第56話 誓い
や ら か し た。
俺がやらかしたことに気付いたのは上演後だった。カーテンコールを済ませて戻るなり、クラスメイトに生温かい視線を向けられた。男子はニヤニヤして、女子は黄色い声を上げた。
理由を聞いたら芳樹から茶化されて、俺はようやく自分がやらかしたことに気が付いた。
俺は体育館から逃げた。教室で私服を脱いで制服にそでを通し、自分の荷物をまとめて速やかに教室を後にした。
人気のない廊下を疾走し、人目を忍んで昇降口に踏み入る。
ハッとして足を止めた。
「あ、実行委員の仕事」
忘れてた。頭からサーッと温かみが引く。
文化祭実行委員には後始末がある。校舎内のごみを拾ったり、出し物のセットを片付けたりと人手がいる。
今頃他の実行委員は作業に当たっているはずだ。文実仲間に背を向けて帰るか、戻って赤っ恥に耐えながら作業に取りかかるか。二つの選択肢が心の天秤をグラグラさせる。
「やっぱり来たね」
口から心臓が飛び出すかと思った。バッと振り向いた先にはたおやかな立ち姿がある。
喉が渇く。
何か話さなきゃと思うのに思考がグルグルしてまとまらない。
公開告白は聞かれてしまっただろうか。直接聞いてなくとも友人経由で耳にした可能性がある。
痛いところを突かれる前に言うか? 俺は羽桐と叫ぶつもりだった、間違えただけなんだと。
「帰るの?」
問われて天秤が傾いた。俺は観念して肩を落とす。
「戻るよ、文実の作業があるし」
奈霧も実行委員だ。こんな所にいる辺り、俺を探す役割でも担わされたに違いない。完全にサボって心証を損ねるよりはマシか。
「手伝いはしなくていいってさ」
思わず目をしばたかせる。
あまりにも都合のいい言葉だ。何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。
「誰がそんなこと言ったんだ?」
「会長だよ。菅田先輩が許可を取ってくれたの。エンディングセレモニーまでは自由に動いていいみたい。その、積もる話もあるだろうからって」
奈霧が視線を逸らす。
一難去ってまた一難だ。早速自分がしたことに向き合わざるを得なくなった。
「釉くん、少し歩こうよ」
奈霧が背を向けて廊下に踏み出す。
逃げ出すわけにもいかない。俺はしぶしぶ後に続く。
「壇上での格闘戦すごかったね。釉くんがあんなに動けるなんて知らなかったよ」
「中学の頃に空手をやってたからな」
佐郷の身柄は警備員を介して警察に引き渡される。じきにパトカーが駆け付けるだろう。
演劇を観た観客は、佐郷の介入をパフォーマンスか何かだと勘違いしていた。警察の人が来たらギョッとするかもしれない。
「中学の頃、ね」
「意味有り気な言い方だな」
「うん。もしかしてなんだけどさ、空手って私が逆上した時の備えだったりする?」
「それは……」
言い訳が思い付かずに言い淀む。
奈霧の予想は当たっている。入学当初は奈霧を復讐の対象と定めていたし、自棄になって飛びかかって来たら空手で沈めるつもりだった。
奈霧に拳を叩き込めたかどうかはさておき、そういうプランを立てていたのは事実だ。
小さな笑い声が廊下の静寂をかき乱した。
「ごめん、ちょっと意地悪言った。でもその備えでストーカーを撃退できたと考えると、釉くんに誤解されたのも無駄じゃなかったね」
「そう言ってもらえると助かるよ」
苦笑いするしかない。
状況が違えば、暴漢を沈めた一撃を受けるのは奈霧だった。誤解されていたことを知って恐怖を覚えなかったわけがない。展望台で見た怯えの表情は今も鮮明に思い出せる。
「私ね、釉くんが庇ってくれた時に小学生の頃を思い出したの。覚えてる? 私が犬に吠えられて動けなくなった時、釉くんがそっと手を引いてくれたよね。ストーカーの前に立った背中があの頃の釉くんに重なったんだ」
「だからあの時俺の名前を呼んだのか」
奈霧が振り向いて目を丸くする。
「聞こえてたの?」
「ああ、すぐ近くに立ってたからな」
「それなら勇気を出して聞けば良かったかな?」
「どうだろう。水族館で昔話を聞かされたから口が軽くなったわけだし、廊下で問われてもすっ呆けて終わったと思う」
「そっか。じゃあ水族館に行って正解だったんだね」
「クラゲも見れたしな」
踊り場を経て新たな段差に足をかける。
窓から差し込むオレンジの光が温かい。まるで俺たちを労っているみたいだ。
「ごめんな、あの時は逃げ出して」
「いいよ、終わったことだし。でも待ち合わせをすっぽかされた時はさすがに堪えたかな」
「待ち合わせ?」
「ほら、図書館とファミレスだよ。加藤さんがセッティングしてくれたでしょ?」
「あーいや、あれはちゃんと」
時間前に来ていた。そう告げようとして口をつぐむ。
過ちを洗いざらい吐き出しても得することはない。先輩に教えてもらったことだ。知らぬが仏、知るが煩悩。この世には優しい嘘というものがある。
「もしかして来てたの?」
「……はい、テーブルの下に隠れてました」
罪悪感に負けて白状した。先輩の教えを、こんな邪なもので穢すことは憚られた。
「テーブルの下って、何でそんな所に?」
「奈霧が見えたから隠れなきゃと思ったんだ。隙を見て脱出しようと思ったけどそのテーブルに奈霧が来て、そのままと言いますか」
奈霧が振り向いて足を止めた。栗色の瞳がすぼめられて、透き通るような白い頬にほのかな茜色が差す。
