第90話 相談
理事長室を後にして教室に戻り、自分の席に着いて自習に励む。
休み時間になってからは、案の定理事長絡みの話題を振られた。繋がりなんて見出されたくないし、俺達の関係を教える義務もない。のらりくらりと追及を交わして二限目以降の授業をこなした。
奈霧にはチャットで話がある旨を伝えて、放課後にカフェで落ち合った。学校が近くて通学路にあるから通いやすい。もうすっかり常連だ。
奈霧と同じテーブルを挟む。店員相手に望みの品を注文し、改めて恋人に向き直る。
「それで、大事な話って?」
「俺、短期留学することになるかもしれない」
「……え?」
奈霧が目を瞬かせた。
「随分急な話だね。どうしてこのタイミングで留学を決めたの?」
「俺が決めたわけじゃない。理事長が決めたんだよ」
「何で理事長が釉くんの留学を決めるの? 普通選択権は釉くんにあるよね?」
「普通はな。あの理事長普通じゃないんだ」
「知ってる人なの?」
失言を悟って口をつぐむ。迂闊な口を縫い付けたい。
俺が不登校になったのは佐郷のせいだけど、母が鬼籍に入った一因には、子育ての心労を一人で抱え込んだこともある。本来傍で支えるべき生物学上の父が消えたことは要因の一つだ。
新任理事長が生物学上の父と知ったら、きっと奈霧は憤りを覚えるだろう。ずかずかと理事長室に踏み込んで強い言葉を叩き付けるに違いない。
未来図を想像して、寒気が体を駆け巡る。
凄く怖い。大学生じみた様相が柔和な雰囲気を醸し出していたけど、あの微笑の裏には底知れないものを感じた。
人間性が終わっている奴でも理事長は理事長だ。不用意に非難したら奈霧の学生生活に影を落とす。奈霧はそれを踏まえて赴くだろうけど、彼氏としてそんな無謀を認めるわけにはいかない。
「いや、知らない人だよ」
俺は顔に微笑を貼り付けておどける。
奈霧が栗色の瞳をすぼめた。
「あの理事長、伏倉秀正って名前だよね」
「ああ」
「伏倉って釉くんの旧姓だよね?」
「あのお婆さんもそうだったな」
同じ名字の非血縁者がいる。一人いるなら二人いても可笑しくない。
「あの人、凄く釉くんに似てるよね」
「世の中にはそっくりな人が数人いるって聞くよな」
じとっとした視線に見据えられる。問い詰められているようで、嫌な汗がツーっと背中を伝う。
奈霧がまぶたを閉じて小さく息を突く。
「もういいよ、そういうことにしておくね」
「そういうことなんだけどな」
睨まれた。俺は誤魔化すべくグラスに腕を伸ばす。
ああ、お冷が美味い。温かい所で口にする冷たい物は最高だ。
「話を戻すよ。短期留学の件だけど、釉くんは乗り気じゃないみたいだね」
「そりゃあそうだろう。元々そんな予定は無かったし、奈霧と出掛ける予定だったんだから」
もう少しで年が明ける。初詣は一年に一回しかないイベントだ。奈霧以上に楽しみにしていた自負がある。
「……釉くんはさ、行ってみたいと思わないの?」
頭の中が真っ白になる。告げられた言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
乾いた笑いが俺の口を突く。
「何を言っているんだ? 一緒に初詣に行く約束だってしてるんだ。行きたいと思うわけないじゃないか」
「でもせっかくの留学だよ? これだけ急な話なんだし、色々と便宜は図ってもらえるんでしょ?」
「そう聞いてはいるけど」
「だったら良い話じゃない。そんな良い条件滅多にないよ」
想像と違う。
奈霧は俺に同調してくれると思っていた。急な短期留学なんて理不尽だと、一緒に打開策を考えてくれると思い込んでいた。
「奈霧は、嫌じゃないのか?」
やっと一緒になれたのに。紆余曲折を乗り越えて、小学生の頃からの想いを通じ合えたのに。年一回しかないイベントを棒に振れって言うのか?
視線に思念がこもっていたのか、端正な顔に悲痛の色が滲む。
「私だって釉くんと一緒にいたいよ。振袖だって用意してたし、帰国まで会えなくなるのは寂しいんだろうなって思う」
「だったら」
奈霧が目を閉じてかぶりを振る。
次に覗かせた瞳には真剣な光が宿っていた。
「でも、私が釉くんを止めるのは違うよ。釉くんの可能性を狭めてでも一緒にいたいだなんて、まるで依存してるみたいじゃない。私は釉くんと会えて良かったと思ってる。だからこそ、この出会いは互いに高め合えるものにしたいの」
今度は俺が口を閉じる番だった。
留学を推されて驚いたものの、全く予想してなかったと言えば嘘になる。
悔しいけど、生物学上の父が告げていた通りだ。
奈霧は上昇志向が強い。留学は他国の文化に触れて見識を深める行為。奈霧が馴れ合いを理由に断る選択を良しとするわけがなかった。
それは、俺が欲しかった反応とは違う。
でも幻滅はしない。これこそが、俺の好きな奈霧有紀羽の在り方だ。
どこまでも真っ直ぐで自分磨きを怠らない。そういう人だから、俺は肩を並べて歩きたいと願った。奈霧が好いてくれた『伏倉釉』もそういう人物のはずだ。
「もちろん、釉くんが本当に行きたくないって言うならそれでいいと思う。英語を介したコミュニケーションは難しいだろうし、夜道は一人で歩けないくらい物騒な所だから。でも本当のところはどう思ってるの?」
「そうだな……」
俺はまぶたを閉じて視界情報を遮断し、その分思考を巡らせる。
日本で奈霧と三か月を過ごすメリット。
短期留学で得られるメリット。
生物学上の父が信用できないという点を取り除き、どちらがより俺の将来に役立つか考える。
俺は目を開けて栗色の瞳を見据える。
きっと考えるまでもなかった。
「決めた、アメリカに行くよ。用意しなきゃいけない物があるんだけど、買い物手伝ってくれないか?」
「もちろん」
整った顔立ちが笑みで満たされた。
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