第84話 手編みのマフラー
わだまかりを解いてから、奈霧とのぎこちなかった会話が繋がるようになった。
歯車が噛み合った感覚に任せて商業施設を歩き回る。ウィンドウショッピングと華やかな内装を肴にして談笑を重ねた。
ライトアップされた電波塔を見て一区切り。元来た道を辿って新宿駅のホームに靴裏を付ける。
徒歩で奈霧の自宅へと向かう。
楽しかった時間はここまで。
いやもうしばらくは続くけど、奈霧宅には高確率で勲さんがいる。それこそ急に仕事が入ったとかで留守にでもしない限り、俺はあの人と顔を合わせることになる。
忘れもしない。ファミレスで奈霧を化粧室へ追いやった後に見せたあの表情。大切に育てた娘にくっ付いた変な虫を射落とさんとするあの目。
俺に感謝したのは本当のことだろう。そこは疑っていない。だけどあのプレッシャーが冗談だったとも思えない。
憂鬱だ、帰りたい。奈霧宅に誘われてなければ自宅でケーキを食べていたのに。むしろ奈霧を誘って同じテーブルを挟んでいたかもしれないのに。
「釉くん、緊張してるの?」
「してる。それはもう凄まじく」
「そんなに緊張しなくてもいいのに。お父さんもお母さんも、釉くんと話すのを楽しみにしてたよ?」
嘘付け!
思わず声を張り上げそうになった。危ない危ない、勲さん渾身の本性を愛娘の前で暴露するところだった。
嘘を指摘すれば、きっと奈霧は勲さんを叱る。勲さんから俺への印象が悪化するのは想像に難くない。恨まれるのは御免だ。
「そうか、楽しみだなー」
適当に言葉を交わして歩を進める。
奈霧が指を差した。細い指先が指し示した先を視線でなぞる。
大きな一軒家だ。マンション程ではないものの、他の一戸建てと比べるとパッと見て分かるほど大きい。
俺もかつては一軒家に暮らしていたけど、当時の記憶はすでに朧げだ。建物の中はマンションの部屋とどう違うのだろう。
門の間を通って玄関の前に立ち、コートをたたんで前腕に掛ける。
奈霧がスマートフォンを取り出してかざす。
カチャと軽快な音が鳴った。繊細な手がドアの取っ手を引くなり、内側から温かな明かりが漏れる。
自分は外にいるのに中が明るい。その違和感で靴裏が地面に貼り付く。
俺は、この中に入っていいのだろうか。
「どうしたの? 入ろうよ」
微笑のお墨付きをもらって後に続く。
スリッパの音に遅れて、廊下の奥から女性が現れる。
いかにもできる女性って感じの出で立ち。家にいるのにスーツ姿を幻視した。
十代のような瑞々しい肌。若いうちからケアをしていたのだろう。ラフな格好ながらも美容意識の高さがうかがえる。髪は奈霧と違ってショートだけど、恋人の親族と聞けば納得するだけの面影がある。
「いらっしゃい。あなたが市ヶ谷さんね?」
「はい、市ヶ谷釉と申します。今日はよろしくお願いします」
「ええ。こちらこそよろしくね」
柔らかい笑顔が緊張をほぐしてくれた。
俺は用意してきた菓子折りを手渡して靴を脱ぎ、勧められたスリッパに足を挿し入れる。
廊下を歩くと独特な匂いがした。
落ち着かないけど悪くはない。奈霧が俺の部屋に踏み入った時も似た感想を抱いたのだろうか。非日常的な空気で気が引き締まる。
コート掛けを勧められてダッフルコートを吊り下げる。
奈霧母の手に寄ってドアが開かれ、リビングの内装が露わになる。
「やあ、いらっしゃい」
背筋に緊張が走った。
勲さんだ。シックな色合いのソファの上で脚を組んでいる。その表情は微笑の体を為している。
一応はフレンドリーな態度。俺から空気を壊すわけにもいかない。強張りそうになる口角を上げる。
「こんにちは。お邪魔します」
「泊めないからね?」
「分かってますよ」
苦笑いで応じる内に奈霧が戻ってきた。洗面所で手洗いとうがいをしてきたらしい。俺も洗面所を貸してもらって日常的な禊ぎを済ませる。
「有紀羽、手伝いはいいから部屋に行ってなさい」
「いいの?」
「いいわよ。手伝いは勲さんにやってもらうから」
「分かった、それじゃ後はお願い。釉くん、行こう?」
「ああ」
