第51話 メイドとご主人様
スマートフォンから視線を上げた先に、白黒の衣装で飾られた幼馴染が立っていた。
白いヘッドドレスに飾られた髪がリボンに結われて肩に乗り、いつもの凛とした空気を柔らかい雰囲気で上書きしている。
靴は黒いヒール。
区画のシックな景観も相まって、立ち姿は格式高いメイドとして完成されている。
「……あんまりじろじろ見ないでよ」
我に返った。見惚れていたことに気付いて、とっさに思考を巡らせる。
「ご、ごめん。奈霧、その呼び方はどうしたんだ?」
「ルールなの。この区画で応対するメイドは、お客さんをご主人様って呼ばなきゃいけなくて」
「そう、なのか」
栗色の瞳が逃げる。
「それでその……どう、かな?」
「どうって?」
「この衣装だよ。自分なりに上手くできたと思うんだけど」
問いの意味合いは分かっていた。どういう言葉で褒めようか迷っただけだ。
奈霧はデザイナーを目指していると聞く。
服を褒めればいいのか、似合っていると褒めればいいのか、二つの間で揺れ動く。
「凄く似合ってるよ。一瞬別人だと思ったくらいだ」
脳がフリーズして、思った言葉がそのまま口を突いた。
引き結ばれていた艶やかなくちびるが緩み、強張っていた表情がぱっと華やぐ。
「本当?」
「ああ。服もシックで、小部屋の雰囲気にマッチしてる。今日のために頑張ったんだな」
「やった」
小さな呟きに遅れて、繊細な指が丸みを帯びる。
小学生時代を思わせる純粋無垢な振舞い。
あまりにも無防備なその笑顔を見て、思わず身を乗り出しそうになった。抱き締めたい衝動をぐっとこらえる。
奈霧が背筋を伸ばした。
仕切り直しとばかりにこほんと咳払いが続き、整った顔立ちに微笑が浮かぶ。
「今日は一緒に回れなくてごめんね。その分はおもてなしで返すつもりだから、ゆっくりして行って」
「そうしたいのは山々だけど、迷惑にならないか? 客の回転率的にさ」
教室の壁で見えないけど、廊下には列ができている。
俺がのんびりしたら席が空かないし、店の儲けにも影響が出る。
「その点は大丈夫だよ。この席はそこまで人気じゃないから」
「こんなに出来がいいのにか?」
俺は周囲を一瞥する。
他の区画も良くできているけど、俺の席だって雰囲気作りはしっかりしている。
何より、応対するのはこのメイド奈霧だ。学内人気を考えればダントツで人が集まるはず。
現に、今も多くの客が奈霧に熱のある視線を送っている。
「この区画はお客さんに人気があってね、今日から別途で区画料金を取ることにしたの」
「実質的な値上げで人の入りを抑えたわけか。賢いな……てか、別途料金取られるのかここ⁉」
いくらだろう。法外な料金を請求されないといいけど。
奈霧が右目をつぶる。
「大丈夫だよ。言ったでしょ? おもてなしするって。別途料金の方は私が払うから心配しないで」
「さすがにそれは悪いって。サービスを受ける分は俺が払うよ」
「ううん、これくらいはさせて。じゃないと私の気が済まないから」
真面目な視線を向けられる。
一緒に回れなくなったことを後ろめたく思っているのが伝わってきて、食い下がる気力が失せた。
「分かった。それじゃもてなしてもらおうかな」
「うん。注文する料理は決まったんだよね、何にしたの?」
コーヒーとチュロス。
告げようとして、ちょっとした悪戯心が湧き上がった。意図して口端を吊り上げる。
「それは違うんじゃないか?」
「違うって?」
「俺はご主人様なんだろう? メイドの君には、それに相応しい振る舞いがあるんじゃないのか?」
「な……っ⁉」
奈霧が目を見張った。言葉の意味を理解したようで、小さな顔が見る見るうちに紅みを帯びる。
新鮮な心持ちだ。
試験の点数、ホームラン競争、その他諸々。最近は奈霧に負けてばっかりで、こんな風にマウントを取れる機会には恵まれなかった。
聡明で綺麗に成長した幼馴染の弱みを握って、無理やり俺の言うことを聞かせている感覚。不思議と変な気分になる。
「ほら、どうした? 恥ずかしがらずに言ってみろ」
奈霧が指をぎゅっと丸め、熟れたりんごのように真っ赤な顔で上目づかいを向ける。
「ご、ご主人様……ご注文は、お決まりでしょうか?」
何という達成感。
空気が美味い。まさに夢心地だ。世界がぶわっと広がったような爽快感にひたすら酔いしれる。
今なら何でもできそうな気分だ。
「きゃっ」
奈霧の背後で悲鳴が上がった。
少年と店員の体が接触して猫耳少女の体勢がぐらつく。
手にはティーポット。透明なそれの中には、紅い液体が並々と入っている。
体の傾きが止まったのは一瞬のこと。脚力で持ちこたえられる時間が終わり、女子の体が再び傾く。
「奈霧ッ!」
反射的に体が動いた。細い手首を握りしめて、戸惑いの声を無視して抱き寄せる。
右腕を奈霧の背に回し、華奢な体を巻き込むように身を投げる。浮遊感に包まれる中、左の手を奈霧の後頭部に当てる。
椅子が倒れた音に紛れて、背後でガシャンと砕けた音が鳴り響いた。
悲鳴をBGMにして上体を起こす。
振り向いた先には、原型を失って破片と化したティーポットがあった。
こぼれた紅い液体が床に広がり、湯気を立たせてその温度を視覚的に知らしめる。
あんなものが大量に掛かったら間違いなく大火傷だ。最悪の想像が脳裏をよぎって息を呑む。
「危ないなぁ。気を付けて歩かないと火傷しちまうぜ?」
意思に反して呼吸が止まる。左胸の奧がドクンと鼓動を打つ。
それは聞き覚えのある声だった。胸の内がかき回されて、吐き気にも似た不快感が込み上げる。
そんなはずはない、人違いであってくれ。
恐る恐る顔を上げて、懇願にも似た祈りが打ち砕かれた。
髪が金色に染められてはいるものの、半年近く前に見た顔は見間違いようもない。
「よぉ、戻って来たぜ。愛故に」
佐郷信之。
かつて俺と奈霧の仲を裂き、俺が退学に追い込んだ復讐対象。
別の都道府県に逃げたはずの少年が、口端を吊り上げて俺を見下ろしていた。