第59話 奈霧の父
「しっぺちゃん可愛かったぁーっ!」
奈霧が晴れやかに笑む。桜色の間から覗かせる歯の白さが何とも眩しい。
伏倉さんとしっぺの尻尾を見送り、俺達は再び通学路を逆行した。もふもふしてからの奈霧はにこにこしっぱなしだ。
「ああ、確かに可愛かったな」
特に、ぎゅ~~っと言いながらしっぺを抱き締めていた奈霧が。
正直後悔している。こんな気持ちになるなら、怒られるのを覚悟で写真を撮っておくんだった。
伏倉さんとは連絡先を交換した。またしっぺの散歩中に遭遇する機会もあるだろう。その時にでも実行するとしよう。
「思いの外トラウマを克服するの早かったな。まさか抱き締めるところまで行くとは思わなかったよ」
「可愛いは正義ってことだね」
むふん、と奈霧が得意げに口角を上げる。誇らしげにする理由は分からないけど、機嫌が良さそうだから黙っておこう。
「凄く大胆に撫でてたけど、ずっと犬を撫でたかったのか?」
「うん。登下校の際に尻尾を振ってたり、SNSで見る機会もあったからね。私も撫でてみたいなって思ってたんだ」
「SNSはともかく、実物を見た時は怖くなかったのか?」
「距離があれば大丈夫だったんだよ。さっきもそうだったでしょ?」
数分前の光景が脳裏をよぎる。
伏倉さんと話をする時、奈霧は不自然に距離を取っていた。離れてはいるけど安全を確保できる距離じゃない。
「数メートルしか離れてなかったじゃないか。犬なら秒と掛からず詰められる距離だぞ?」
「でも釉くんがいた。もしもの時は守ってくれたでしょ?」
ね? と奈霧が微笑む。悪戯っぽい上目遣いが胸の奥をくすぐった。頼られたことの歓喜と、笑顔を引き寄せたい衝動が泉のごとく湧き上がる。
ああ、今なら数分前の奈霧の気持ちがよく分かる。
「奈霧」
湧き上がった気持ちに身を任せて腕を伸ばす。
「ひゃっ」
華奢な体がぴくっと跳ねた。甘い芳香と柔らかな感触。腕から伝わる温かみが何とも愛おしい。
「い、いきなりだね」
「ちょっと抱き締めたくなった」
「いいよ。今なら知り合いはいないし、少しだけなら」
小さな頭が俺の胸に重みを預ける。
文化祭最終日に口付けを交わしてから、恋人らしい触れ合いは特にしてこなかった。久しぶりに接触で心臓がバクバクしているのに、心は驚くほど平穏だ。
ずっとこうしていたい。
そんな思考をクラクションが吹き散らした。互いにぴょんと跳ねて距離を取り、音がした方に視線を向ける。
タクシーだ。片方のウインカーが一定間隔で光を放ち、黒い車体が道路の隅に停まる。
後部座席のドアが開いた。すっと突き出た革靴が地面を踏み鳴らす。
直立したのはスーツ姿の男性。年は三十から四十の間くらいだろうか。中年と言えば髭が口元を黒く染めるイメージがあるけど、姿勢よく立つ男性にそういったものは見られない。清潔感のある雰囲気が、できる男感を醸し出している。
「お父さん」
「え?」
呟いた奈霧に視線を振る。
靴音が近付いて、俺は改めて背筋を伸ばす。先程までのほわほわした雰囲気は欠片もない。緊迫した空気に締め付けられて、別の意味で左胸の奧が騒々しさを増す。
俺より高い背丈が立ち止まった。視線を隣にずらして微笑を浮かべる。
「やあ有紀羽。今帰りかい?」
「うん。下校途中だけど、お父さんはどうしてここにいるの? こんな時間にこの道を走っているなんて珍しいね」
「少し早く上がったんだ。今日は外食の予定だろう? 遅れては悪いと思ってね。ところで君は?」
二つの瞳に捉われる。気のせいだろうか、妙にプレッシャーを感じる。
焦燥に突き動かされて口を開く。
「初めまして、奈霧さんと同じ請希高校に通っています、一年の市ヶ谷です」
告げるべき最低限のことは言えた。声は震えなかったし、自己紹介としては限りなく完璧に近いはずだ。
「丁寧にどうも。有紀羽の父の勲です。自己紹介には含まれてなかったけど、君は有紀羽の友人ってことでいいのかな?」
変な声が出そうになった。
ここで友人ですと発するのは簡単だ。俺がすっ呆ければ、たぶん奈霧は乗ってくれる。比較的平穏にこの場を切り抜けられるだろう。
だけど俺個人としては逃げたくない。固唾を呑んで言葉を紡ぐ。
「文化祭前までは友人でした。今は奈霧さんとお付き合いさせていただいております」
誤魔化すことなく全てを吐いた。
激高されたらどうしよう。相手は奈霧の父親だし、応戦するのはまずい。身を翻して全力で逃げようか。でもそれはそれで奈霧に格好が付かないし……。
「ああ、知っているとも」
「え?」
素っ頓狂な声が口を突いた。
勲さんが苦々しく笑む。
「そう可笑しな話じゃないだろう? 私にだって仕事以外の繋がりはある。有紀羽から話も聞いているからね」
「は、はぁ」
どういうことだ? もしかして俺、試されてたのか?
危なかった。友人と誤魔化してたら何を言うつもりだったんだろう。想像して背筋がぞくっとする。
父親って怖い、怖いなぁ。
「市ヶ谷さんは夕食を摂ったかい?」
「いえ、これからです」
「それは丁度いい。有紀羽とファミレスに行く予定なんだが、一緒にどうだい?」
「え、俺がですか?」
「他に誰がいるんだい?」
反射的に問い返したことを後悔する。この流れで断ろうものなら、俺が奈霧父から逃げた形になる。そんなの印象が悪いし、娘の交際相手として相応しくないと思われても可笑しくない。
逃げられない。
「君の自宅はここから近いのか?」
「はい。十分と掛かりません」
「それならまたここに集まろう。準備があるだろうし、一時間後でどうかな?」
どうって、俺はまだ行くとは言っていないし、正直言えば激しく行きたくない。
でも下手に断って心証を損ねたくない。奈霧と話す時間も確保できる。
メリットとデメリット。天秤がぐらついて前者に傾いた。
「分かりました。一時間後にここですね」
「いいの?」
「ああ。用事は特にないしな」
「決まりだね。それじゃ私はこれで失礼するよ。有紀羽はどうする? 乗っていくかい?」
「ん~~」
奈霧が俺を一瞥する。俺一人置いて行くことを後ろめたく思っているに違いない。
俺はこくっと頷く。奈霧が了承の言葉を返して、駆け足でタクシーへと向かう。
小さくなる背中から視線を外した先で、奈霧父と目が合った。
「急な誘いに乗ってくれてありがとう。では一時間後に迎えに来るよ。高い所に行く予定はないから、身なりは私服で構わない」
では。言い残して頭一つ高い背丈が後部座席に消える。車道に戻る車体を見送り、俺はほっと息を突いた。