に付き合ってもらった」
奈霧の表情がふっと緩んだ。
「そっか。上手くやれてるみたいで安心したよ」
「そっちはどうだ? 何か変わったことは無かったか?」
「変わったことって?」
「知らない人に話し掛けられたとか、見張られてる気がするとか」
「何それ? 変な釉くん」
奈霧の表情がほころぶ。
晴れ晴れとした笑みを見る限り、何かを隠しているようには思えない。
生物学上の父が何か仕掛けるんじゃないかと警戒していたけど、杞憂だったと考えていいのだろうか。
まだ安心はできない。
相手は理事長、奈霧は生徒だ。しばらくは定期的に連絡を取り合った方がいいだろう。
玄関の方で軽快な音が鳴った。奈霧に断りを入れてインターホンに歩み寄り、モニターに映る白鷺さんを見てドアのロックを解除する。
程なくしてリビングと廊下を隔てるドアが開いた。
「市ヶ谷さん。明日出掛けるにあたって注意点があるのですが、少し時間をもらってもいいですか?」
「ごめん、今は通話中なんだ。しばらく待ってもらえるか?」
「分かりました」
俺はチェアに腰を下ろしてスマートフォンに向き直る。
液晶画面に映る奈霧が目を丸くしていた。
「えっと……釉くん、今の人って」
「白鷺さん。日本語を話せる内の一人だよ」
「今アメリカって二十時だよね?」
「ああ」
奈霧の表情が明らかに強張った。
違和感のある反応だ。人懐っこいとまでは言わないけど、奈霧は過剰に人見知りするタイプじゃない。銀髪に苦手意識でもあるのだろうか。
「釉くん。私の見間違えじゃなかったら、さっきの人パジャマ姿じゃなかった?」
「見間違いじゃないと思うぞ。俺にもパジャマに見えたし」
「普通、夜中に話す時って電話越しじゃない?」
「そうか? 部屋が遠かったら電話で済ませるけど、近かったら訪問するのもありじゃないか?」
「でもその、お風呂入った後なんだよ? 湯冷めするし、外には出たくないんじゃない?」
「それはそうかもしれないな」
問い掛けを肯定はしたけど、そんなに何度も問うほど気になることか?
もしや白鷺さんと話してみたいとか? 幻想的な雰囲気の美人だから気後れするのは分かるけど、奈霧のそれとはベクトルが違う。むしろ同じパジャマ姿なら奈霧の方を見てみたい気も――。
「……あ」
悟った。
確かに変だ。
今は二十時を越えている。風呂上がりにしか見えない年頃の女子が、何食わぬ顔で男性の部屋を歩いている。いくらアグレッシブでファンキーなアメリカンでも不自然だ。
俺はまだ、世話係の存在を奈霧に伝えていない!
「釉くん、もしかして」
「違う! 白鷺さんは世話係としてサポートしてくれているだけで、俺とどうこうなんて事情は一切ない!」
左胸の奧がバクバクする中、栗色の瞳がすぼめられる。
疑いの視線。嫌な汗がツーっと背筋を伝う。弁解しなきゃと思うのに頭の中は真っ白だ。
アイラブユーでも囁こうかと血迷った時、画面内が笑みで華やいだ。
「冗談だよ。釉くんが浮気したなんて思ってないって」
体から急激に力が抜ける。液体と化してチェアから流れ落ちるような錯覚があった。
「悪い冗談はやめてくれよ」
「ごめん、ちょっとふざけすぎちゃった。でもびっくりしたのは本当だよ? 心臓止まるかと思ったんだから」
「次からは気を付ける。話を変えて悪いんだけど、奈霧は時間に余裕あるか? 白鷺さんを待たせているから、話が終わってから掛け直したいんだけど」
「それがいいかもね。アクセサリーでも作りながら待ってるよ」
「悪いな」
「いいよ。また後でね」
別れを告げてスマートフォンの画面を見つめる。
中々画面が切り替わらない。奈霧と苦笑を交わして通話を切った。