第73話 変わらないもの
宿泊研修に参加することになった。
一泊二日。ペンを握っての勉強から離れて、属性の違う勉強をする。学ぶことに変わりはないけど、クラスメイトは勉学から解放されるとはしゃいでいた。
同学年と学校行事で出掛ける。俺が長らく経験してこなかったことだ。
待ち受けるのは小学生以来のイベント。遠足を待つ子供の気分なんて覚えてないけど、楽しみを待つ気持ちは分かる。出発前日にはそわそわして中々寝付けなかった。忘れ物がないか不安になって、時々体を起こしてバッグの中身を確認した。
当たり前と言うべきか、俺はぼんやりした頭で起床する羽目になった。身支度を済ませてマンションを後にする。ずしりと肩にのしかかるバッグの重みが感慨深い。
校舎が近付くにつれて、視界内に制服姿がちらつく。平日は毎日目にしたカバンに混じって、大きな荷物を持つ人影が点在する。俺と同じ一年生の生徒だろう。
宿泊研修をするのは一年生のみ。二、三年生はいつも通りの校舎を歩む。学年が一目で分かるのは新鮮な光景だ。
「市ヶ谷さーん!」
「おはようっ!」
振り返った先には二つの人影があった。大人びた少女が軽く腕を振り、小さい方が右腕をぶんぶん振る。
「おはようございます。菅田先輩、波杉先輩。今日も元気そうで何よりです」
「そういう君は眠そうだね」
「さては夜更かししたなボーイ?」
「まあ、はい」
してないけど、今日を楽しみにしたせいで寝不足になった、なんて言ったら絶対笑われる。ここは誤魔化す一択だ。
「だめだぞー? いくら今日を楽しみにしてたって、ぼんやりした頭じゃ楽しめないんだから」
嘘を付いた甲斐がなかった。
「誰も楽しみで寝不足になったとは言ってませんよ?」
「嘘だー絶対楽しみで寝付けなかった口でしょ」
「違いますって。何でそう決めつけるんですか?」
「私がそうだったから」
「……あー」
俺はどう反応すればいいんだ。喜べばいいのか? 一緒にするなと怒ればいいのか? 返答に困る発言は控えてほしいものだ。
「懐かしいなぁ。真樹ってば、バスの中で爆睡してたねぇ」
「ちょっと双葉、言わないでよぉ。私にも先輩の威厳ってものがあるんだからー」
「菅田先輩に、威厳?」
俺は思わず眉をひそめる。
菅田先輩が目を丸くした。
「おーい何だその反応! 無礼だぞ、敬いたまえ後輩!」
「少し前までは素直に敬ってたんですけどね。最近先輩方を子供っぽく感じる機会が増えたと言いますか」
「わたしにも飛び火したっ!? それにしてもこの落ち着きよう、ボーイに何があったの言うのだ」
「決まってる。パートナーを持つ者の余裕ってやつよ……!」
先輩方がごくりと喉を鳴らす。いかにも重要なことを話していそうな雰囲気が醸し出され、周囲からちらほら視線が集まる。
この漫才じみたやり取りも久しぶりに見た気がする。俺に気を遣って、奈霧と二人きりになる時間を作ってくれてたとか?
考えすぎか。
「ところで最近奈霧さんとはどうなの?」
「順調ですよ」
「そうじゃなくて、進展具合だよ」
「へえ意外。真樹でも気にするんだねぇ」
「そりゃあね、私もうら若き乙女ですし。双葉にはまだ早いかもしれないけど」
「なぬっ!? 同い年のレディに向かってなんてことを!」
「そうだったんですか?」
すかさず菅田先輩のノリに乗った。
幼い顔立ちが驚愕に染まる。
「市ヶ谷さんまで! はっ! もしやこれが、二次界隈を賑わせたというカリスマブレイクというやつ!?」
「違うよ?」
真樹先輩の方が早かった。大真面目なツッコミを前に、俺は小さく吹き出す。
波杉先輩が両の拳を握り締める。
「笑われたっ!? おのれ。この笑われた恨み、晴らさでおくべきか」
「怒った?」
「怒った。必ずや邪知暴虐の蒙昧を叱らねばならぬと決意した」
「メロスパロるのやめてください」
波杉先輩がウインクしてピンクの舌を出す。
メラメラとした雰囲気が一瞬の内に霧散した。
「まあ冗談はさておき、せっかくの宿泊研修だもんね。二日間楽しんできたまえ」
「忘れ物はない?」
「はい。何度も確認しましたから」
「何度もチェックしたんだ?」
「失言でした。忘れてください」
「いいや忘れぬ。必ずや墓場まで持って行く」
墓場まで持って行くならいいか。誰にも話さないってことだし。
菅田先輩が目を丸くする。
「あれ、そういえば双葉日直じゃなかったっけ?」
「あ、そうだったやっべ! わたしもう行くね!」
「はい。転ばないように気を付けてください」
波杉先輩が身を翻して走る。
小さな背中が遠ざかる中、波杉先輩もカバンを脇に抱える。
「私も行くよ。お泊りだからって、奈霧さんに変なことしちゃ駄目だからね?」
「しませんよそんなこと。そもそも別の部屋ですし」
「なら安心だ」
んじゃねーと声を残して、大人びた方の先輩もハイペースで靴音を鳴らす。
恋人ができても変わらない絆を実感して、俺は口角を上げて踏み出す。