第86話 俺はお義父ちゃんだぞ?
グラスの底がテーブルの天板をコトっと鳴らす。
勲さんが腕を組んでまぶたを閉じる。
「あくまでこれは私の見解だが、正解を求めるのをやめたらどうだろう」
「え?」
想像だにしなかった言葉を耳にして、俺は戸惑いとともに顔を上げる。
真剣な面持ちに見返された。
「決して君の父親を擁護するわけじゃないが、少しは不快な思いをさせるかもしれない。それでも聞いてくれるか?」
俺は首を縦に振る。
勲さんが視線をずらす。おそらくは俺の後方を見てから口を開く。
「市ヶ谷さん、君には私がどう見えている?」
「どうって、格好良い父親だと思いますけど」
何一つ不自由ない衣食住を提供し、母娘との関係も良好。父親としての義務を全うしているように見える。俺の父とは大違いだ。
勲さんがふっと笑う。
「ありがとう。だがね、私には上手く父親をやれている自信はないんだよ。咲羽と有紀羽が笑って過ごせるようにと動いてはいるが、思った通りになったのは数えられる程度だ。会社の経営が傾いた時は苦労を掛けたし、有紀羽に自然な笑顔を戻したのは君だった。少なくともその件に関して、私は何をしてやることもできなかったんだ」
勲さんの表情に苦々しさが浮かぶ。
俺はハッとして息を呑む。
これは弱音だ。裕福な暮らしを支える大黒柱から漏れた軋みだ。奈霧と咲羽さんがいないことを確認したのは、これを聞かせたくなかったからなのだろうか。
「だからまあ、君の視点を聞いて少し安心した。最善ではなくても、私は父親としてそこそこやれていたんだと自信が持てたよ。そんな私から言わせてもらうと、正解なんてのは選択肢を潰し終えて初めて分かる後出し要素なんだよ。正否なんて知っても、選択肢があった頃に戻れるわけじゃない。つまるところ考えるだけ無駄だ。これが正解なのかとびくびくして過ごすよりは、今をより良くしようとする心構えを大事にすべきだと思う」
「つまり、仲直りできるならした方がいいと?」
誰だって憎み合うよりは好き合った方がいい。憎悪がもたらすエネルギーは凄まじいけど、あの活力は自身の体と精神を削る。赦せるなら赦した方が穏やかに過ごせるのは間違いない。
でも物事はそう簡単じゃない。頭では分かっていても心が追い付かない。
「そこまでは言わないよ」
視界から微笑が消えた。
「私からすれば、伴侶と子を捨てた時点でそいつは父親失格だ。切り捨てたいなら止めはしない。しかし残酷な話だが、そんな男でも生物学的には父親だ。同じ血が流れている、この世に二人しかいない君の特別なんだ。悪性でも切除すれば痛みを伴う。だからどんな結論を出すにせよ、最後まで悩み抜いた上で答えを出してほしい。一時期は有紀羽を憎みながらも、有事の際には体を張って守ってくれた。そんなことができた君ならば、悪いようにはならないと思うんだ」
勲さんがワイングラスを傾ける。
すっと視界が開けた気分だった。俺が思っていたこと、その身で体験したことを言葉にしてくれたおかげで、自分を見つめ直すことができた気がする。
実の父が憎くないと言えば嘘になる。母の墓前で首を垂れさせてやる。そう考えたことも一度や二度じゃない。
でも、それが正解かどうかなんて分からない。
ストーカーの件がその象徴だ。あの時憎悪に負けて奈霧を見捨てていたら、俺は死ぬまで自分を責めただろう。
真実を知る今は正解したと分かるけど、復讐者だった当時は助けたことに後悔を覚えていた。最悪の選択肢だったはずなのに、気が付けば最良の選択肢を選んでいた。
きっと父に関しても同じなんだ。憎んで排斥するのは間違いじゃないかもしれない。だけどそれが最善とは限らない。
大事なのは悩むこと。一時期の感情に身を任せず悩み抜くことだ。最善を導き出すだけが正解じゃない。奈霧と仲直りまで漕ぎつけたように、最悪さえ回避できれば可能性は残せるはずだから。
「知ったようなことを言ってしまったね。年寄りの戯言として聞き流してくれ」
「いえ、話して気が楽になりました。ありがとうございます」
「そうか? なら良かった」
勲さんがグラスを傾ける。
最初はカチコチになるくらい緊張したけど、話してみると接しやすい人だ。俺の父がまともだったら、自宅でもこんな時間を送れたのかもしれない。
勲さんが目を瞬かせる。どこかとろんとした視線を、俺とグラスの間で往復させる。
「何だ、君も飲みたいのか?」
グラスがかざされる。ついさっき終わったやり取りだ。俺が断ったことを忘れたのだろうか。
よくよく見ると、勲さんの顔は林檎のように真っ赤だ。つまみ無しにずっとワインを口にしていたし、酔いが一気に回ったと見える。
「よかろぉ、飲めぃ」
「俺未成年ですけど」
「グレープジュースだよぉ」
「絶対嘘ですよねそれ」
「いいから飲めぇ、俺はお義父ちゃんだぞ?」
これは駄目だ、完全にでき上がっている。
奈霧、は駄目か。父としての威厳があるだろうし、咲羽さんを呼んで来ないと。
「勲さん。悪ふざけもそこそこにしないと怒りますよ?」
振り向くと咲羽さんが立っていた。にこにこ笑顔なのにちょっと怖い。
「悪ふざけ? しとらぁん」
「未成年にお酒を勧めることが悪ふざけじゃなかったら何なんです? お酒弱いのに今日はぐびぐび飲んじゃって、そんなだからベロンベロンになるんですよ」
「ばか言えぇ、娘の彼氏と素面で話せる父親がいるかぁっ」
「いいから水飲んで寝てください。これ以上恥を晒す前に」
「はぁい」
子供っぽい笑みを前に、咲羽さんが苦々しく口角を上げた。
「ごめんね、見苦しいもの見せちゃって」
「い、いえ」
反応に困って笑みを返す。
完璧に見えた勲さんも悩める人間なのだなと、失礼ながらにしみじみ思った。




