第5話 早退とお手紙
自宅に戻るなり睡魔に誘われてベッドに潜った。
目覚めるなりシャワーを浴びた。勉強机に教科書を広げてシャーペンを走らせ、どこかに出かけることもなく休日をやり過ごした。
翌週から体育祭の準備が始まった。クラス内で実行委員を募られて、選ばれた男女を中心に出場種目を決めた。
俺は実行委員に立候補しなかった。
将来のためにはやっておいた方がいいだろうけど、どうせ奈霧が立候補する。点数稼ぎの手段は他にもあるんだ。わざわざ嫌な想いをする必要はない。
そして迎えたえ練習初日。赤組の一員として廊下を踏み鳴らした。
体育祭で披露するダンスの練習。正直面倒だけどやっておかないと恥をかく。
何より俺にとっては最初で最後の団体イベントになりかねない。高校生活は捨てるつもりだけど青春の欠片くらいは持っておきたい。
全力で臨む。そう意気込んで上級生の教室前に足を運んだ。
どこもかしこも体操着。視線を振ると、他の組に属する男女も似た衣服を身にまとっている。
スポーツの試合ではチームによってユニフォームの色が違うけど、体育祭では敵味方関係なく体操着姿で躍り出る。掲げる色は違ってもみんな仲間と伝えたいのだろうか。
ああ、確かに仲間だろう。
日頃の勉強や運動を通して仲を深めて、切磋琢磨した思い出を残す。中には進展して恋人関係に落ち着くペアも出る。
これぞまさに青春模様。送れるなら、俺もそんな高校生活を送りたい。
でも駄目だ。大切なものは弱さになる。守りたい関係ができたら復讐の実行に暗い影を落とす。例え彼女ができても幸せにはなれない。
この空気にほだされるな。
自分に言い聞かせて三年生の教室内になだれ込んだ。実行委員の指示に従ってダンスの振り付けを覚えようと試みる。
ただのダンスも中々どうして楽しいもので、あっという間に解散の時間を迎えた。すっきりした心持ちで廊下の床に靴裏をつける。
廊下の曲がり角に差しかかったところで体操着の群れが迫った。反射的に足を止めたことで大きな音が鳴り響く。
談笑に夢中だった男女に横目を振られる。
人をはべらせた中心には目を惹く美麗な少女。一生懸命手足を振るったのか、半そでを肩の辺りまでまくって形の良い二の腕を惜しげもなくさらしている。
整った顔立ちに人なつっこい笑みが浮かんだ。
「ごめんね、ぶつからなかった?」
息が詰まる。左胸の奧から嫌な鼓動が鳴り響く。
落ち着け、あれから何年も経っているんだ。髪の色を変えたし名字も違う。面識のない同級生を装えるはずだ。
「大丈夫、接触はしてないよ」
「よかった。会話に夢中で気付くのが遅れちゃって、今度から気を付ける……」
不自然に語尾が濁った。
浜辺から引く波のごとく小さな顔から微笑が失われる。
「あの、さ」
「何だ?」
「ひょっとして、どこかで会ったこと、ある?」
「ないよ」
即答した。
あらかじめ用意しておいた答えだ。動じることなくスラスラと発することができた。
端正な顔立ちに苦笑が浮かんだ。
「そっか。ごめんね変なこと聞いちゃって。私一組の奈霧有紀羽。あなたは?」
「市ヶ谷だ」
「市ヶ谷、ね。そうだよね」
つぶやきが廊下の喧噪に溶ける。
心なしか、表情に陰りが差したように映った。
「名字に不満でもあるのか?」
「ううん、ちょっと知り合いに似てる気がしただけ。それじゃ私たち行くから、またね」
すらっとした脚が歩みを再開した。取り巻きの男女も靴裏を浮かせる。
俺は遠ざかる背中を黙して見送った。
体育祭当日。
全校生徒が集まる中でも奈霧は目立っていた。やぐらの上では鼓膜に溶けるような心地良い声で選手の士気を上げ、応援合戦パフォーマンスではその美貌をもって父兄の視線を集めた。
出場したリレーでは、他の女子を置き去りにして一着の座をほしいままにした。最下位からごぼう抜きした時は白組以外の生徒も歓声を上げた。まるでヒーローの誕生でも前にしているような賑わいだった。
優勝したのは奈霧含む白組。優勝を宣告された際には、額に白い布を巻いた生徒が黄色い声を上げて飛び跳ねた。
翌週になっても校舎内はがやがやしていた。
奈霧の周りには常に人がいる。体育祭を通じて仲を深めたのだろう。教室の中でもたびたび奈霧の名を耳にするし、校内で奈霧を知らない生徒はいないんじゃないだろうか。
