第75話 健全な男子
窓の外に見える景色が止まった。慣性が尽きて炭酸の抜けた音がする。
クラスメイトがぞろぞろと腰を上げて外へ向かう。同年代の背中を追いかけてコンクリートの地面を踏み締める。整列して点呼が取られ、制服の流れに乗って昇降口に雪崩れ込む。
研修センター内では、下履きで建物内部を歩くことは禁止されている。外履きを持参の袋に収め、持参した青緑のスニーカーに足を挿し入れる。
内履きの裏で廊下の床を踏み鳴らす。
浅田先生が踏み込んだ部屋には、細長いテーブルがずらっと並んでいた。縦長の人影が先着順に奧から座るさまは、カートリッジに詰められる弾薬を思わせる。
しおりに記された予定では、この場所でオリエンテーションが行われる。研修センター内でのルールを叩き込まれるのだろう。
「あーあーマイクテス、マイクテス、フフンフーン」
生徒が談笑で室内を賑わせる中、研修センターの責任者がマイクテストを行う。
笑い声を上げる同級生を尻目に、俺は一人思考にふける。
このオリエンテーションが終われば、大して親しくないクラスメイトと同じ部屋に押し込められる。充実した時間になるか、空虚な時間になるかは俺次第だ。
マイク越しに声が張り上げられる。マイクテスおじさんによる説明会が始まった。
◇
芳樹と別れて廊下を突き進む。
宿泊する部屋は、事前にしおりで割り振られている。メンバーは全員親しくないクラスメイト。自然と気が引き締まる。
「……ここか」
しおりを片手に、ドアに貼られた紙を見る。しおりに記載された番号と、紙に記された数字を再度照らし合わせる。
俺はドアノブに腕を伸ばす。
室内と廊下を隔てる板の向こうには、しばらくの間共に過ごすクラスメイトが待っている。
ここからは未知の領域だ。ちゃんと挨拶できるのか、微笑を崩さず接することができるのか。もし緊張して無言のままやり過ごせば、気まずい研修期間の幕開けとなる。
固唾を呑み、ドアノブをひねって開け放つ。
踏み込むなり五つの視線に歓迎された。
「お、愛故にじゃん」
早速表情が強張りかけた。玩具でも見つけたような視線を向けられる。
「やめろって。本人は嫌がってるらしいから」
ルームメイトの一人がフォローに入った。愛を口にした男子が目を丸くする。
「あれ、市ヶ谷嫌がってんの?」
「俺はそう聞いてる。市ヶ谷さんはどう思ってるんだ?」
うかがうような視線が殺到する。
正直なところ、人前でなければ気にならないくらいには慣れた。それに俺が異名を疎んでいた理由は、耳にするとどうしても奈霧の存在がちらついたからだ。仲良くしたくてもその資格がない、そんな現実を突き付けられて苦しかったからだ。
俺はもう奈霧と和解している。そこから一歩踏み出して恋仲になった。現状異名を疎む理由は恥ずかしい以外にない。
そう、つまり恥ずかしいのだ。故に俺の返答は一つ。
「いい気分はしない。今後控えてくれると助かる」
「だとさ」
「分かった。悪い、つい調子に乗った」
「いいよ。今後気を付けてくれれば」
俺は畳を踏み締めて部屋の隅に荷物を置く。
フォローしてくれた男子が歩み寄る。
「文化祭の時はごめんな。親父が調子ぶっこいたせいで迷惑掛けちまった」
「親父?」
誰のことだ?
俺が目をぱちくりさせると、少年が苦笑する。
「そりゃ分かるわけないか。じゃ初めまして、僕は萩原俊也。旧姓は浅田だ」
「浅田って、え?」
心当たりがある。思わせぶりに旧姓を口にしたのだから無関係ではないだろう。
「もしかして、担任の?」
「そ。今は離婚してるから他人だけど、元々は俺の親父」
そんな重い話を前触れもなく持ち出されたら、俺はどう言葉を返せばいいんだ。
くすっと笑い声が上がる。
「悪い悪い、急にこんな話されても困るよな。とっくに終わった話だ、気にしちゃいないから安心してくれ」
「そうか、それなら良かった」
俺はほっと胸を撫で下ろす。離婚した父親が教師なんて、萩原さんに掛かるストレスは想像するに余りある。
今まで萩原さんは、他の生徒には想像もできない生活を送ってきたのだろう。子供ながらに色んなことを考えて、色んなことを我慢してきたに違いない。揶揄われる俺に助け舟を出したのも、そういった境遇から生まれた高い精神年齢故か。
安堵したら喉の渇きを覚えた。旅行バッグのファスナーを空けてペットボトルを取り出す。
萩原さんがぐいっと顔を近付ける。
「ところでさ、バスの中での話本当?」
「話?」
クラスメイトの顔を尻目に、ペットボトルの蓋を開けて水を口に含む。
「奈霧さんの写真を家宝にしてるって話」
噴き出した。
むせた。飲み下す水が気管に入って肺の収縮を誘発する。
前言撤回。
萩原さんはやはり健全な男子だった。