第58話 奈霧とわんこ
夕焼けで照らされた道に靴跡を刻む。
何度も奈霧と歩んだ通学路。あの時は友人として肩を並べたけど、今隣を歩くのは恋人だ。二人きりで涼しい外気を突っ切っていると、どこかこそばゆい気持ちになる。
「全く、あれがなければ良い先輩方なのに」
恋人の方はちょっとむくれていた。校門前で揶揄われたことを引きずっているのだろう。
栗色の瞳が俺を見る。
「釉くんもそう思わない?」
「さ、さあ、どうかな」
俺は答えをはぐらかす。何だかんだで、先輩方のああいう性格に救われていたところもある。表立って迷惑とは言えない。
奈霧が目を細める。
「釉くんの方は満更でもないみたいだね」
「そんなことない」
「どうだか。美人な先輩方だし、気持ちは分からなくもないけどねー」
俺は視線を逃がす。頬に突き刺さる視線が痛い。何か別の話題が欲しくなる。
「ところでさ」
「あ、話題逸らした」
「……ところでさ、奈霧は先輩方とどんな経緯で知り合ったんだ?」
「文実の委員会だよ。あの人顔が広いんだね。近隣住民に挨拶回りをした時の話なんだけど、ちょっと高めの菓子を出されちゃったよ。美味しかった」
端正な顔立ちが子供っぽさを帯びる。感想が小学生じみていて、思わず苦笑いが込み上げる。
「コミュニケーション能力が高いのは確かだな。俺も放送部に属していた頃は世話になったし」
あるいは揶揄うこと自体が、先輩なりのコミュニケーションの取り方なのか。菅田先輩は口を閉じていれば美人だし、同年代は気後れする。ああでもしないと周囲と関わりを持てなかったのかもしれない。もちろん、人を揶揄わずにはいられない性分な可能性も否定できないけど。
「ん」
近付く人影を見つけた。小麦色の毛をまとう四つ脚の動物が、舌を出しながらぺたぺたと地面に足を付ける。首輪から伸びたリードを握るのは品の良さそうな老女。ボランティアで知り合ったお婆さんだ。
俺は口角を上げる。
「こんにちは」
お婆さんが目をぱちくりさせる。
「あら? よく見れば市ヶ谷さんじゃないの。久しぶりねぇ。髪が黒いから誰かと思っちゃった」
お婆さんの視線が横にずれる。
大きな目が丸みを帯び、口元が手で覆い隠される。
「まぁ、まぁまぁまぁ! 綺麗なお嬢さんねぇ。もしかして市ヶ谷さんの?」
黄色い声色。奈霧を抱き寄せた時に悲鳴を上げた女子グループを想起する。女性は何歳になってもそういう話が好きなのだろうか。見た目も若々しい方だし、今も恋に生きていそうな人だ。
「ええ、まあ」
微かに頬が熱を帯びる。改めて他者に指摘されると照れくさい。
俺の後方で、奈霧が姿勢を正す気配があった。
「初めまして、請希高校一年の奈霧と言います。以後見知りおき下さい」
「ご丁寧にどうも。フシクラです、こちらこそよろしくね」
「フシクラってどういう字を書くんですか?」
「伏すの『ふ』に倉庫の『そう』よ」
「釉くんの旧姓と同じだね」
「ああ」
名字が被るなんて珍しくもない。佐藤や田中と比べれば被りにくいだけで、日本人は世界に一億人以上いるんだ。一人や二人同じ名字の人がいてもおかしくない。
「あら、あなたの旧姓って伏倉なの? 奇遇ねぇ。これを機に仲良くしましょうね。ところで、どうして奈霧さんはそんなに離れているの? もっと近くでお話ししましょう?」
「私もそうしたいのは山々なんですけど……」
奈霧が栗色の瞳を下げる。視線の先にはゴールデンレトリバー。後ろ足をたたみ、尻尾を左右に往復させて舌を垂らしている。
愛苦しさを感じる光景だけど、奈霧には幼少期のトラウマがある。同じ犬というだけで怖いのだろう。
お婆さんが悟ったように笑みを引っ込める。
「もしかして犬にアレルギーがあるのかしら?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、子供の頃に押し倒されてから犬が怖くて」
「あら、そうだったの。何も知らずにごめんなさいね?」
「いえ、伏倉さんは悪くないですよ」
奈霧が苦々しく口角を上げる。手をもじもじさせている辺り、本心では触れてみたいのだろう。
可哀想、
思うと同時に悪戯心が湧き上がる。
「伏倉さん。ちょっと撫でてみていいですか?」
「ええ、もちろん。撫でてあげて」
「では失礼します」
犬との距離を詰め、くりっとした瞳の前で腰を落とす。手の平で頭をさすると、指先がふわっとした感触を得た。次いで首元を両手でわしゃわしゃ。頭よりも毛の量が多いのか、よりふわふわした感覚が何とも心地いい。