奈霧は昔からそうだった。男女問わず仲良くなって、いつも人の中心にいた。
小学生の頃と何一つ変わっていない。
そんなだから俺もためらいなく行動に移すことができた。
ある日、ショートホームルームで一つの話題が上がった。
一人の女子生徒がストーカー被害に遭っているとのことだ。昇降口のロッカーに、気色の悪い内容を書き綴った手紙が入っていた。その内容から犯人は校外の人間と推測されている。
午前中の授業が中盤に差しかかっても、教室はストーカーの話題で持ち切りだった。
被害者の名前が伏せられたこともあって、クラスメイトはストーカー被害を受けた女子生徒の話題で盛り上がっている。
芳樹も俗物だった。休み時間に俺の前で足を止める。
「市ヶ谷は例の女子生徒誰だと思う?」
「どうせ奈霧だろう」
「一組の?」
「そう、奈霧有紀羽だよ。それ以外に考えられない」
あえて大きめな声を出した。おどけた風を装って、言い訳の余地も残すのも忘れない。
奈霧有紀羽の名前は校舎中に広まっている。
中身はともかく外見が良い。すでに一年から三年まで、幅広い男子から好意を告げられたと聞く。周りが奈霧の名前を聞いて、なるほどと合点するだけの説得力がある。
本当にストーカー被害を受けたかどうかは関係ない。うわさが校舎中に広まれば、奈霧は学校生活を送りにくくなる寸法だ。
俺がやっていることは明確な嫌がらせ。
自覚はしているけどやめるつもりは毛頭ない。何を隠そう、中年男性の汗と臭気が漂いそうな手紙を書いたのはこの俺だ。
デジタルが主流の時代に、ボールペンで気持ち悪い文章を書いた。
水やコーヒーの滴を垂らして、しみ込んだ汗の跡を偽造した。
足が付かないように、利き手じゃない左手でつづることも忘れない。奈霧の外履きを焼却炉に放り投げて、あたかも靴を盗んだように思わせる変態的文章も並べた。
死んだ方がいい。自分でもそう思う。
でも奈霧の学校生活を破壊するためだ。背に腹は代えられない。
俺は小学生時代のいじめが原因で、高校入学までの時間と家族を失った。復讐に囚われている今も、青春というかけがえのない時間を浪費している。
俺の時間は小学生で止まっている。主犯格の奈霧にやり返さないと俺の時間は動き出さない。
過去のトラウマにさいなまれて潰れるか、報復を終えて未来への道のりを歩み出すか。
これは俺の人生を賭けた戦いだ。自己嫌悪程度で歩みを止めることは許されない。
休み時間が終わる四分前。カバンの取っ手を握って席を立った。
「カバン持ってどこに行くんだ?」
「早退する。具合が悪いんだ。先生にそう伝えておいてくれ」
「それはいいけど、一人で帰れるのか?」
「ああ」
「そうか。分かった、先生には俺から伝えておくよ」
「ありがとう」
罪悪感を振り切って教室を出た。
もうすぐ教師がやってくるのを察して、廊下を賑わせていた同級生が教室に駆け込む。
勝手に進む先が拓ける。自分が偉くなったように感じられて気分がいい。
将来は起業して社長になるのも悪くない。そんなパワハラ上司、部下の人は御免だろうけど。
廊下に授業開始のチャイムが鳴り響いた。
そろそろ俺の早退がクラス全体に知れ渡った頃合いか。教師が追いかけてくるとは思えないけど、巡回の先生が校舎を練り歩いている。速やかに帰宅するのが望ましい。
靴音を抑えて階段を下りる。
数分前の喧騒が嘘のようだ。静まり返った廊下に俺一人だけが動いている。
まるで異世界に迷い込んだような心持ち。冒険しているみたいで心が躍る。
浮かれている。俺は肺を膨らませ、ふーっと息を吐いて気を引きしめる。
これから行うことを見られてはいけない。
偽りでもストーカーはストーカーだ。露見すれば破滅する。それを忘れるべきじゃない。
ストーカー騒ぎは十分な効果を発揮している。あれだけうわさになれば日常的な会話にも上がる。奈霧が忘れたくても周囲が思い出させる。
付きまとうだけで終わるストーカーはめったにいない。大体はエスカレートして対象と接触する。何かを致命的に勘違いしたまま好意を告げて、拒絶された腹いせに刺殺などの暴挙に出る。
