第78話 カフェラテとほろ苦さ
レストランで夕食を取り、ルームメイトと浴場に踏み込んで湯浴びを済ませる。
一服してから広い部屋へと足を運んだ。パワーポイントを見ながらスマートフォンの使い方に関する講習を受けた。
一日目のプログラムはこれで終了。
就寝までの二時間は自由時間だ。ルームメイトがトランプで盛り上がる中、俺はぶらりと部屋を後にする。
温かな明かりに照らされた幅広の廊下。校舎の通路を見慣れているから異空間に迷い込んだような錯覚を受ける。
非日常的な光景に冒険気分を刺激されて、独り廊下を踏み鳴らしながら視線を散らす。
こんな施設、宿泊研修が終わったら足を運ぶ機会はない。今日の内に歩き回るつもりで足を前に出し続ける。
自動販売機が視界に入る。
誘惑に負けて歩み寄った。ポーチの口を開けて小銭を用意し、投入後カフェラテの下にあるボタンを押す。
紙コップに液体が流れ落ちる。
満を持して透明な扉がオープンした。香ばしい芳香に鼻腔をくすぐられる。
腕を突っ込んで紙コップを握った。手の平越しの熱を感じながら椅子に腰掛ける。
満を持して温かい液体を口に含んだ。ほろ苦さと甘さのハーモニーで口角が浮き上がる。
「釉くん」
鼓膜に溶けるような声を聞いて視線を振る。
三人の女子が立っていた。内一人は俺の恋人だ。
「散歩か?」
「そんなところ。釉くんも?」
「ああ。宿泊研修が終わったら二度と来ないだろうから、今の内に歩き回っておこうと思ってさ」
「考えることは同じだね」
栗色の瞳が下にずれる。
「良い匂いがするね。カフェオレ飲んでるの?」
「惜しい。カフェラテだ」
「何が違うんだっけ?」
「コーヒーの抽出方法が違うんだ。カフェラテはエスプレッソで、カフェオレの方はドリップコーヒーを使うんだよ」
「カフェインが入ってそうだね。夜眠れるの?」
「どうせすぐには寝れないだろうし、大して影響ないだろう」
「それもそっか。私も何か飲もうかな……実花と律はどうする?」
「私は……」
でこ出しヘアーの女子が発しかけた時、隣の女子が肘で軽く突いた。
二つの顔が顔を見合わせてにっと笑む。
「奈霧さん。私達用事思い出したから先に戻ってるねー」
「ゆっくりしてきてー」
二人がひらひら手を振って背を向けた。そのまま廊下の曲がり角に消える。
「良い人達だな」
「うん。今日知り合ったんだけど話しやすい二人なの」
「友人を選ぶ奈霧がそう言うならよほど気が合うんだな」
「釉くんに言われたくないけどね。一人でいるのも、どうせ部屋に居場所がなかったからなんでしょう?」
「ご名答」
俺は苦々しく口角を上げる。
ああいう多人数でのゲームにはたしなみがないし、ルールを調べながらやるとテンポが悪くなる。
ルームメイトは快く受け入れるだろうけど、罪悪感を覚えながらプレイしても俺が面白くない。参加したところで誰も得をしないんだ。
奈霧が自動販売機の前に立って飲み物を吟味する。繊細な指の先端がボタンをプッシュし、電子的な音がロビーの空気を伝播する。
機械的な音が鳴った。奈霧が紙コップを手に戻って隣のチェアに腰を下ろす。
「何にしたんだ?」
「カプチーノ。泡が美味しそうだったから」
「分かる」
実際はただの泡だから中身なんてないけど。
無粋なその言葉を呑み込む内に、桃色のくちびるが紙コップの縁に触れる。
整った顔立ちが綻んだ。
「夜中のカフェインって美味しいね」
「誤解が生じそうな言い方だな」
くすっとした笑い声が鼓膜を震わせた。
「ちょっと狙ったからねー。眠れなくなるから避けてきたけど、背徳的な味もたまには良いかも」
「随分と可愛い背徳だな」
「あ、小ばかにしたね」
「してないよ。育ちが良いなと思ってさ」
奈霧が頬を小さく膨らませる。不満げだけど、両手で紙コップを握っているせいか子供っぽく見えて迫力に欠ける。
もう少し眺めていたいけどせっかくの二人きりだ。ずっとむくれられても困る。
俺は話題を探して、一つ浮かんだものを言葉にする。
「奈霧は浅田先生を知ってるか?」
「知ってるよ。教育に一生懸命な人だった人だよね」
俺は目をぱちくりさせる。
「えっと、それはどこの浅田さんの話だ?」
「どこって、釉くんのクラスの担任でしょ?」
「あの浅田先生だよな」
「うん」
「ちょび髭で、いつもだるそうで、面倒くさいからクラスメイトに乗っかって俺に恥をかかせたあの浅田先生だよな?」
「釉くんは浅田先生に何か恨みでもあるの?」
おっと、私情が混じった。
俺が告白に踏み切れたのは、ある意味では浅田先生が怠け者だったからとも言える。あまり悪く言わないようにしないと。
「ちょっと信じられなくてさ。奈霧が知ってることを教えてくれないか?」
「いいよ。ソースは生徒指導の編草先生。浅田先生と同期で、十五年ほど前はライバルとして切磋琢磨してたみたい」
「生徒指導か」
放送室を占拠した際に、俺に呼びかけた先生を思い出す。
インパクトの強い光景だったろうに、冷静に耳を傾けてくれた。あの人と競っていたというのか。あの浅田が。
しかし興味深い話だ。
教師として請希高校に来た時は真面目で、十五年ほど前からスタンスを変えた。時期は萩原さんが物心つく前と一致する。
浅田先生の言葉、萩原さんの発言。
そして奈霧の証言。それらを組み合わせると一つの推論が立てられる。先生に似つかわしくない『殺した』発言も、俺の経験と照らし合わせればその意図が見えてくる。
「あ、噂をすれば浅田先生だ」
奈霧のつぶやきに引かれて視線を振る。
床を踏み鳴らすのは二つの人影。浅田先生と萩原さんだ。二人とも大きな柱の近くに位置取り、真面目な表情で口を開く。
声量を抑えているのだろう。二人が何を話しているのかまでは聞き取れない。でも尻込みしていた萩原さんが二人きりで話しているんだ。会話の内容を察するのは難しくない。
物陰でじっと見つめていると、萩原さんの表情がふっと明るみを増した。浅田先生の口元も微かに緩む。
萩原さんが身をひるがえして廊下に消えた。浅田先生が頭の後ろをぽりぽりと掻き、苦々しく口角を上げて元来た通路をたどる。
こじれたって感じじゃない。むしろ一種の朗らかな雰囲気さえ感じられる。彼らは彼らで過去に折り合いを付けたのだろう。
父親との和解。クラスメイトとして喜ぶべきことのはずなのに、心にはしこりが感じられる。
俺には関係のないことだ。仲良くできる人達は仲良くすればいい。それを邪魔するつもりはないし、周りには笑顔があった方が良いに決まっている。
だけど、もし。
俺の父が目の前に現れたら、俺は父を赦せるのだろうか。
「何を話してたんだろうね」
「さあ?」
恋人相手でも迂闊に話せることじゃない。俺は紙コップの縁を口に付けて傾ける。
口内に雪崩れ込んだ液体は何ともほろ苦い。