第93話 知らない幼馴染
防犯カメラのレンズを一瞥してエレベーターに乗り込む。
扉が閉まるなり、エントランスの光景が下方に消えた。慣性に靴裏を突き上げられて、視点がぐんぐん上昇する。
窓の向こう側で蒼穹が開けた。数分前に踏み鳴らした地面が遥か下に見える。自分が高みへ至ったように思えて何とも言えない高揚感が込み上げる。
これは毒だ。俺自身の能力は数秒前と変わらない。
エントランスで英語に翻弄された出来事は今も記憶に新しい。口元を引き結んでチープな優越感に溺れまいと自戒する。
慣性に靴裏を突き上げられること数分。扉が左右の壁に引っ込み、長いカーペットが真っ直ぐ伸びる。
鮮やかな赤に金の装飾。セレブが踏み締めそうな高級歩行路。
異世界に迷い込んで脳がオーバーフローした。思考停止して白鷺さんの背中を追う。
白い指がカードキーをかざした。ピッとした電子音に遅れて、ドアと壁の間に隙間が生まれる。
銀色の美貌が隅に寄る。
俺は会釈して玄関に踏み入る。キャリーケースからスリッパを引き抜いて廊下に放り、足を挿し入れてリビングの床を踏み締める。
がらんとしたリビング。人一人が住むには広すぎる空間を突っ切ってキャリーケースを手放す。
「市ヶ谷さん、この後の予定はありますか?」
「街を見て回ろうと思ってたけど、しばらく部屋にこもって勉強するよ」
「勉強ですか?」
コートとマフラーを身から外して戸惑いの声を背中で受けた。
「白鷺さんとコンシェルジュの会話、俺には全く分からなかった。こんな有り様じゃ留学した意味がない」
「事前に勉強して来なかったのですか?」
「留学を持ち掛けられたのは一週間前なんだよ。やれることはしたつもりだけど、リスニングに関してはほとんどぶっつけ本番なんだ」
「そう、ですか」
振り返りたくない。
英語が分からないのにアメリカ留学なんて、現地の人からすれば意味不明だろう。車内では微妙な空気になったし本格的に呆れられたかもしれない。
そーっと横目を向けると、白鷺さんが口元に手を当てていた。
「市ヶ谷さん、少し時間をもらえませんか? あなたに会いたがっている人がいるんです」
「俺に?」
アメリカに知り合いはいない。まさか生物学上の父か?
だとしたら会いたくないけど俺はバックアップを受ける身だ。こんな身寄りのない所で支援を切られたら帰国まっしぐら。甘いサプライズをくれた奈霧に合わせる顔がない。
意を決して了承の意を示した。白鷺さんと部屋を後にして廊下のカーペットに靴裏を付ける。
カーペットに靴音を吸われること十数秒。白鷺さんが手首をひるがえしてドアを小突く。ノックをする仕草も様になるなぁと思っていると、室内から白い顔が飛び出す。
顔にあどけなさを残した少女。ナチュラルな金色を帯びた髪は紛うことなく外国人だけど、小柄なせいで金瀬さんよりも幼く見える。
サファイアのような瞳と目が合う。
整った顔立ちがぱっと華やいだ。
「ユウ!」
You?
俺が何かしただろうかと思った矢先、小さな体が足を前に出した。
避ける間もなく胸元に飛び込まれた。腕が胴体に巻き付いてぎゅっと締め付ける。ほのかにシャボンの香りが漂って左胸の奧がとくんと跳ねる。
奈霧への背徳感がぎゅわっと噴き上がった。
「な、何だ君は!?」
反射的に腕をつかもうとして、寸でのところで思いとどまる。
アメリカってどこまでがセクハラなんだ? こんないたいけな少女に触れて大丈夫なのか? さすがにそんなところまでリサーチしていない。
助けを求めて白鷺さんに視線を向ける。
「伏倉霞様です。市ヶ谷さんとの面会を希望なされていた方ですよ」
「伏倉、って」
改めて胸元にある顔を見下ろす。
名前の割に日本人離れした顔立ち。記憶をこねくり回してみるけどやっぱり見覚えは無い。
少女が大きな目をぱちくりさせた。
「どうしたの? ユウ」
「いや、えっと、ごめん。離してくれないか? 君とは初対面だと思うんだ」
嬉々としていた顔がしゅんとした。罪悪感が込み上げるものの、人違いならそう言ってあげないと彼女が不憫だ。
「初対面ではありません。市ヶ谷さんは霞様と面識があるはずです」
「俺が? いつだ」
「お二人がまだ小さかった頃に」
霞さんが銀の美貌にむっとした視線を向けた。
「ちょっとアンナ、さっきからユウに失礼じゃない?」
「尊敬語を用いないようにとのことでしたので」
白鷺さんがまぶたを閉じる。
霞さんの瞳が戻ってきた。
「そうなの?」
「ああ。落ち着かなかったからやめてもらったんだ」
「ほーら」
「何がほーらよ。素が出てるわよアンナ」
冷笑とジト目が交差する。