その存在が死に繋がる要因だ。自身がターゲットにされていると知って、恐怖を覚えない者はいないだろう。
気丈だった奈霧も、いつどこから躍り出るか分からない相手は怖いはず。怯えて青春どころじゃなくなる算段だ。俺が奪われた時間の分だけ、今度は俺が奪ってやる。
廊下の窓に自分の顔が反射する。
すごい顔だ。今から人でも殺そうというんだろうか、こいつは。金色の髪も相まって、ヤンキー漫画で拳を振るうワルに見える。
これが今の俺だ。
【伏倉釉】は母の死で心の奥底に引きこもった。窓ガラスに映る形相は、復讐者【市ヶ谷釉】としての顔だ。
両手の人差し指で口端を持ち上げ、顔に笑みを貼りつける。
これで大丈夫。どこからどう見ても好青年だ。巡回する教師とばったりこんにちはしても問題はない。
両腕を下げて、自分のナルシストぶりに吹き出した。変な笑い声が廊下を伝播する。
自称好青年がストーカー行為を働こうとしている。入学式に声をかけてくれた女子もびっくりだろう。
ごめんとは言わない。可哀想だけど、見る目がなかった自分たちを恨んでくれ。
昇降口に靴音を響かせる。
がらんとした薄暗い空間に人の気配はない。自分のロッカーを開けて外用の靴に履き替える。
現在は授業真っ最中の時間帯。生徒に犯行を目撃される心配はない。
巡回の教師も廊下を見た限りは当分来ない。十秒くらいなら絶対の安全が約束されている。
目的のロッカーへと踏み出す。
二回に分けて手紙を入れた身だ。奈霧のロッカーの位置は把握している。
ああ、二回目はお笑いだった。俺がロッカーを開けたら別の手紙が入っていた。
どうせストーカー行為はやめてくださいとでも記されていたんだろう。封筒はそのままにして力作の恋文を重ねてやった。
さて、今回は何が入っているんだろう。
カバンに手を突っ込んで手袋を取り出した。ブツに指紋を付けないために手を差し込み、作戦の要たる封筒を握る。
反射的に脚を止めた。
「え」
予想しなかった事態を前に目を見張る。
視線の先で栗色の瞳と目が合った。
糊のきいたブレザーにスカート。さらっと流れるミルクティー色の髪に品のあるたたずまい。そこに立つだけで目を惹く華やかさは見間違いようがない。
「なん、で」
どうして奈霧がここにいる?
理由を探して、繊細な指に握られたカバンが目に入った。
こんな時間帯にカバンを持って昇降口にいる理由は限られる。
遅刻か、はたまた早退か。奈霧は優等生で知られる。おそらくは後者だ。
何も、こんな時間に帰らなくたっていいだろうに!
「君は……」
まばたきを経て、栗色の瞳が俺の手元に落ちる。
見られた。
見られて、しまった。
どうする、暴力か? 黙っていなければ危害を加えると告げて、口封じを試みるか?
でも、それは。
「っ⁉」
息を呑んで元来た廊下を振り返る。
靴音が近づいてくる。
安全が保証された十秒はとうに過ぎた。巡回する先生だろうか? もしくは早退する生徒?
いずれにしても二対一。口封じを実行に移す機会は失われた。
失敗だ。恋文作戦は続けられない。脱力して下くちびるを噛みしめる。
だが、まだだ。
発覚のリスクは考慮していた。左手で記しただけじゃない。専門用語や場所の名称を用いて、教師や掃除業者を想起させる内容をつづった。文面で犯人を俺と断定するのは難しい。
問題は手に握る恋文。どうにかして解読不可にすれば事はすむ。お手洗いに駆け込むか、最悪口の中でそしゃくすれば事足りる。教師に問い詰められても、事件に影響されたからと言い逃れが効く。
終われない。この程度のアクシデントで復讐の火を絶やしてなるものか。
今回のケースなら厳重注意、最悪停学で済む。退学にさえならなければ復讐は続けられる。
この件を反省して、次はより緻密な計画をねるだけだ。
「来て」
多少の処分を覚悟した時だった。やわらかな指に手首を握られて、ふわりと香る甘い匂いに鼻腔をくすぐられる。指から伝わる奈霧の体温に思考能力の大半を持っていかれた。
薄暗い視界が明るみを増す。
昇降口から外に出たようだ。俺は壁を背中にして、廊下から聞こえる靴音をやり過ごす。
助かった。
安堵しても俺の足は動かない。
眼前にきれいな顔がある。この状況が全く理解できない。
手紙を見たはずなのに、俺をかばった理由は何だ?
