第89話 父との対面
人気のない廊下を踏み鳴らす。
何か月も歩いた校舎なのに見覚えが無い。立ち入る理由がなかったから当たり前だけど、妙にそわそわする。異世界に迷い込んだみたいで落ち着かない。
足を止めて白い長方形を見つめる。
プレートには理事長室の文字。目の前にあるのは暗褐色のドア。見るからに高品質な木材でこしらえられた物だ。まるで魔王の間に続く扉。ドアノブに腕を伸ばすことすらためらわれる。
ずっと立っているわけにもいかない。のんびりしていては二限目の授業が始まってしまう。
空気を深く吸い込み、意を決して軽く拳を作る。
手甲で暗褐色の面を三回小突く。返答を耳にしてドアノブを握る。
廊下の清潔感ある内装から一転、視界一杯に華やかな装飾が広がった。
手前にはシックな色合いのソファにテーブル。奧で鎮座するエクゼクティブデスクが、この場をお偉いさんご用達の空気に仕上げている。
「久しぶりだね釉。元気にしていたかい?」
窓から差し込む日光を背に、あの男が黒いチェアの背もたれに体重を預けている。
思わず眉根を寄せそうになった。一体どの面を下げて俺を名前呼びしたのだろう。
相手は理事長、相手は理事長。平静に努めて口を開く。
「おはようございます伏倉理事長。一年三組所属の市ヶ谷釉と申します」
「そんなに謙遜しなくていいよ。僕と君の仲じゃないか」
「それで理事長、何の御用でしょうか?」
生物学上の父が肩を竦める。
「期末試験では学年一位になったみたいだね」
「それが何か?」
「凄いと思ってさ。いじめっ子の件でごたごたしていたし、体調を崩していないか心配していたんだ。杞憂に終わって良かったよ」
心配していた?
この人が、俺を?
わざとか? 意図してその手の言葉を吐いたのか?。俺を苛立たせて、一体何をしようって言うんだ。
まぶたを閉じて感情をリセットしようと試みる。
「二位とは僅差でしたが」
「奈霧さんだね。懐かしいな、釉が小学生の頃は一緒に遊んでいたよね。彼女は元気にしているかい?」
「はい」
「それは良かった。せっかく再会できたんだし、奈霧さんとは懇意にしてもらわないと」
「理事長、そろそろ要件について伺いたいのですが」
これ以上付き合ってはいられない。意図して強めの口調で催促した。
声を張り上げたにもかかわらず、憎たらしい微笑は崩れない。
「分かった、単刀直入に言おう。君にはアメリカに短期留学してもらいたいんだ」
「留学? 俺が?」
「やっと自然な口調で話してくれたね」
生物学上の父がにこっと笑む。
復讐者だった頃に練習していた笑顔とそっくりだ。仮面の裏では何を考えているか分かったものじゃない。昔の自分を思い出して視線を逸らす。
「教室に戻りますよ?」
「それは困るなぁ。すでに手筈は整っているのに。あ、留学期限は一月から三月中旬までだからよろしくね」
「急ですね。突然そんな話をされても困ります」
「不安だよね、分かるよ。東大卒でも英会話できないなんて珍しくもないからね。でも心配はいらない。費用は出すし、パスポートやビザ、その他諸々こちらで用意した。もう安心だね」
「いや安心じゃなくて、そもそも俺は行くなんて行ってません。というか行きません」
あと一週間もしないうちに年が変わる。
そうすれば元旦だ。振袖を着た奈霧と初詣に行ったり、冬休みを満喫する予定でいる。突然アメリカに行けなんて言われても困る。
形の良い眉がハの字を描く。
「そうか、それは困ったなぁ。じゃあアメリカには奈霧さんに行ってもらおうかな」
「え?」
戸惑いの声が口を突いた。視界に映る表情に微笑が貼り付く。
俺はハッとして表情を引き締める。動揺したら自ら弱点を教えるようなものだ。
迂闊。自分の頬を張ってやりたい。
「どうして奈霧の名前を出したんですか?」
「優等生だからね。素行もいいし、ある意味君よりも適任と言える」
「奈霧だって、急に短期留学の話を持ち掛けられたら困りますよ」
「困るだろうね。でも、それと彼女が断るかどうかは別の話だよ」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「奈霧さんは負けず嫌いだからね。上昇志向も強いみたいだし、アメリカンファッションを直に目で見るチャンスだ。君に持ち掛けられた話が下りてきたらチャンスと考えるんじゃないかな?」
そんなはずはない。
だって俺達は恋人なんだ。クリスマスデートを楽しみにしてくれたし、初詣だって一緒に過ごしたいと思ってるに決まっている。
ふと一つの光景が脳裏をよぎる。
頭に浮かんだのは、期末試験の点数を比べて悔しがっていた奈霧の姿。
留学と言えばキャリアアップの手段だ。便宜を図ってもらえるなら条件も良い。奈霧が飛び付かないとどうして言える。
日本とアメリカは文化が違う。カルチャーショックを受ける機会も多いだろう。服飾の道を志す奈霧には良い刺激だし、俺自身譲ることを一考するくらいにはメリットしかない。むしろ夢を応援するならそうした方が良いんじゃないか?
……待て、短絡的になるな。
短期留学を計画したのは正面にいる男だ。いじめられて心が弱っていた俺を見捨てて、全ての責任を母に押し付けて蒸発した最低の男だ。下手に奈霧を送り出したら、向こうで何をされるか分かったものじゃない。
「少し、時間をもらえますか?」
「構わないよ。明後日までには返事が欲しい」
「分かりました」
俺は一礼して背を向ける。ひとまず話を持ち帰った。