第91話 またデートしようね
留学を決意したその日は、カフェでの談笑を終えた足で帰路に就いた。玄関に踏み入るなり湯浴みを済ませ、アナログなメモ帳に必要な物をリストアップする。
留学と聞けば聞こえはいいけど、海外の地を踏むだけでは旅行と変わらない。何も考えず母国を発って、何も得られないまま帰国したなんて話はありふれている。
奈霧との初詣を蹴って留学するんだ。それなりのものを持ち帰らないと割に合わない。留学中に挑戦すべき事柄も文字に残して床に就いた。
次の日には理事長室へと足を運び、短期留学に臨む旨を言葉にして叩き付けた。
生物学上の父は嬉しそうに笑ったものだ。短期留学に関する書類を差し出され、俺は払い落としたい衝動をこらえて受け取った。
昼休みには友人を集めて話をした。留学の件はいつかばれる。日本を発つ前に、気心の知れた友人には話しておきたかった。
金瀬さん達は驚きながらも祝福してくれた。羨望を口にした一部にはもみくちゃにされたけど、留学の話はコネと言われても仕方ない。俺はやられるがままに甘んじた。
その日の放課後に奈霧と合流した。ショッピングセンターに立ち寄り、日用品を詰めるキャリーケースなど必要な物を買って回った。
先日リストアップしておいたおかげで、買い物自体はスムーズに終わった。
後は解散するだけなのに、また明日と発することができなかった。メモ帳に必要な物を書きまとめた自分を恨みさえした。
沈黙の内に、奈霧がファミレスに寄ることを提案した。
俺は了承して温かい店内に踏み入った。留学のことを忘れて同じテーブルを挟み、時間を惜しむように言葉を交わした。
恋人を送ってから自宅に戻った。タオルに水滴を吸わせて寝巻をまとい、事前に備えておいたリストに目を走らせて荷造りする。
アメリカに発つ日を迎えた。奈霧からもらったマフラーを首元に巻き、先日購入したキャリーケースの取っ手を握る。
コートをまとった体を外気に晒す。
玄関の鍵を閉めてエレベーターに踏み入る。魂を揺さぶるような慣性に耐えて、開けた空間の床に靴裏を付ける。
静寂に包まれたエントランス。見慣れた様相なのに、しばらく見られなくなると思うと感慨深い。
エントランスの内装をまぶたの裏に焼き付けて、キャリーケース特有のキャスターと共に外の地面を踏み締める。
途中見送りに来た奈霧と合流した。公共交通機関を乗り継いで空港への道のりを歩む。
会話は特になかった。話したかったことはファミレスで語り尽くしたし、心の準備もできている。時折談笑で間を繋ぎながら乗り物に揺られた。
空港が見えてきた。奈霧と降車し、肩を並べて広々とした通路を踏み鳴らす。
何か言わないと。そんな焦りが泉のごとく湧き上がる。
どうして移動中にもっと会話を交わさなかったのだろう。今さらながら胸の奥で後悔の念が渦を巻く。
口を開く前に艶のあるくちびるが動いた。
「あの、さ」
「ん?」
「釉くんってアメリカ行ったことある?」
「ないよ。今回が初めてだ」
「そっか」
キャスターの音がやたらと大きく聞こえる。
保安検査前まで来た。目に付いた貼り紙には『お見送りの人はここまで』と記されている。
「見送りはここまでなんだね」
「ああ」
余裕をもって空港に到着したけど談笑する時間はない。各種検査や審査にも時間を要する。そろそろ並ばないと間に合わない。
「じゃあ行ってくる。落ち着いたら連絡するよ」
「うん、待ってる」
奈霧が力なく口角を上げる。
一通りの会話は終わった。後は背を向けて列に並ぶだけだ。
頭では分かっているのに靴裏が床に貼り付いて離れない。
目の前で華奢な体がひるがえった。亜麻色の長髪が慣性でさらっと揺れる。
すらっとした脚が三歩ほど進んで止まった。
「そうだ、大事なこと忘れてた」
「大事なこと?」
奈霧が迫る。
柔らかなものが口元に触れて目を見張った。ふわっとした甘い香りに鼻腔をくすぐられて思考が漂白される。
それは一瞬か、数秒か。
判別が付かない間に熱が離れた。
「行ってらっしゃい。帰ってきたら、またデートしようね」
奈霧が微笑を残してきびすを返す。
小さくなる背中を眺めていると口笛が鳴った。周囲が賑やかさを増して耳たぶが熱を帯びる。
胸の奥から熱いものが泉のごとくわき上がる。
数秒前の沈んだ気分が嘘みたいだ。俺は自分が思っていた以上に現金な生き物だったらしい。
「頑張らないとな」
つぶやきが口を突いて口角が浮き上がる。
そうだ、寂しがってる場合じゃない。
せっかくの留学なんだ。自慢の彼女に恥じない自分でいるために、アメリカで多くを得よう。帰国したあかつきには一回り成長した俺を見せてやるんだ。
もう背中は追いかけない。俺も奈霧に背中を向けて一歩踏み出す。