第48話 被服部にて
俺は被服室の前で足を止める。
演劇に用いる衣装は被服部の部員に手掛けてもらっている。俺は演劇の主役だ。主役こと『一野悠』は制服を身にまとって通学路を歩き、休日には私服を着用してファミレスでコーヒーを飲む。衣装はいずれも俺が持つ服で代用できる。
他はそうはいかない。文芸部に所属する脚本担当が、心の葛藤を描くために天使と悪魔を用意した。制服や私服を着用した人型なんてただの人だ。視覚的に分かりやすくするためにも、相応に見栄えする衣服を用意する必要がある。
俺はそのアイテムを受け取るべく馳せ参じた。指を軽く曲げてドアを三回小突く。聞き覚えのある声を耳にしてドアの取っ手に指を掛ける。
特別教室特有の香りが匂った。布に混じり、マネキンから頭部と下半身を切り取ったような物体が鎮座している。離れた位置にはミシンが何台も並び、この場は服飾に携わる場なのだと視覚的に訴えてくる。
「いらっしゃい、学年の嫌われ者さん」
作業中だったのか、亜麻色の髪が首の辺りで結われていた。俺は室内を一瞥してから奈霧を正面に据える。
「他の部員は?」
「衣装を持って各教室に行ってるよ。釉くんのクラスにも部員が行ってるはずだけど」
「じゃあ入れ違いになったのか。取りに行くって伝えておいたのに」
二度手間になったことを責めるつもりはない。教室から被服室までには、廊下を歩いて階段を下る労力が掛かる。わざわざ教室まで運んでくれるのはありがたいことだ。自作の服が試着される瞬間を目の当たりにしたい、そんな欲求に抗えなかった可能性には敢えて目をつぶる。
「一応説得はしたんだよ? 支障があったら被服室にいた方が直しやすいし、わざわざ教室まで運ぶのは効率が悪いって」
「入れ違いを考慮して待っててくれたのか?」
「それもあるけど、釉くんに聞きたいことがあって。どうして相談してくれなかったの?」
「小畑さんの件か?」
「うん。私なりにフォローはしたけど、肩身が狭くなることは覚悟しておいてね」
「十分だよ。ありがとう」
じとっとした目に見据えられて、俺は苦々しく口角を上げる。
「弁解になるかどうかは分からないけど、考え無しにやったわけじゃないんだ」
「へえ、じゃあ聞かせてもらおうじゃない。どんな考えがあって泥を被ったのか」
奈霧が体の前で腕を組む。やたらと絵になる立ち姿だ。似合うだろうなぁ眼鏡とスーツ。ここは被服室だし、ちゃちゃっと縫って着てくれないだろうか。
俺は馬鹿な妄想を振り払って口を開く。
「今回の件は、俺が周囲を軽んじたから起きたんだ。嫌われるなら俺であるべきだと思った」
「それで大嫌い宣言したんだね。確かに効果は覿面だったよ。あの人釉くん狙いで有名だったけど、今はお友達と手の平返して悪口を言ってる。この分だと開示請求をするつもりはないんでしょ?」
「ああ」
小さな嘆息が被服室の空気を震わせる。
「短絡的過ぎたんじゃない? せっかく悪評が薄まってきたのに」
「そうかもな。正直惜しいとは思ったけど、けじめとして受け入れることにするよ」
「どうして一人で抱え込むの? 仲直りしたんだから、もっと私を頼ってくれてもいいじゃない」
俺は目をしばたかせる。雑な手法を取ったから怒っていると思ったけど、もしや頼ってもらえなかったから怒っているのだろうか。そういえば菅田先輩にも一度叱られたっけ。
難しいな、人に頼るって。
「奈霧、少し話を聞いてくれ。抽象的な表現になるけど、俺は最近まで一人で生きてきたんだ。そのせいで間違えたし後悔もしたけど、一人でやる手法が体に染み付いて離れない。でも変わりたいとは思ってるんだ。先輩はもちろん、奈霧にも相談できるように努力する。時間が掛かるだろうし、変わる保障もできないけど、長い目で見守ってくれないか?」
気持ちを吐露して栗色の瞳を見据える。
奈霧がおもむろにまばたきして、端正な顔を綻ばせる。
「ありがとう、話してくれて。釉くんは誰かに頼るの苦手だったもんね。いきなり実践しろって言われても無理か」
