第85話 夜の語らい
奈霧と談笑する内にドアがノックされた。咲羽さんの呼び掛けで一階の床に靴裏を付ける。勲さんも交えて豪華な夕食に手を付けた。
会話は弾んだとは言えなかった。咲羽さんや奈霧から振られた会話に応じるだけ。俺から話を振った回数は片手で数えられる。
一番喋ったのは咲羽さんだ。校舎での奈霧の様子や公開告白の状況など、かなり踏み込んだことを問われた。正直に話すのも憚かられたから苦笑いで誤魔化した。黙々とワインを口にする勲さんが気になって仕方なかった。
食事の後は皿を下げて後片付けに協力した。何気なく勲さんから距離を取るように立ち回った。
後片付けが一段落して、俺はリビングの出口へと足を進める。
勲さんに言われるまでもなく泊まる気はない。夕食をご馳走になったし、奈霧にプレゼントも渡した。後は帰るだけだ。
「楽しかったかい?」
背筋が伸びた。
俺は顔に微笑を貼り付けて振り向く。
「はい。今日はありがとうございました」
「もう帰るのか」
「はい。長くお邪魔しても悪いので」
「それが理由なら、少しテラスの方で話さないか?」
思わず息を呑む。
何の誘いだろう、もしや奈霧と別れるように要求されるのだろうか。
勲さんの口端が苦々しく吊り上がる。
「そう固くならないでくれ。こう見えて、ファミレスの件は少し大人げなかったと反省しているんだ。娘や咲羽の前だと聞けないこともあるし、少しだけ君の時間を分けてもらいたい。駄目だろうか?」
そこまで言われたら断る理由もない。
「分かりました、ではご一緒します」
「ありがとう。こっちだ」
勲さんがグラスとワインボトルを持ってソファから腰を上げる。
大きな背中を追った先は小部屋になっていた。長方形のガラスが一列に並び、カーテンじみた様相を醸し出している。
折戸パネルの向こう側に広がるのは夜の帳。暗がりに配置されたガーデンライトが庭の輪郭を暴き、その温かな灯りで大人びた雰囲気を演出する。
さながら高層ビルから見下ろした夜の街。この眺めを映しながら口に含むワインはさぞ美味だろう。
男の夢、そんなワードが脳裏をよぎる。
「どうしたんだい? 座りなよ」
「はい。失礼します」
勧められたチェアに腰を下ろす。
グラスがかざされた拍子に、暗紫色の液体が軽やかに揺れる。
「飲むかい?」
「俺は未成年ですよ?」
「だよね」
勲さんが口にグラスの縁を付けて傾ける。食事中も頻繁に口にしていたけど、まだ胃の中に入るらしい。もしかして酒豪なのだろうか。
「それで、話とは何でしょうか?」
「食事中に気になったことがあってね」
「マナーが悪かったですか?」
胸の内で後悔の念が渦を巻く。
半日掛けて調べてきたのにリサーチが足りなかったか。こんなことなら一日かけて反復練習するべきだった。
勲さんがかぶりを振る。
「いや、マナーは完璧だった。育ちの良さすら感じたよ。これまで耳にしてきた悪評の方を疑ったくらいだ」
「十中八九、いえ六七くらいは合っていると思いますよ? 俺は育ちが悪いので」
「そういうことを自分で言ってはいけない。両親の件で何かあったのは分かるが、口にした分だけ自己肯定感が薄れてしまうからね」
反射的に目を見張った。
「俺、両親について詳しく話しましたっけ?」
「いいや。だが君の、私や咲羽を見る目が気になった。私に苦手意識を持っていることは知っていたが、咲羽にも似た視線を向けていただろう。差し支えなければ理由を聞かせてくれないか?」
恋人の父親に聞かせる話じゃない。
そう思ったけど、どことなく漂う父性に釣られた。くちびるの内容物がヘリウムガスと化したかのように口が開く。
「両親を思い出していたんです」
「私と咲羽は君の両親に似ているのかい?」
「いえ、全然似てません。父は俺と母を置いてどこかに消えましたし、母は過労で鬼籍に入りましたから」
俺は空気を重くしないように口角を上げる。
努力の甲斐もなく、勲さんの表情から微笑が消える。
「すまない、不用意なことを聞いてしまった」
「気にしないでください。もう乗り越えたことですから」
「不躾だとは思うが、乗り越えたと言うのは嘘だろう。君はそんな表情をしていない」
「そうかもしれませんね」
俺はテーブルの天板に視線を落とす。
本当に乗り越えたなら、父のことを考えるたびに胸の奧は騒めかない。それが答えだ。
一緒に過ごして改めて思った。奈霧を取り巻く家庭は本当に幸せそうだ。両親の仲が良くて、こじれやすいと言われる父と娘の関係も良好に見える。
妬みはない。壊してやろうなんて考えたこともない。
それでも疎外感を覚えずにはいられない。笑顔にあふれたやり取りを見るたびに、どこか遠い出来事のように感じる。
どうしても考えてしまうんだ。俺にも親がいたら、こんな感じなのだろうかと。
「もし父に会ってしまったら、俺はどうするのが正解なんでしょうか?」
意図せず問い掛けが口を突いた。