「駄目だよ」
左胸の奧がドクンと跳ねる。
固唾を呑み、練習した微笑を顔に貼り付けた。
「何が、駄目なんだ?」
「恋文だよ。気持ちを抑えられないのは分かるけど、今はあの件で賑わっているんだから」
「あの件……って?」
口がこわ張る。声は震えていない、と思う。
とにかく気を引きしめろ、ボロを出すな。
この場は道化を演じてもいい。何をしてでも、奈霧の興味を手紙から逸らせ。
奈霧が大きな目を丸くした。
「知らないの? ストーカーの件だよ。こんな状況で手紙なんて送ったら、周りから誤解されて当たり前だと思わなかったの?」
言葉が耳から耳に抜ける感覚があった。
きょとんとしたのもつかの間、我に返って思考をめぐらせる。
誤解される? 俺が? もしや奈霧は、盛大に勘違いをしているのか?
そういえば奈霧は恋文と言った。あの気色の悪い手紙を見て恋文とは称さないはず。奈霧の中で俺とストーカーが結び付いていない証拠じゃないか。
俺は冗談めかして両肩を上げた。
ありがとう奈霧、バカでいてくれて。
「そうなんだけどさ、普通に手紙を送るだけじゃ望み薄なんだ。いっそのこと吊り橋効果でも利用してやろうと思って」
「それって不安や恐怖を感じる状況下で、恋愛感情を抱きやすくなる心理効果のことだよね?」
「そ。アレ狙おうと思って」
ストーカー騒ぎが話題に上げられているんだ。ロッカーに手紙が入っていたら自分にもストーカーが! と勘違いをしてもおかしくない。それこそ振り子のごとく揺れる吊り橋くらい恐いだろう。
理屈は通る。屁理屈も立派な理屈だ。
「少し意味合いが違うと思うんだけど」
「いいや違わない。俺の言っていることが正しい。ところで君は早退するのか?」
「ええ。ちょっと気分が優れなくて」
奈霧が疲れたように目を伏せる。
そりゃ疲れるだろう。ストーカー構文垂れ流しの手紙を送りつけてやったし、クラスメイトからの言及もある。精神がすり減って当然だ。
内心でほくそ笑む。
想像以上に効果があったようで何よりだ。これで満足せずに邁進するとしよう。
「市ヶ谷さんも早退?」
「ああ。それじゃ」
別れを告げて校門へと踏み出す。
十分に話は逸らした。後は速やかに距離を取るだけだ。
「待って」
呼びかけられて足を止める。
まさか気付かれたか? 俺がロッカーに手紙を入れたストーカーだと。
微笑みを維持してそっと振り返る。
「何だ?」
まさか、手紙の件をネタに強請る気か? また俺をおもちゃにしようと言うのか?
