第46話 デマと悪役
早朝。通学路を歩き切って教室に踏み入る。
クラスメイトがざわざわしていた。経験上、彼らが賑わっている時は大抵ろくでもないことが待っている。俺は覚悟をして自分の席に着く。
予想通り人影が寄ってきた。情報は俺も欲しい。黙々と芳樹からの状況説明を受ける。
話題のネタになっていたのは金瀬さん達だった。情報源は俺の異名で盛り上がった匿名サイト。率直に言って風評被害に当たる内容が記されていた。
サイトを遡ってみると、ろくでもない噂自体はかなり前からあった。犯罪者の家族が疎まれるのと同じ事。佐郷と友好関係があったことで、金瀬さん達もそれに近しい類なのではと疑われていたらしい。
ようやく合点がいった。昼休みの食堂で受けた視線が、ずっと心に引っ掛かっていた。あれは俺じゃなくて、佐田さんと尾形さんに向けられたものだったんだ。
記憶を辿ってみると、金瀬さんのグループが俺以外と談笑するところを見たことがない。俺が知らなかっただけで、佐郷が自主退学してからずっと浮いていた可能性もある。
林間学校のボランティアで対面した時、彼らは俺に怒りを覚えなかったのだろうか。もしくはその怒り以上に、俺に排斥される恐怖に怯えていたのだろうか。
本当に俺は未熟だ。自分のことに精一杯で、周りを見ようとしていなかった。これじゃ小学生の頃と何も変わらない。佐郷達のデマが引き金になったのは間違いないけど、俺の奔放さも確かな一つの要因だった。新たなトラブルの火種になっても不思議はなかったのに。
俺が考えを巡らせるのをよそに、先生の言葉が耳から耳へと抜けていく。休み時間には匿名サイトをスクロールして、書き込みの内容を吟味する。
放課後がやってきた。俺はロングホームルームを終えて席を立つ。
「市ヶ谷さん、一緒に行こ!」
小畑さんが歩み寄る。俺は寄りそうになる眉根を定位置に押し留め、顔に微笑を貼り付けて廊下に出る。
「あ……」
廊下で靴音が止まる。振り向いた先で金色の髪が揺れた。いつもの純粋な笑顔は欠片もない。口を引き結んだ表情から一転、整った顔立ちにぎこちない笑みが浮かぶ。
「こんにちは市ヶ谷さん。元気?」
「ああ、元気だよ」
金瀬さんは? なんて問い返しはしない。表情は笑みで飾られているけど、平常心でいられるはずはないんだ。金瀬さんがいつも通りを望んでいるから、俺もそうしているだけに過ぎない。
「これから会議室に行くんだよね? 良かったら一緒に――」
「あのさ!」
声が張り上げられた。俺は金瀬さんから視線を外す。隣でペアの実行委員が金瀬さんを睨む。
「もうそういうのやめてくれない?」
「そういうのって?」
「とぼけないでよ。あんた、この前からずっと市ヶ谷さんに付きまとってるじゃん」
「付きまとってるってひどいなぁ。わたしは――」
「知ってるよ。あんたがやばい奴だってこと」
あどけない顔立ちから笑みが消える。対照的に小畑さんの口端が吊り上がる。
「匿名サイトに書いてあったよ。あんた、パパ活してんでしょ」
「してないよ」
落ち着いた声が返ってきた。真剣な声色に違わず、真面目な視線が小畑さんに向けられる。
場の空気が一気に張り詰めた。隣でクラスメイトが歯を食いしばる。
「そりゃしてないって言うでしょうよ。口だけなら何とでも言えるし」
「書き込みだって何とでも書けるね」
「ハッ、反論のつもり? 火がないところに煙が立たないって知らないの?」
「誰かがドライアイスでも放り投げたんじゃないかな? 昇華した二酸化炭素がドアの隙間から侵入すれば、室内に閉じこもってる人は煙と勘違いしても可笑しくないよね」
例え話。煙に巻く言い方だけど、金瀬さんの言いたいことはよく分かった。
俺も金瀬さんと同意見だ。噂やデマなんていくらでも作り出せるし、両想いの男女を引き裂くこともできる。悪用すれば他者を殺めることも可能だ。言葉が秘める力はそれほどまでに強い。