う~~っ、とうめき声。
振り向くと、奈霧が恨みがましく口を引き結んでいた。
「いいなぁ釉くんだけ」
「奈霧も触ればいいじゃないか」
「それができたら苦労しないって」
「このわんこ大人しいぞ? 近付いても飛び掛かったりしないと思うけど」
「そうね。うちのしっぺは大人しいから、いきなり飛び付いたりはしないと思うわ」
しっぺって名前なんだな、このわんこ。罰ゲームの一つなのに、響きが妙に可愛らしく聞こえるから不思議だ。
「これを機にトラウマ克服といかないか? いざとなったら俺が止めるから」
「本当に? 信じていいの?」
「ああ」
「また意地悪とか無しだよ? 怒るからね?」
「分かってるって」
予想以上に念を押されて苦笑する。
一度は奈霧の手を引いた身だ、恋人がいかに犬を怖がっているか知っている。破局なんてしたくないし、もしもの時は体を張るつもりでいる。悪戯で犬を押し付けたりしない。
奈霧がじりっと靴裏を擦る。足を前に出して、しっぺの様子をうかがってからまた踏み出す。
贅沢に時間を使って俺の横まで来た。
俺は腰を上げて身を引く。奈霧が息を呑み、空いたスペースにしゃがみ込む。ガラス細工にでも触れるように腕を伸ばし、ぎゅっと目を閉じて小麦色の頭に手を乗せる。
しっぺは飛び付かない。はっはっ、と舌で体温を逃がしつつ、ふさふさの尻尾をぶんぶん振る。
奈霧が恐る恐るまぶたを上げる。目をぱちぱちさせて、今度はしっぺの頭を撫で撫でする。俺がさっきやったみたいに、首元の毛をわしゃわしゃする。
桜色のくちびるが弧を描く。
「犬の毛ってこんなにふわふわしてるんだ」
「ゴールデンレトリバーは毛が柔らかいからな。柴犬は少し固めというか、むくむくした感じだぞ」
「そうなんだ。いつか触ってみたいなぁ」
奈霧が身を乗り出し、大胆にしっぺの背中をさする。すっかりもふもふを堪能しているようだ。
「可愛い子ねぇ」
いつの間にか伏倉さんが隣に立っていた。
「はい。自慢の彼女ですから」
「あの子は将来美人になるわ。手放しちゃ駄目よ?」
「俺達はまだ交際してるだけですよ?」
「何言ってるの、将来を見据えることに早い遅いもないわ。しっかりなさい、男の子でしょ?」
声が微かに荒さを帯びた。何故俺は、名字しか知らないお婆さんに叱られているのだろう。もしや俺は年上に可愛がられるタイプなのだろうか。波杉先輩や菅田先輩にもお世話になったし、信ぴょう性はある。
「離しませんよ。そう誓いましたから」
もちろん奈霧に愛想を尽かされた場合はその限りじゃない。俺は周囲と比べて出遅れている。関係を築いたからといって、ぼーっとしていては距離が広まる一方だ。邁進する姿勢は崩せないし、努力を続けるには相応の労力が要る。並大抵の覚悟じゃ務まらない。
気絶するくらいのことならやってやる。今後俺達を引き裂かんとする者が現れても、奈霧を離さずにいられる握力が欲しい。そういう意味でも立ち止まってはいられない。
視線を感じて、伏倉さんに横目を振る。
「いい顔をするようになったわねぇ」
「そうですか?」
「ええ。ボランティアで会った時とは別人みたい。若い頃の主人を思い出すわ」
「主人はご自宅ですか?」
「いいえ、今は喧嘩して別居中なの。あの人ったら、いくつになっても頑固なところが変わらなくてねぇ」
嘆息され、俺は苦笑いで無難に応じる。
何と答えるのが正解なのだろう。同調するのは簡単だけど、自分以外の人が主人を愚弄するのは許さない! ってタイプだったら面倒だ。
しかし頑固か。伏倉さんだけじゃなく、俺と奈霧の両方にも通じる欠点だ。それが原因で大喧嘩に発展する可能性は否定できない。そのまま破局に至ろうものなら最悪だ。想像して思わず身震いする。
話を聞くに、伏倉さんとその伴侶は破局していない。仲直りする際のエピソードは参考になるはずだ。言い方は悪いけど良い反面教師。伏倉さんとは縁を繋いだ方がいいかもしれない。
「伏倉さん。連絡先を交換してもいいでしょうか?」
「ええ、もちろん」
嬉々とする伏倉さんと連絡先を交換する。
お礼を告げたタイミングで、ぎゅ~~っと声が聞こえた。奈霧がしっぺを抱き締めて満面の笑みを浮かべている。
俺は写真を取ろうか逡巡して、スマートフォンをポケットに戻す。撮影時の音で水を差したくない。恋人が満足するまで、微笑ましい戯れを温かい目で見守った。
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