「……えっち」
ぎゅわっ! と噴き上がるものがあった。
「ち、違う! 邪な考えがあってテーブルの下に隠れたわけじゃない! それは信じてくれ!」
「そこまで疑ってるわけじゃないけど……見たの?」
「見てない。天地神明に誓う」
「仰々《ぎょうぎょう》しい言葉を使うところが怪しいなぁ」
「本当に見てないんだって!」
それは事実だ。俺は自分に打ち勝った。
形のいい太ももは見たけど、それだって凝視したわけじゃない。奈霧の懸念は事実無根だ。
「ま、そういうことにしてあげましょうか」
実際そういうことなんだけどな。
口を突きかけたその言葉を呑み込んで廊下の床に靴裏を付ける。
奈霧が足を止めた。俺と並んだのを機に再び階段に足をかける。
今の話で覗きを警戒されたのだろうか。その可能性が脳裏をよぎってお風呂でのぼせたように頬が火照る。
仕切り直しの意図で咳払いした。
「どこまで行くんだ? できれば教室には戻りたくないんだけど」
「恥ずかしいんでしょ? 分かるよ、私もすっごく居辛いもの」
声色は嫌味成分たっぷりだった。
体育館で公開告白した俺は言わずもがな、奈霧も大衆の面前で「俺の女」呼ばわりされた身だ。
元々俺達の関係は注目されていたのに、今回の件で周囲がさらに色めき立った。おめおめと教室にも戻れない。
「俺は頑張ったと思うんだ」
「そうだね、すごく頑張ったと思うよ。最後は明後日の方角に全力ダッシュしたけど」
その物言いにむっとした。抑えきれなくなったもやもやが口を突く。
「それを言ったら奈霧だって努力の方向性を間違えたじゃないか。芳樹に仲裁を頼まずに直接俺のクラスまで来ればよかったんだ」
「よく言うね。校舎で私を見るたびに逃げてたくせに」
「合わせる顔が無かったんだ。いじめられた経験も照らし合わせて、視界に入らないのがベストだと思ってたんだよ」
「それは釉くんの考えでしょう? 結局は私と向き合う勇気が無かっただけじゃない」
「加害者の分際でそんなことできるわけないだろう⁉」
「難しくてもやるのが加害者の責任でしょう⁉」
互いに言葉をぶつけ合って廊下を賑わせる。
口喧嘩を交わす内に屋上までたどり着いた。ひんやりとした外気が気持ちいい。そよ風に撫でられて火照った頭から熱が抜ける。
屋上はがらんとしていた。天文部の写真がボードに貼り付けられていたはずだけど、今はボードごと撤去されて跡形もない。
二人でがらんとした空間を突き進む。
「私達、変わらないね」
「そうだな」
小学生の頃もどうでもいいことで口論した気がする。佐郷の暗躍がなくても、いつか大喧嘩して疎遠になった可能性は否定できない。
「関係が変わっても、ずっとこのままかもしれないね」
「そうかもな」
「私達、上手くやれるかな」
「できるさ。悪意に引き裂かれても、俺達はこうして巡り逢えたんだから」
和解した現在でも口論は絶えない。何かがきっかけで決裂することもあり得る。
それでも俺達は肩を並べて立っている。けじめを付けて関係を断っても、心の奥底で共に歩む未来を望み願ってきたからだ。
その気持ちを互いに抱き続ける間は、何度ぶつかり合ってもまた歩み寄れる。俺はそう信じている。
幼馴染を視界の中央に据える。
空気の変化を感じ取ったのか、奈霧も体の向きを変える。
「壇上では勢いで告白しちゃったけど、あの気持ちに嘘偽りはない」
「自分で言うのも何だけど、私結構面倒な女だよ?」
「知ってる」
「きっと喧嘩もするよ。ちょっとしたことで拗ねたり、ふとした弾みで言っちゃいけないことを言うかもしれない。そんな私でも、いいの?」
力強くうなずいた。
「それでも奈霧がいい。奈霧じゃなきゃ、駄目なんだ」
初恋が悲惨な形で終わっても眼前の幼馴染は曲がらなかった。過去に囚われずに今を生きて、未知を恐れず服飾の世界に手を伸ばした。
素直に格好良い。尊敬できる。
同時に悔しいと思うからこそ、俺も負けたくないと奮起できる。
復讐に囚われて時間を無駄にしても、そのことで不貞腐れることなく前を向ける。そんな相手は奈霧だけだ。他にはいない。
「奈霧こそいいのか? 俺は悪だぞ。変な異名がくっ付いてるし、最近一部の女子を敵に回したばかりだ。変なトラブルに巻き込まれるかもしれない」
「いいよ。釉くんが誤解されやすいことは知ってるもの。そういうことをわざわざ言ってくれる生真面目さも、不器用だけど優しいところも大好きだから」
奈霧がふっと微笑む。
俺は右足を前に出した。そっと腕を伸ばして愛しい笑顔を抱き寄せる。
「私のこと、離さないでね」
「離さないよ。もう、二度と」
互いにくちびるを突き出して口付けを交わす。
夕焼けの下、高所にて。
シチュエーションの類似がトリガーになって、渋谷スクランブル交差点を見下ろした時のことが脳裏をよぎる。
当時も、あの瞬間こそが人生において最上の時だと疑わなかった。今も同じことを思うけど、これから先も最幸な思い出が更新されていくのだろう。
だとしても腕の中にある温かさを、くちびるから伝わる瑞々《みずみず》しい感触を。
そして泉のごとくわき上がるこの幸福感を、俺は一生忘れない。
読んでくださりありがとうございました。
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