子供っぽいやり取り。遠い存在に見えた二人が、俺と同じ所に落ちてきたように感じられた。
霞さんの腕が腰から離れる。
「とにかく入って! せっかく近くの部屋になったんだもの。たくさんお話ししましょう!」
「たくさんは無理だけど少しだけならいいよ」
「やった!」
霞さんが踵を返して玄関に引っ込む。俺は小さな背中を追い掛けてお邪魔しますを口にする。
俺の部屋に違わず広々としている。以前から同じ部屋を使っているのだろう。ぬいぐるみにクッションなど、他にも私物らしきものが点在している。
「ユウ、好きなところに腰かけて。アンナは紅茶を淹れてくれる?」
「承りました。市ヶ谷さんはお気に入りの茶葉などありますか?」
「ないな。紅茶にはあまりたしなみがないんだ」
「分かりました。では同じのを淹れますね」
華奢な背中がキッチンに消える。
俺は洗面所を借りて日常的な禊ぎを済ませ、霞さんに勧められてソファに腰を下ろす。
さりげなく視線で室内を薙ぐ。
品のある内装にはお洒落な小物が散りばめられている。年頃らしくファッションに興味があるのか、その手の雑誌に裁縫道具の類も見られる。
霞さんが正面のソファに腰を下ろす。
「ユウは私のこと覚えてないみたいだし自己紹介から入ろっか。私は伏倉霞。秀正さんは叔父で、ユウとは従兄妹に当たるよ」
意図せず目を見張る。
俺に従兄妹がいるなんて初耳だ。
いや、二人の反応からして俺が忘れているだけなんだろうけど、父以外にも親族がいた事実に思考が追い付かない。
戸惑う俺をよそに霞さんがにっこりと笑んだ。
「四親等の傍系血族だよ。結婚できるね!」
「そ、そうだな」
苦々しく口角を上げる。妙に好かれてるみたいだけど幼少期の記憶がないから反応に困る。
困惑したのも数瞬。脳裏にひらめくものがあって目を見開く。
そうか分かった! これこそが本場のアメリカンジョークなんだ! さすが自由の国。ジョークの規模とキレが違う。
白鷺さんがワゴンを押して戻ってきた。
白と青に彩られたティーポットにティーカップ。色とりどりのクッキーが皿の上を飾っている。お嬢様方がはさむテーブルに載っていそうなセットだ。
「霞様、少々距離を詰め過ぎかと存じます。市ヶ谷さんは霞様のことを忘れているのですよ? 薄情にも」
「少し前から思ってたけど、白鷺さんって結構ズバズバ言うよな」
俺は何か気に障ることを言っただろうか。最初に呼び掛けられた時に応じなかったから無視されたと誤解して根に持っているとか?
さすがにないか。
「俺は君に嫌われるようなことをしたかな?」
「そんなこと無いと思うよ? アンナは二人きりの時いつもこんな感じだし」
「そうなのか? 従者って結構適当なんだな」
「客がいたら完璧にこなすよ。そうしないとアンナが怒られるから。面白いんだよ? この前なんて普段クールぶってるくせに」
「はしたないですよ。人の失敗談を嬉ぶなど」
繊細な指がティーポットの取っ手を握る。
注ぎ口から流れ落ちる紅がティーカップで揺らめいた。湯気に伴って品のある芳香が立ち上る。
「どうぞ」
ソーサーの底がセンターテーブルの天板を鳴らす。
所作の一つ一つが洗練されていて思わず見惚れた。彼女が取得したと言う資格に関連しているのだろうか。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ティーカップに腕を伸ばす。握った取っ手は少し熱を帯びていた。
持てないほどじゃない。縁を口に付けてティーカップを傾ける。
お湯も無理なく飲める温かさだ。ふーふーしなくて済むのはありがたい。
そっと横目を向ける。
紅茶を並べ終えても、白鷺さんはソファに座すことなく立っている。
二人座し、一人立つ。その状況に違和感を覚えた。
「白鷺さんは霞さんに仕えていたって聞いたけど、今の霞さんには誰が仕えているんだ?」
「今は誰もいないよ。独りで生活する練習中なの」
「そうなのか」
意外だ。お金持ちは一生従者に身の周りの世話をさせると思っていた。教育の一環で一人暮らしを体験させるつもりなのだろうか。
「ところで市ヶ谷さん。先程英語の勉強をすると言っていましたが、実際に会話をしてみてはいかがですか? その方が身に付くのも早いと思います」
「俺にその手の知り合いはいないぞ?」
「霞様がいらっしゃるじゃないですか」
白鷺さんが視線を振る。
小さな顔がパッと輝いた。
「いいよ! 私が手伝ってあげる!」
「いいのか? そう簡単には身に付かないだろうし、君に迷惑を掛けるかもしれないぞ?」
「望むところよ!」
霞さんが得意げに胸を張る。
無邪気な笑みを前に、思わず口元が緩んだ。