第74話 寝顔と笑顔
教室で芳樹と挨拶を交わし、自分の机に荷物の重みを預ける。宿泊研修のしおりを開いて文字列に視線を走らせる。
文章を見て内容を脳に叩き込む。
やることは教科書を握る時と同じなのに、不思議と苦にならない。遊戯をたしなむ感覚でスラスラと読める。
クラスメイトが次々と椅子に腰を下ろす。
ドアが開いた。担任こと浅田先生が教壇を踏み鳴らす。事務的にショートホームルームを終えて、生徒と一緒に教室内を賑わせる。
俺は再び宿泊研修のしおりを開く。
「研修のしおりそんなに面白いか?」
顔を上げると芳樹が近くに立っていた。
「面白くはないけど、何となく視線が向くんだ」
「分かるぜそれ。読むの楽しくなっちまうよな」
「芳樹は宿泊研修って言ったことあるか?」
「あるぜ。中学の頃に千葉に行ったからな。夕食に食ったなめろう美味かったなぁ」
「アジやイワシにネギ合わせたやつだっけ?」
「そそ。しょうがとか交えて包丁で叩いたやつな」
味噌と薬味に彩られた瑞々しい青魚。想像して意図せず喉が鳴る。普段口にする機会のない食事にあり付けるのもお出掛けの醍醐味だ。
研修では何が出るんだろう。今から夕食が待ち遠しい。
「勉強の方は具体的に何をしたんだ?」
「ちょっとしたゲームっぽいやつだな。詳しくは忘れた」
「忘れるなよ。研修の意味がないだろう」
「いいじゃん楽しければ。楽しかったことだけ覚えてりゃ行った意味あったってもんだろ?」
「研修だぞ? 文化祭とは訳が違うんだ」
「固いこと言うなってー」
談笑するうちに号令が掛かった。廊下に整列して昇降口へと足を進める。
外履きに履き替えて日の下に出る。
校門の外でバスが待機していた。三組と記された札を見つけて大きな車体に歩み寄り、トランクルームの隅にバッグを押しやる。
ポーチだけ持って入り口に踏み入り、車内へ続く階段に足を掛ける。
バスの中は自由席。俺はがらんとした空間を突き進んで奧の席に腰を下ろす。隣には芳樹が位置取った。
「バスに乗ると特別感あるよな。何かこう、これから宝探しに行くみたいな」
「例えが子供だな。言いたいことは分かるけど」
非日常的な匂いとでも言うのか、自宅や校舎では味わえない雰囲気が冒険心を刺激する。童心に帰った気分という表現が適しているかもしれない。
担任によって点呼が取られる。
慣性が掛かって車体が揺れる。背中が背もたれに押し付けられ、窓の向こう側に見える景色が後ろへ流れる。
バスガイドの話に夢中になったのも数分。ぬーっと睡魔がやってきた。バスが進むにつれてまぶたの重さが増す。揺れる車体が揺りかごのようだ。座席の包み込むような柔らかさが睡魔をさらに増長させる。
「眠いの?」
「ああ。中々寝付けなくてな」
「楽しみで寝付けなかったってか? 市ヶ谷も大概子供じゃん」
「子供だからな」
「そうか。坊や、よい子はねんねしな」
「ああ……」
まぶたを閉じる。意識が溶けるような心地良さに呑み込まれた。
どれだけの時間そうしていたのか、ふと目が覚めた。体が揺れて視界もぶれる。
まだバスは走っていた。瞬きを繰り返してぼんやりした頭を起こす。
「お、起きたか」
「おはよう」
「おはようって時間帯じゃないぞ」
「おそよう」
芳樹の手元に視線を落とす。
ゴツゴツした手に長方形の携帯端末が握られている。ソシャゲでもしていたのか? 芳樹なら他の友人と談笑しそうなものなのに。もしや俺の体が邪魔で話せなかったのだろうか。
「俺邪魔だったか?」
「いいや? むしろいい感じに寝てくれてたから撮りやすかったぜ」
「撮るって、何を?」
「見せた方が早いか。ほれ」
芳樹がスマートフォンを傾ける。画面には目を閉じた少年が写っている。
というか、俺だ。
「何で撮ってんの? 消せ」
「分かった」
意外とすんなり了承してくれた。わざわざ画面を見せたまま写真が削除される。
「市ヶ谷って自分の写真恥じる?」
「恥じる」
「何で?」
「恥ずかしいからだよ」
「恥ずかしがることねえじゃん。結構好評だぞ?」
「誰に?」
