第92話 迎えの麗人
各種検査を終えてキャリーケースを預け、化け物の口じみた通路に踏み込む。最低限の荷物とともに機内を進み、指定された座席に腰を下ろす。
ゆっくりしている時間はない。留学するに当たっての備えはまだまだ不十分だ。
電子書籍を開いて日常的な会話をまとめた英文に目を通す。イヤホンで耳を塞ぎ、電子的な文字に対応した音声で鼓膜を震わせる。
一週間足らずで英語をマスターできるとは思わない。
でもアメリカへ渡る以上は英会話に触れたい。日常的な会話を抑えるだけでも違うはずだ。
暇を潰す内に慣性が掛かった。窓の外に見える景色が後方へと流れて無機質な地面が遠ざかる。
スマートフォンの液晶画面に視線を戻し、引き続き勉強に励む。
視界で人影がちらついた。機体が安定して席を立つ許可が出たのだろう。窓の外に視線を振ると雲の絨毯が広がっていた。
青と白に彩られた絶景を肴に機内食の牛丼を口にした。再加熱や乾燥した空気が風味を落とすというけど、疲れた頭には肉の旨みが染み渡った。
晴れやかな蒼穹がオレンジに沈む。
小休憩を兼ねて二度目の機内食を注文した。ストリーミングサービスで映画を視聴しつつ、チーズとトマトが織りなすグルタミン酸のハーモニーを堪能する。
機内食を楽しみにして勉強する内にシートベルトの着用を指示された。道具をポーチに収めて着陸に備える。
窓越しに天を衝かんと伸びるビル群が映った。
さながら建造物の群生地だ。東京に勝る都会の景観が消えてコンクリートの地面が迫る。機体が地面を滑るにつれて、後方へと流れる景色が徐々に輪郭を取り戻す。
慣性が止まってアナウンスが流れた。乗客がぞろぞろと腰を浮かす。
俺は多くの背中を追いかけて、人生初めてとなるアメリカの地面を踏む。
空港に踏み入るなり赤、藍色、白の国旗に歓迎された。時差ぼけの洗礼を受けながら靴先を前に出す。キャリーケースを回収し、改めてアメリカの外気に身をさらす。
日本と変わらず寒いけど良い天気だ。乾いた空気を突っ切ってタクシー乗り場を探す。
「ユウサマ」
近くで声が上がった。
落ち着いた少女の声だ。You summerってどういう意味だろう。
夏?
でも今は寒い。夏なわけがないしイントネーションもどこかおかしい。まるで日本語のように聞こえた。
「市ヶ谷釉様」
明確に呼び掛けられて振り向くと少女が立っていた。流れる水を凍らせたような銀髪にサファイアのような麗しい瞳。間違いなく初対面の少女だ。
「君、日本語分かるのか?」
「はい。日本語に触れる機会には恵まれておりましたので。市ヶ谷釉様でお間違えないでしょうか?」
「あ、ああ」
様を付けられる覚えはないけど、フルネームで呼ばれたし人違いってことはないだろう。
少女が一礼する。
「お待ちしておりました。秀正様からお世話係を申し付かっております、白鷺アンナと申します」
思わず顔をしかめる。
生物学上の父はバックアップすると言っていた。置き引きやそれに類する者が俺の名前を知っているとは思えないし、これもバックアップの一環だろうか。
「どうぞこちらへ」
少女が背を向ける。俺は足を前に出してキャリーケースの車輪を鳴らす。
前方に黒塗りの車が停まっていた。どんな富豪が乗っているのか、車内を覗いてみたい衝動に駆られる。
それを思い付きで実行できるのは日本国内だけだ。
アメリカの事情はあらかた調べた。女学生が車を間違えて、謝った次の瞬間にはヘッドショットを食らった事件もある。
まだ奈霧と星を観る約束を果たしていない。亡き骸としてアメリカの地に転がるのは嫌だ。
近付かないようにしよう。
自戒したのもつかの間。白鷺さんがつかつかと歩み寄る。
「お、おい!」
焦燥感に駆られて足を速めた。腕を伸ばして白鷺さんの歩みを無理やり止める。
「何か?」
「何じゃない! 撃たれたらどうするんだ!」
「撃たれませんよ? 私達はこれで移動するのですから」
「え?」
白鷺さんが再度歩みを進める。
たたずむ俺の前でしなやかな腕が後部座席のドアを開ける。
乗れ。
そう言わんばかりに青い瞳を向けられて靴裏を浮かせた。
乗り込もうと屈んだ拍子に、赤で彩られた豪華な内装が露わになった。目を見張ってまばたきを繰り返す。
「早く乗ってください」