息を呑む中、奈霧が繊細な指をもじもじさせた。
「あの、よかったらでいいんだけど、一緒に帰らない?」
「……は?」
今度は俺が目を丸くする番だった。視界内で桜色のくちびるが引き結ばれる。
冗談で言っているようには見えない。何か企みでもあるのだろうか。
俺は考えて、意地悪げに口端を吊り上げた。
「何だ、一人で帰るのが寂しいのか?」
「あははっ、そうかも。ちょっと話し相手が欲しい気分なんだ」
奈霧が自嘲気味に身を震わせた。
予想しなかった返事を前に、俺は目をぱちくりさせる。
強がると思っていた。
少なくとも小学生時代の奈霧は、上級生相手に喧嘩するほど気が強かった。犬に吠えられると動けなくなる弱さはあったけど、この場には俺と奈霧しかいない。ストーカーの件があるとはいえ意外だ。
俺は奈霧に背を向ける。
犯人とばれていないなら用ずみだ。
「友人でも誘え。じゃあな」
「あ……」
消え入りそうな声。確かに聞こえたそれを無視する。
こうして奈霧と一緒にいること自体がリスクだ。早々に校舎から立ち去るに限る。
しかしいい物を見た。あの心細そうな表情はお笑いだ。このまま放課後まで昇降口に突っ立っていればいい。
俺は手紙をカバンに戻して手袋を外した。先程奈霧が見せた表情を想起して口端を吊り上げる。
いっそ嘲笑ってやろうかと思った刹那、幼少期の思い出が脳裏をよぎる。
吠えたける犬に怯えたポニーテールの奈霧。当時目の当たりにした時と同じく胸がきゅっと締めつけられる。
靴裏が地面に貼りついた。何を血迷ったか体が反転する。
うつむいていた奈霧が微笑をつくろった。
「忘れ物?」
「違う」
「それならどうして……あ、恋文をロッカーに入れるつもりだったんだっけ。ごめんね、邪魔しちゃって」
「もうそんな気分じゃない。女子に見られてまで実行する胆力はないよ」
「私は気にしないのに」
「俺が気にするんだ」
女子に見られたラブレターをロッカーに入れる男子がいるものか。
女子の情報共有速度は凄まじい。俺が知る奈霧は口が堅い方だったけど、見ない間に中身が変質した可能性もある。うかつなことはできない。
「そっか。じゃあ仕方ないね」
「ああ。仕方ない」
二メートルほど空けて足を止めた。苦笑する奈霧に視線で促す。
本当に、今日の俺はどうかしている。
「……どうしてそんなところで立ち止まってるの?」
端正な顔立ちがきょとんとする。
大人びた美貌にあどけなさが垣間見えて、頭にぎゅわっと何かが上る。
「鈍いな! 話し相手になってやろうって言ってるんだよ!」
気恥ずかしさに負けて声が張り上がった。
気持ち悪い手紙で異性を怯えさせて、弱った心に付け込む。
何というマッチポンプ。これじゃまるで、俺が奈霧を恋愛的戦略で落とそうとしているみたいじゃないか。
自覚してお風呂でのぼせたように顔が火照る。
熱い、熱射病で倒れそうだ。血液が沸騰してないといいけど。
栗色の瞳がまぶたで見え隠れする。
小学生時代の面影を残す顔立ちに、花のような笑みが咲いた。
「ありがとう」
俺は応じる代わりにきびすを返した。背後で鳴り響く靴音を耳にして校門をくぐる。
右に曲がった拍子に、視界の隅に胸部の膨らみが映った。
肩を並べるつもりなのだろう。やわらかな匂いが香り、左胸の奧から伝わる鼓動が早まる。体からカフェインでも発しているのか、この女は。
主婦らしき二人の女性とすれ違った。後方で初々しいカップルを羨む声が上がる。
俺たちのことだと悟って、耳たぶが溶けそうなほどの熱を帯びた。
違う! これは戦略だろうが! 恋文による揺さぶり作戦の代替手段!
復讐対象とコンタクトを取る機会を得た。またとないチャンスを活かすためにアドリブを利かせただけだ! 断じて情にほだされたわけじゃない!
屈辱的な会話を忘れるべく歩みに没頭する。
何分足を動かしただろう。いまだに会話が発生しない。
気まずい。
話し相手が欲しいと言ったのは奈霧なのに、ずっと無言なのはどういう了見だ? もしや俺をボディガードと認識しているのか?