「奈霧さんに。ほれ」
芳樹がコミュニケーションアプリを起動する。奈霧とのやり取りが表示された。連ねられた文の中には、先程目にした写真が貼り付けられている。
一瞬脳がフリーズした。
「な?」
「な、じゃない。何してんの?」
「何だ、嫉妬か? 安心しろって。ほら、奈霧さんとの仲直りに協力した時あったろ? あの時に連絡先交換したんだよ」
「ああ、そういう……そっちじゃない! 俺は誤魔化されないからな」
「誤魔化してなんかねーって。奈霧さんとは本当に何もないっつーの」
「そっちでもない。何で俺の寝顔を送ったんだ? 言え」
「いやーよく見たら中々可愛かったからさ、奈霧さんにも見せてえなぁと思ったんだよ。ほら、ここ見ろ。可愛いねだって」
頬の火照りを感じて顔を逸らす。
けなされるよりは良いけど素直に喜べない。奈霧の寝顔も送ってくれないと不公平だ。芳樹のはいらない。
「不服そうだな」
「不服だよ。俺だけ送るなんて不公平だ」
「ほう、確かにそうだな。じゃそう伝えとく」
「ああ……は?」
バッと振り向く。
芳樹が画面をタップして文字を入力していた。画面を覗き込んだ瞬間に送信ボタンが押される。
目の前でサムズアップがかざされた。
「送っといたぜ!」
「送っといたぜじゃない! 何してんだよ!」
ぼんやりしてた頭がぎゅわっと覚醒した。大きな肩をがっしりつかんで前後に揺さぶる。
芳樹が送った文面。まるで俺が奈霧の写真を欲しているみたいな書き方だ。恋人は嘘だと見破ってくれるだろうか。
そうだ。俺の方で誤解を解けばいいじゃないか。
ポーチの口を開ける。スマートフォンを取り出していざ打たんとした時、がっしりとした手に手首を握られる。
「まあ待てって」
「待てん」
「お前奈霧の写真持ってんの?」
「……持ってない」
持ってる。小学生の頃の奈霧なら写った写真がある。でもそれを芳樹に教える義理はない。どうせ尾形さん達みたいに見たがるに決まってる。
「持ってないなら丁度いいじゃん。感謝しろよ」
「何でだよ。そもそも肖像権知ってるのか?」
「知ってる。だから普段は撮らないんだ。今んとこ俺が撮ったのはお前だけだぜ?」
ウインクされた。
「全く嬉しくない!」
張り上げられた声が口を突いた。
芳樹が愉快気に吹き出す。癪だから脇腹に手刀を突き入れてやった。芳樹がくの字に身を曲げて逃げる。
俺のスマートフォンがバイブレーションを鳴らした。奈霧からのチャットだ。
内容を確認すると一枚の写真が載っている。恋人が腕を軽く掲げて、携帯端末を仰ぐ形で写った写真。
写っているのは寝顔じゃなくて笑顔。角度か、光の加減か。視線が恋人の笑みにすーっと引き寄せられる。
「お、いい写真じゃん。良かったなー」
気が付けば画面を覗かれていた。
祝福の言葉とは裏腹に、芳樹が不満げに目を細めている。
「何で不満そうなんだ?」
「いやぁ、お前は毎日近くでこんな笑顔見てるんだなーと思ったらさ、ぎゅわっと来たんだよ」
「自分から差し向けておいて何を言ってるんだ」
「分かってるけどやっぱ悔しいんだよ。あー彼女欲し―」
「なら合コン頑張れ」
「あ、超上から目線。久しぶりにイラッと来ちまったぜ」
「ならどうする」
「決まってる」
来るか。俺はそっと身構える。
芳樹が座席の上で膝立ちした。
「あー! 市ヶ谷が奈霧さんの写真ガン見してるーっ!」
「なっ⁉ おまっ⁉」
俺は慌てて芳樹の口を塞ぐ。
時すでに遅くクラスメイトが反応した。
俺は証拠隠滅すべく液晶画面をタップする。『削除する』の文字に触れる直前で、宙に縫い留められたように指が止まる。
写真を消せば証拠は残らない。クラスメイトからの追及を素知らぬ顔でやり過ごせる。芳樹は絡むだろうけど俺がすっ呆ければそれで終わりだ。
しかしこの写真、実によく撮れている。削除したことがばれたら、奈霧はもう写真を送ってくれないかもしれない。
一時のプライドを取るか、観賞用として保管するか。
俺はスマートフォンの電源を消してポーチに突っ込む。
到着までクラスメイトの玩具にされる道を選んだ。