心なしか声色が冷たくなった気がした。
振り返るのはためらわれて、尻をチェアの上で滑らせる。
運転席にはスーツ姿の男性が乗っていた。会釈されて俺も小さく頭を下げる。二人きりにならなくて済む。その事実にちょっとした安心感を覚えた。
白鷺さんがチェアに腰掛けてドアを閉める。
小さな駆動音に遅れて、窓の向こう側に見える景色が背後に消える。
見た目に負けず上質な車種なのだろう。あるいは運転手の腕も関係しているのか、チェア越しに伝わる揺れはほとんどない。浮遊しているのではないかと勘繰るレベルだ。
派手な色合いの建物に、恰幅の良い人々が街並みを飾る。
黄色や赤といった派手な色を好むのは国民性故か。それとも俺の固定観念が特定の色を際立たせているだけなのか。
落ち着かない。
街の光景も、この車の内装も。
「釉様」
「市ヶ谷でいいよ。様付けされると落ち着かない」
「では市ヶ谷さんでいかがでしょうか?」
「それでいい。尊敬語もやめてくれ」
どう見ても年が近いし、丁寧に接されては俺の使用人みたいだ。近々パソコンの画面越しに奈霧と話す予定だし、誤解される要素は極力省いておきたい。
「ではそのようにしましょう」
「世話係と言っていたけど、白鷺さんは普段何をしている人なんだ?」
「学生と従者を兼ねています。先日までは別の方の傍に仕えていました」
「その道のプロってことか?」
「いくつか資格は持っていますがプロではありません。少しばかり込み入った事情があるので多少仕込まれているんですよ」
「大変なんだな」
白鷺さんが微かに目を細める。
空気の質が変わった。見定められているような、居心地の悪い空間が出来上がる。
「失礼ですが、市ヶ谷さんは伏倉家……いえ、秀正様についてどこまで知っているのですか?」
生物学上の父。母を捨てて逃げたろくでなし。
そんな言葉が口を突きかけて寸でのところで思いとどまった。あんな人でも初対面の人に告げ口するのは気が引ける。
それに会話の流れが気になる。
白鷺さんは生物学上の父を様付けしている。うかつに悪口を口にしたらどうなることか。
「正直なところ、あまり知らない。知る機会が無かったし、知ろうとも思わなかったからな」
少なくとも、今乗っている車を動かせるくらいには力のある家なのだろう。一般家庭に従者が付くわけないし、容易く請希高校理事の座に就いた。生物学上の父が保有する資産は相当なものだ。
俺は父を知らない。
だけど過去は確かに有った。無かったことにはならない。
「そうですか」
白鷺さんの視線が窓の外に向けられる。
気まずさに耐えてどれだけの時間が経っただろう。街並みがガラリと変わっていることに気付いた。高い建物がずらっと並んでいかにもな都会の雰囲気が醸し出される。
どこまで行くのか、そんな問い掛けを発せられる空気でもない。電子書籍の英文に目を走らせて間を持たせる。
体に掛かる慣性が止まった。
「到着しました。忘れ物がないように気を付けてください」
ドアが開かれ、車内にひんやりとした空気が雪崩れ込んだ。俺は運転手に礼を告げて外の地面に靴裏を付ける。
視界に違和感を覚えてバッと仰ぐ。
山のごとくそびえ立つマンションがあった。
高い建物を視界に映すのは慣れたものだけど、東京でもこのレベルは中々見られない。外観も凝っていてすさまじくロイヤルだ。
「あの、場所間違えてない?」
「いえ、ここで間違いありません。市ヶ谷さんには今日から留学期限までここで生活してもらいます。それと建物は見上げないでください。お上りと見られて舐められますので」
白鷺さんが足を前に出す。
俺は足早にキャリーケースを引き擦る。
オートロックを経て透明な板が左右に引っ込んだ。白鷺さんがエントランスに踏み込み、直進してコンシェルジュと言葉を交わす。
全く聞き取れない。
会話がすごく速い。声は聞こえるけどその意味が分からない。
もはや聞かせる気が無いみたいだ。ペラペラと応じる白鷺さんが別世界の住人に見える。
静謐とした美貌が身をひるがえして歩み寄る。
「行きましょう」
「あ、ああ」
前途多難。先行きの不安で思考が麻痺しそうだ。
兎にも角にもキャリーケースを置かないと始まらない。すくみそうになる足を前に出してエレベーターを目指す。