第70話 嫌がらせ
奈霧に続かなければ。意気込んで体育館の床を踏み締める。女子バレーの決勝戦に負けず劣らず、コートの周りには人が集まっていた。
俺は選手としてコート内に靴裏を付け、肩をほぐして体の具合を調整する。
緊張ばかりは如何ともしがたい。左胸の奧がバクバク言っている。適度な緊張は良いものとされるけど不快なものは不快。どうにかして解消したいところだ。
「気合入ってんな市ヶ谷」
芳樹が口端を上げる。揶揄いの意図は見られない。大事な試合前だし、そういったことをするタイプでもないのは分かっている。
でもこれを待っていた。俺はすかさず口を開く。
「応援に来るからな。彼女が」
相手を見ずに伸脚。すかした風を装う。
案の定芳樹が目を丸くした。
「倒置法! 砂山、岩倉! こいつ彼女持ちだからって自慢しやがった! 倒置法で!」
「なにーっ!」
「小学生時代のいちゃいちゃをひけらかすだけじゃ足りないってか⁉」
「だからいちゃいちゃしてないって!」
抗議の声が封殺されてめっためたにされる。
実行委員からの声が掛かって解放された。乱れた服装を元に戻して整列する。正面に立つのはバスケ部員の多い四組。すでに勝利を確信しているのか、表情には余裕の笑みが浮かんでいる。
優勝候補ということで注目していたが、このチームにおいては注意すべき点がもう一つある。
「やあ市ヶ谷さん。久しぶり」
一見好青年に見える男子が微笑を湛える。
最近顔を合わせる機会がなかったけど忘れもしない。早乙女さんに嫌がらせをして、未遂ながらも奈霧を襲おうとした同級生だ。
「元気そうだな、風間さん」
「おかげさまでね。一時期は玉が無くなりそうな思いをしたけど、今じゃすっかり元通りさ」
「それは良かったな。息子のためにも心を入れ替えてやれ」
知り合いの眉根が寄った。皮肉の応酬を前に、芳樹が目をぱちくりさせる。
風間さんがやったことは本来許されないことだけど、俺達では風間さんを追い詰めるには至れなかった。半端な罰と報復のリスクを天秤に掛けて、早乙女さんと話し合った結果野放しすることを選んだ。
風間さんは風間さんで、俺達にしてやられた形だ。快く思われてはいないのは自覚している。
一方で風間さんと佐郷には明確な違いがある。まだ失う物がある上に、この場は大勢が取り囲んでいる。下手なことはできないはずだ。
皮肉は程々に、実行委員の声掛けに従って一礼する。各自ポジションに付いたのを機にブザーが鳴り響いた。
俺達のチームは芳樹を主体にして動く。パスを集めて芳樹に決めてもらう、相手チームが弱い時はその戦い方で十分だった。
今回はそうもいかない。相手チームにはバスケ部の部員が三人いる。二人芳樹がいるようなものだ。俺や他の三人がどれだけ相手の気を逸らせるか。勝敗はそこに掛かってくる。
そう踏んでいたが、最初の二点はあっさりともぎ取れた。
二点にとどまらない。その後も芳樹のレイアップシュートで点差が開く。
……何だろう。
言葉にできない違和感がある。バスケ部の活動を見学した時には、部員全員がキビキビした動きをしていた。芳樹一人にこのザマでは、声を張り上げていた指導員に頭を引っ叩かれてもおかしくない。
やる気がないわけではないだろう。現に相手チームからは確かな気迫を感じる。決勝戦まで残ったからには、優勝を目指す意思はあるはずだ。
「難しい顔してるな。どうせまた小賢しいこと考えてんだろ」
思考を中断して振り向く。
腕を伸ばせば届く距離に風間さんが立っていた。
「今度は何を企んでいるんだ?」
「何も? こんな衆目の中で堂々と仕掛けるわけないじゃん」
「堂々とか」
「疑り深いなぁ。まあ警戒に越したことはないかもね。愛故にとか市ヶ谷の女だとか、君達結構良い思いしてるみたいだし」
否定の言葉が口を突きかけて、俺は口元を引き締める。せっかく風間さんが言葉を吐き出しているんだ。企みを知るためには一言でも多く喋らせた方がいい。
「あれ、否定しないんだ? こういう話の振り方すると、いつも否定してた気がするんだけど」
「その方が好都合だったか?」
「いいや? むしろ最高にイラッと来たよ」
風間さんが走る。
俺の方が一足早かった。弾かれたボールのバウンドを処理して相手ゴールを目指す。
足に何かが引っ掛かった。床が近付き、慌ててもう片方の足を出す。
転倒は免れた。
代償にボールが床を転がった。風間さんが拾い上げてゴールへと向かう。味方は俺の動きを見て前に出ていた。守備が間に合わずに俺達のゴールネットが揺れる。
嘲笑が空気を震わせる。
「おいおい、あの程度の接触でよろけるなよ。ちゃんと赤身食ってんのか?」
「やめてやれよ。食ってるわけねえじゃん」
「毎日ホイップクリームみたいに甘々な日々送ってんだろうしなぁ」
いっそ清々しいほどの悪意だ。先程のバウンドボールはわざと俺の方向に転がしたのだろう。体の接触なんてバスケでは日常茶飯事。足掛け程度なら悪意が無くても起こる。観客からすれば不幸な事故だ。
「どんまい!」
芳樹が歩み寄ってきた。風間さんグループが背を向けて距離を取る。
俺は一息突いて、胸の底のメラメラを沈める。
「芳樹、あの三人知ってるか?」
「ああ。同じバスケ部の部員だからな」
「あいつらが俺を疎ましく思う理由に心当たりはあるか?」
「そんな理由に心当たりなんて……あるな」
「詳しく」
「プライベートなことだしなぁ……まあ市ヶ谷なら大丈夫か。誰も言うなよ? あいつら惚れてたんだよ」
「俺に?」
「ばーか、奈霧さんにだよ」
「なるほど。納得した」
早乙女さんの件で風間さんがボロを出したのも、傷心と思われた奈霧相手にポイント稼ぎを考えたからだ。痴情のもつれによる恨みなら信ぴょう性はある。
俺達の関係が全員に祝福されるとは思っていなかった。奈霧は人気者だし、恋慕を向ける男子が多いことも知っていた。嫉妬による嫌がらせを覚悟していたくらいだ。
だけどこうして直接ぶつけられると、中々心に来るものがある。
「市ヶ谷、何かあったのか?」
「いいや。次はこけないようにしようと思っただけだ」
「そうだな。次はしっかり頼むぜ」
芳樹が肩を軽く叩く。微笑を残して歩き去った。