内心で胸を撫で下ろす。
奈霧に呆れられたらこの後の動きに支障が出る。懸念を乗り越えたことに達成感すらあった。
「先輩、ね。私以外にもそういう人がいたんだ」
奈霧が手元に視線を落として腕を動かす。
何気ないはずの呟きがやたらと耳に残った。俺は話題を探して視線を振り回し、奈霧の手元に注目する。ミシンと黒白の布。シックな色合いに混じるひらひらした甘い輪郭が、俺に一つの衣装を想起させる。
「それはメイド服か?」
「うん、最近形になってきたところなんだ。こういうタイプの服を扱うのは初めてだから楽しいよ」
奈霧の口角が上がる。仕事と言葉にはしても、作業自体は楽しいのだろう。誰かに袖を通してもらうこと、思い描いたデザインを形にできること。他にも服飾にしかない魅力に惹かれている。俺の知らないものに夢中なその姿を見て、微笑ましさと一抹の寂寥感を覚える。
「奈霧のクラスの出し物ってなんだっけ」
「コスプレ喫茶だよ。色んな服を着た店員が応対するの」
「それは愉快そうな企画だな」
コスプレの概念は知っている。アニメや漫画に出るキャラクターを模したアイテムで着飾ることだ。当日は多種多様な衣服で、質素な教室が彩られるに違いない。
「奈霧は何の服を着るんだ?」
「私は着ないよ」
「何で?」
「私は裏方だから。お客さんに出す料理を作るの」
「そう、なのか」
夏祭りでも奈霧の浴衣姿を見れなかった。あの時と似た落胆が気分を沈ませる。でも考えようによっては、奈霧の料理がメニューとして並ぶってことでもある。何を出すのだろう。今から楽しみにしておこう。
「……釉くんは見たいの?」
「何を?」
「だから、私がコスプレしてるところ」
「正直興味はあったな。でも決まったことを言っても仕方ないし、潔く諦めるよ」
「ふーん、そっか」
歯切れが悪い。もしやコスプレ願望があったのだろうか。じゃんけんで負けて裏方になったんだとしたら、表面上は平然としていても落ち込んでいるはずだ。奈霧も着るのかなんて迂闊に聞かなければよかった。
「釉くんのクラスは演劇だよね。題材は何? 注文のあった服は現代チックな物ばかりなんだけど、童話じゃないよね?」
「ああ。オリジナルなんだよ、内容は脚本担当しか知らないんだ」
これは嘘だ。知ってるなんて答えたら、奈霧に内容を教えないといけなくなる。間違いなく怒られる。分かり切っていて素直に吐くほど俺は馬鹿じゃない。
「奈霧は文化祭に誰かと回るのか?」
「ううん、特に決めてないよ」
「だったらさ、時間が合ったら一緒に回らないか?」
「え?」
奈霧が目をしばたかせる。きょとんとされて、背筋に冷たいものが走る。
不自然じゃないはずだ。俺は奈霧の友人。二人で文化祭を楽しんだっておかしくない関係。断られたところで俺達の関係は崩れない。自分に言い聞かせても、左胸の奧から伝わる鼓動が徐々に強くなっていく。
心音が聞こえてしまうんじゃないかと危惧した時、桃色のくちびるが弧を描く。
「いいよ。周りにはまた勘繰られるかもしれないけど、それでもいいなら」
床にへたり込みそうになった。
安堵から一転、ほわほわした感覚に包まれて背を向ける。ここにいると口角が上がってしまいそうだ。やるべきことは終わった、早々にこの場を去るに限る。
「ああ、そうだ。これはお友達から聞いたことなんだけど」
「ん?」
「演劇の題材って私達なんだね」
変な声が出た。。声色は明らかにトーンが下がっていた。端正な顔立ちに浮かぶのは笑顔。ずっと眺めていたいくらい可愛いけど、怖い。
考えろ。ここ最近色んなことがあった。この数か月で人生濃度は多少取り返せたはずだ。こういう時、俺の知る良い人達はどんな言葉を告げていた?
……思い出した。
「お……怒った?」
「怒ってないよー?」
そんなわけもなく、すぐに追いかけっこが始まった。距離が近かったこともあって手首を握られ、他の部員が戻るまでお叱りを受ける羽目になった。