あり得る。奈霧は怯えていたし、ストーカーに襲われた際を考慮して男子に頼っても不思議じゃない。下手をすると、俺以外の男子にも声かけした可能性すらある。
体の内側から沸々《ふつふつ》としたものが湧き上がる。
こらえ切れなくなって口を開いた。
「君はモテるんだな」
「突然何?」
「うわさには聞いてたからさ。人気あるみたいじゃないか。熱烈なファンから恋文を送られた女子って、君なんだろう?」
奈霧が不愉快そうに形のいい眉をひそめた。
「ストーカーをそういう風に言うのはやめて。誰とも知れない相手に知られているのは凄く怖いことなんだよ?」
だろうな。手紙には奈霧の名前をフルネームで記してやったし、所属するクラスや名簿番号もきっちりと記した。
奈霧の交友関係も網羅した。書いた俺自身、読み返した後で破きたい衝動に駆られたほどの出来栄えだった。自分の文才が誇らしい。
「ところで君、市ヶ谷何さんだっけ?」
「俺は市ヶ谷だ。市ヶ谷さんと呼べ」。
名字は変えたけど、名前を変更するには特別な理由が必要だ。
俺はその条件を満たせなかった。以前と変わらない『釉』で入学するしかなかった。
そこから伏倉釉に結びつけられると厄介だ。偽名を告げることもできるけど、後で調べればすぐに嘘だとばれる。疑念を抱かれるくらいなら明かさない方が賢明だ。
「わざわざさん付けを強要するんだね」
「君とは初対面に等しいんだ。当然だろう?」
俺にとっては怨敵だけど、奈霧視点での市ヶ谷釉は初対面だ。
何より口が滑って伏倉釉が顔を出すのはまずい。昔の調子でしゃべるのは厳禁だ。
「それもそっか。じゃあ私のことは奈霧さんって呼んでね」
「分かったよ、奈霧さん」
俺は出会った当初から奈霧と呼んでいた。眼前の幼馴染をさん付けした記憶がない。 ちょっとした喪失感が胸の奥がチクッとする。
「それで、誰にラブレターを渡すつもりだったの?」
「内緒だ」
「誰にも言わないよ?」
「俗物め」
吐き捨てるように非難した。
透き通るような白い頬が小さく膨れる。
「ひどいなぁ。もっと他に言い方はないの?」
「俗人め」
「そういう意味じゃないって分かってるよね?」
「ああ」
「さっきも言ったけど、手紙はやめた方がいいよ」
皮肉がスルーされた。
苛立つと負けた気がして、俺は大人びた対応を意識する。
「分かってるって。ストーカーが捕まるまで恋文作戦は控えろって言いたいんだろう?」
亜麻色の髪が左右に揺れた。
「違うよ。ロッカーを開ける行為に問題があるの。人によっては嫌がる人もいるはずだから」
「ああ、そういうことか」
確かに靴の臭いを気にする生徒もいるだろう。気の弱い女子は泣くかもしれない。
でもそれについては安心だ。俺は奈霧のロッカーしか開けないから。
「そうだな、以後参考にしよう」
奈霧がまぶたを半分下げた。
「私は本気で言ってるんだよ?」
「俺はいついかなる時でも本気だ。参考にする」
「絶対その気ないでしょ」
「ある」
「ないね」
ある、ない、ある、ない。小学生じみたやり取りに既視感を覚える。
奈霧が車に轢かれるまでは、今みたいにつまらないことで言い争いをしていた。
楽しかった頃の記憶がよみがえって意図せず口元が緩む。俺の中の伏倉釉が顔を出そうとする。
精神が逆行しかけていることに気付いて口元を引きしめる。
この居心地の良さは毒だ。市ヶ谷釉を殺しかねない猛毒だ。
俺には未来へ進む責務がある。ためらいの種になりそうなことはするべきじゃない。
丁度いい。これだけ打ち解ければそろそろ頃合いだろう。
「一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「どうして俺をかばったんだ? ストーカーの話を知っているんだろう? 手紙を見て俺が実行犯だとは考えなかったのか?」
「考えたよ」
呼吸が止まった。ばれないようにそっと指を丸める。
大丈夫だ。看破されていたら奈霧が一緒に帰ろうなんて誘うはずがない。俺とストーカーは別の人物として認識されている。
推測を裏付けるように言葉が続く。
「でも手紙の内容からして、ストーカーが生徒とは考えられないんだよね。個人的な感傷もあるんだけど」
「感傷?」
眉をひそめかけて合点した。
奈霧には小中学校と、生徒として生活する時間が多くあった。見栄えする容姿だ。恋愛の機会には事欠かなかったに違いない。
奈霧視点では、俺はラブレターを女子のロッカーに入れようとした設定になっている。自らの恋愛経験と照らし合わせて、恋愛にかまける俺に同情しているのだろう。
あこに力が入る。左胸の奧が痛い。
これは悔しさだろうが! 俺が停滞する間に、いじめの端を発した敵が青春したことへの怒りだ!
拳を強く、固く握りしめる。
視線を正面に戻して奈霧を視界の隅に追いやった。気取られないように深呼吸して心を沈める。
「以前に何かあったのか?」
「何も。でも恋は成就してほしいじゃない」
「それが他者の恋路でもか?」
「うん。これでも、失恋する痛みは知っているつもりだから」
思わず吹き出しかけた。
笑わせてくれる、君がそれを知っているものか。
頬を内側から噛みしめて、万が一にも笑わないように努める。
「恋愛経験が豊富そうだな。何かアドバイスでもしてくれるのか?」
「私にできるのは、恋破れた後のアドバイスだけだよ」
怪訝に思って視線を振る。
蒼穹を仰ぐ瞳は、空とは違う何かを見ている気がした。