SNSを使えば匿名で発言できる。だから多くの人は勘違いをする。言葉は誰かを一方的に突くための矛じゃない。声文字問わず悪意は悪意。それらは人々の感情を逆撫でする。迂闊に振り上げれば自らを滅ぼす諸刃の剣だ。
俺は匿名掲示板の書き込みを調べ上げた。開示請求しなくともIDは確認できる。書き込みの上にあるアルファベットが同じなら、該当する書き込みは全て同一の端末から発されている。
言葉は情報。文字も情報だ。一見ばらばらな書き込みでも、かき集めたそれは投稿者の形をしている。
隣にある顔が歪む。
「は? 急にドライアイスとか何言ってんの? 話を逸らそうとしないでくれる?」
「そんなつもりはないよ。理解できないのは、小畑さんの想像力がないからじゃないの?」
「あんたってほんっといちいちムカつく。類は友を呼ぶって本当だね。さすが佐郷と仲良くやってただけはあるよ」
「その人は関係ないでしょ」
ピシャリとした声色だった。
こらえきれなかったとばかりに、小畑さんが失笑する。
「あるよ。まさか気付いてないとでも言うつもり? じゃ教えてあげるけど、あんた周りから疎まれてるよ? あの自己中サイコパス野郎と仲良くやってたくらいだもん。頭のネジの一つや二つ外れてたって可笑しくないし、怖がられたって当然だよね!」
金瀬さんが口元を引き結ぶ。指をぎゅっと丸めて繊細な手を角ばらせる。引っ叩きたいのだろう、適当なことばかり言う嫌な少女を。それでもやらないのは、金瀬さんが自らの立場を理解しているからだ。
噂が本当か嘘かなんて関係ない。いわくつきの人物が問題を起こすと、やっぱり危ない人なんだと認識される。自らの立場を守るためには我慢するしかない。
この場に限った話じゃない。俺達が観測できないだけで、世界のどこかで似たようなことが起こっている。人種問題、加害者の家族を追い込む義憤と偽善。反抗した先にあるのは決め付けと排斥。校舎はまさしく小さな世界だ。
でも俺は知っている。友人のために、不良もびっくりのやばい奴と接触した物好きがいる。そのやばい奴のために奔走してくれた友人もいる。制服を押し込めるこの小さな世界にだって、そういう善意はあった。今度は俺が誰かの善意になる番だ。
決心して口角が上がる。行うのは自分がやってきたことの後始末。それを善意なんて言葉で飾った滑稽さを自分で嘲笑う。
「ひどいな小畑さん。頭のネジが飛んでるだなんて」
「そう? でもこれくらい言ってやらないと分かんないよ」
「いや、もう十分すぎるくらい分かった。確かに、俺の頭のネジは何本か飛んでるよ。でなきゃ放送室に籠城して同級生を破滅させたりしないだろうし」
「……え?」
素っ頓狂な声が漏れた。小畑さんが目をぱちくりさせ、笑い混じりの息を突く。
「いや、何言ってんの? 誰も市ヶ谷さんのことをそんなふうに思ってないって」
「それはおかしいだろう。だって俺は、佐郷の友人だったんだぞ?」
小畑さんがきょとんとして、次の瞬間にハッとする。目を見開いて首を左右に振る。
「ち、違うからね⁉ 私はそういう意味で言ったんじゃないから!」
「じゃあどういう意味なんだ? 加害者の友人は等しく加害者なんだろう? だったら俺も加害者じゃないか」
「何でそういうふうに曲解すんの⁉ 私はそこの女に言ってるのに、何で市ヶ谷さんが反応すんの⁉」
「曲解してるのは俺か? 違うだろう。俺と奈霧の仲を裂いたのは佐郷だ。俺でも、奈霧でも、ましてや金瀬さん達でもない。君達がしていることは、小学校で俺をいじめたクラスメイトと同じだ。醜いんだよ。真偽を探ろうとせず石を投げる奴らも、誹謗中傷を発して陰でほくそ笑む君達も、俺は心底嫌いだ」
俺は小畑さんを睨み付ける。俺より背の低い体がぴくっと震えた。見開かれた目が潤い、溢れた滴が頬を伝う。
腕が目元を隠した。小畑さんが踵を返して廊下を走り去る。
「留美!」
二人の女子が教室から飛び出した。俺に軽蔑の視線を向け、すぐに友人の背中を追いかける。
「あの、市ヶ谷さん……」
俺は腕を伸ばし、戸惑う金瀬さんの手首を握る。
「行こう」
拒否権は行使させない。金瀬さんを連れて下の階を目指す。