奈霧の両親に会釈して廊下に戻り、上階へと続く段差に足を掛ける。華奢な背中を追ってスリッパを鳴らし、二階の床にスリッパの裏を付ける。
奈霧がドアノブをひねって振り向く。
「ここが私の部屋。入って」
「お邪魔します」
初めて踏み入る奈霧の部屋。胸の高鳴りを感じながら室内を一瞥する。
質素な俺の部屋とは違う。所々に洒落っ気がある一方で、パステル調のカラーリングが居心地の悪さを緩和する。アイスを模したハンドメイドを見つけて、意図せず口元が緩む。
視線を感じて振り向くと、奈霧がじとっとした視線を向けていた。
「女の子の部屋をじろじろ見ないの」
「そんなつもりはなかったけど、不快にさせたなら謝るよ」
視線を向ける先に困っていると棚が目に付いた。本の背表紙に混じって紙粘土の器物や段ボール工作が並んでいる。
「図工の時間に作った物だよ。覚えてる?」
「ああ」
小学生の頃に競争の種目としたのは、駆けっこやテストの点数だけじゃない。図工での物作りもその一つだ。
「俺の部屋にも飾ってあるよ。微かに俺のとは違うな」
「同じ物でも違いが出るのはハンドメイドならではだよね」
「そうだな。機械化されたら図工も味気なくなりそうだ」
授業内容も、作るための機械を操縦する練習になるのだろうか。小学生時代の記憶は疎ましいけど、工作に没頭した時間が後世に継がれないのは少し寂しい。
視線を走らせる内に置物の質が変わる。粗雑さと微笑ましさが入り混じった物から一転、素人目にも分かるほど知識と技術が織り込まれている。
「これって、以前帰り道に話してたハンドメイドか?」
「そうだよ。三日前はもっとたくさんあったんだけどね」
「捨てたのか?」
「ううん、買ってくれた人に配送したの」
「ってことは、販売サイトに出品したんだな」
「うん。自分の作った物が売れるのって、何だか不思議な感じがしたよ」
奈霧は道具の購入で貯金が減る状況を憂いていた。ハンドメイドが売れたのは好ましいことのはずだけど、表情を染める歓喜の色は薄いように見える。
「寂しいのか?」
奈霧が目を丸くする。
数拍置いて、整った顔立ちに力ない笑みが浮かんだ。
「ちょっとね。でも嬉しいって気持ちもあるんだよ? レビューも付いてさ、胸の内がぽわぽわってなった」
「意外だな。奈霧は他人の評価なんて気にしないと思ってたよ」
「私もそう思ってた」
奈霧がはにかむ。
俺はふと思い出してポーチの口を開ける。中から長方形の包装を引き抜く。
「今の内に渡しておくよ。気に入ってくれるかどうかは分からないけど、クリスマスプレゼント」
小さな顔がパッと華やぐ。
それもつかの間。奈霧が気まずそうに表情を強張らせる。
「ごめん釉くん。私デートのことで頭がいっぱいで、クリスマスプレゼントを用意してない」
奈霧の視線が床に落ちる。
後ろめたさが垣間見えて、俺は小さく笑う。
「いいよ、俺が奈霧に渡したいだけだから。手袋なんて大して高い物でもないしな」
「手袋?」
「ほら、節約で買い控えてるって言ってただろう?」
「覚えててくれたんだ」
申し訳なさそうな表情が微笑みに上書きされた。
俺は包装を差し出す。白い両手が包装を挟み、艶のある口元が緩む。
「嬉しい、ありがとう。でも私だけもらうのは気が引けるし、お金払うよ」
思わず苦々しく口角を上げる。
「相変わらず頑固だな。じゃあハンドメイドのマフラーくれないか? そこの棚にあるやつ」
奈霧が目をぱちくりさせた。
「いいの? 市場的価値なんて無いも同然なのに」
「俺にとっては価値があるからいいんだよ。今日の俺はマフラーを付けてなかっただろう?」
「うん。寒そうにしてたからずっと不思議に思ってた」
「実は先日コートを新調したんだけど、コートの色に合うマフラーを買い忘れちゃってさ。付けようか迷ったんだけど、結局お洒落の方を取ったんだ」
「なるほどね。じゃあ好きな色を選んでいいよ」
「せっかくだし奈霧が選んでくれないか? そういうの得意だろう」
「分かった。それじゃあね……」
奈霧が棚の前に立って吟味する。
恋人が編んだマフラー。手編みのそれを巻いて帰る自分を想像して、聖誕の日に感謝を捧げた。