第79話 普通と変
奈霧とはよく競争をしていた。
駆けっこ、サッカー、ドッヂボール。気の強い奈霧は男子に混じって競うことも多かった。俺も男子の威信を賭けて勝たんと気を奮い立たせた。威信なんてものが当時の俺にあったかどうかはともかく、負けたくない一心で手足を動かした覚えがある。
返却された答案も競う対象になった。赤ペンで記された数字の大小を比べて、大きかった方が歓喜とともにマウントを取った。
当時は恋愛感情なんて自覚してなかった。勝った時は、胸の内で渦巻くもやもやを吐き出すように高笑いした。負けた時は声を荒げて負け惜しみを口にした。
今となっては良い思い出。
高校生になった俺達は、試験の点数を前にしてどんな反応をするだろう。
「なあ、市ヶ谷は自宅で試験勉強してんの?」
「してない」
「嘘付け」
俺は顔を上げる。
芳樹の半目と目が合った。
「何だその目は」
「嘘付きを見る目だよ」
「知らなかった。君は探偵の資格を取得していたんだな」
「探偵に資格ってあんの?」
「日本は民間資格だけど、アメリカだと本格的な資格が設けられてるらしいな。場合によっては警察と連携して犯人を追うんだとか」
「へえ。じゃあ某探偵が住んでる地域ってアメリカの日本人街なのか」
「凄い発想だな。そんなこと考えたこともなかったぞ」
その想像力を勉強に活かせば、もっと良い点数を取れるだろうに。請希高校に入学したくらいだから地頭は良いんだろうけど、やる気にエンジンを掛けるまでが遅すぎる。
だから俺は自分のために勉強をした。芳樹に頼まれて図書館で勉強を教えたけど、何かとごねるものだから放任スタイルに切り替えた。
試験前三日を切った辺りから芳樹にエンジンが掛かった。
試験で赤点を取れば、補習や再試験が待っている。試験後の自由が奪われることを恐れて、勉強に精を出すようになったのだろう。あるいは匙を投げられることへの怯えに駆り立てられたのか。いずれにせよ、請希高校の放任主義は一定の成果を出している。
靴音が近付き、俺は顔を上げる。
あどけない顔に笑みが浮かんだ。
「やっほー市ヶ谷さん」
「こんにちは金瀬さん。尾形さんに佐田さんも、三人で試験勉強か?」
「うん。良い点数を取らないとお小遣い減らされちゃうから」
「金瀬さんらしいな」
満面の笑みで告げられて思わず苦笑する。
白い頬がぷくーっと丸みを帯びた。
「あーっ! 今絶対失礼なこと考えたでしょ?」
「考えてないよ」
「うそーっ! 言っておくけど、わたしはちゃんとアルバイトしてるんだからね?」
「へえ。何のアルバイトをしてるんだ?」
金瀬さんが手の甲を向ける。
「カフェの店員でしょ? コスプレ喫茶でしょ? ケーキ屋でしょ? 後は――」
「ストップストップ」
尾形さんが指を曲げてのカウントを止めた。
「何で止めるの? わたしは市ヶ谷さんに身の潔白を証明しないといけないのに」
「ここ図書室だぞ? 周りの迷惑になるから声抑えような」
俺は周囲を一瞥する。
当たり前と言うべきか、学年問わず生徒が席を埋めている。何本かの視線が向けられていた。
俺は小さく頭を下げて尾形さんに向き直る。
「場所を変えないか?」
「そうだな。一緒に勉強したら騒がしくしちゃうだろうし、ファミレスにでも行くか」
尾形さんが金瀬さんに横目を振る。
金瀬さんが俺にじとっとした視線を向けた。何故俺を見た? 提案したのは尾形さんなのに。
俺は視線を逃がして芳樹を見る。
「芳樹もそれでいいか?」
「おう」
道具をバッグに詰めて図書館を後にする。
廊下に鳴り響く靴音を聞きながら金瀬さんに歩み寄る。
「金瀬さん、誤解させたなら謝るよ。別に変な疑いを掛けたわけじゃないんだ」
「ほんと? 見損なってたりしない?」
「しないよ。文化祭前に身を挺して庇ったことを忘れたのか?」
金瀬さんにあらぬ疑いが掛かった時に悪役を演じて、クラスメイトから少なからずヘイトを買った。そんな俺が金瀬さんを疑っては本末転倒だ。間抜けなことこの上ない。
「そっか。よかった!」
金瀬さんが表情を綻ばせる。子供っぽい笑みが放課後の廊下を華やがせた。
「市ヶ谷さん一生懸命だよね! わたし達も早めに教室を出たのに、もうノート広げてるんだもん。びっくりしちゃった」
「こいつめっちゃやる気出してるからな」
芳樹が会話に乱入した。金瀬さんの視線が芳樹に移る。
「そうなんだ。試験で一位でも狙ってるの?」
「いいや?」
「嘘だぜ。こいつ絶対自宅でたっぷり勉強してっから。文化祭前も奈霧さんに対抗心燃やしてたし」
「そこまで反応してなかっただろう」
「してたじゃん! 奈霧さんが中間で一位取ったって聞いたら、お前めっちゃ元気になったじゃん!」
「誤解を招くような言い方はやめろ」
確かにちょっと、ほんのちょっとだけ悔しいとは思ったけど、あれは元気になったとは違う。俺はマゾじゃないんだから。
「一つ疑問なんだけど、どうして奈霧さんと一緒に勉強しないの?」
「しないと駄目なのか?」
「駄目じゃないけど、普通一緒に勉強しない? わたしが彼女だったら市ヶ谷さんと勉強したいけどなー」
「こらこらナナ、彼女の不在中にアピールしちゃ駄目だろ」
尾形さんが振り向いて難色を示す。
細い首が傾げられる。
「アピールして何が悪いの? 奈霧さんから許可もらってるよ?」
「それが可笑しいんだよなぁ。ほんと奇妙だよ、市ヶ谷さんと奈霧さんの関係って」
「そうか?」
「そうだよ。どこに彼氏へのアピールを許す彼女がいるんだ」
「奈霧さんがいるじゃん」
「ごめんナナ、ちょっと黙ってて」
幼い顔立ちが風船のように膨らむ。
金瀬さんは引き下がらなかった。変、変じゃない。尾形さんとの問答が始まり、俺の周りが騒がしさを帯びる。
変と言えば変だ。俺もそう思う。
奈霧に負けたくないという気持ちはある。二位より一位だ。誰だってそうだろう。
だけど小学生の俺は周りに興味がなかった。
奈霧とは上級生との喧嘩を通して仲良くなったけど、逆を言えばそれだけだ。ドッヂボールで同じチームになっても、チームメイトの名前なんて数時間もすれば忘れた。テストも興味があったのは自分の点数だけ。奈霧と競うまで、誰が俺より上かなんて気にしたこともなかった。
思い出せない。俺が奈霧としのぎを削るようになったきっかけは、一体何だったのだろう。