第43話 やばい人なのかな
「あ、いたいた! もう、こんな所にいたー!」
下校時刻まで一分を切った頃だった。バッと振り向くと小畑さんが駆け寄ってきていた。表情に浮かぶのは清々しいほどの笑顔。俺がサイレント離脱した理由を察していないのが手に取るように分かる。
「もう下校時刻だし、一緒に帰ろうよ!」
誘われてしまった。
探さなければ。誘いを断れる都合の良い言い訳を。誰からも不自然に思われない絶対無敵の正当性を!
「市ヶ谷さーん! 一緒に帰ろーっ!」
誘いの声がウグイスのごとく奏でられた。
金瀬さんの声。耳にして閃いた。俺は体の向きを変えて腕を上げる。
「は? ちょっと、私が先に声を掛けたんだけど」
俺が金瀬さんに呼び掛けるよりも、小畑さんが抗議する方が早かった。細めた目を金瀬さんに向けている。もはや敵意を隠そうともしていない。
先に誘ったのは小畑さんだ。金瀬さんに抗議したい気持ちは分からなくもないけど、俺はもう自慢話や友人への悪口なんて聞きたくない。
俺は表情を繕って振り向く。
「ごめん小畑さん。実は先日の内に金瀬さんと約束してたんだ」
「あれ、そだっけ?」
華やかな童顔がきょとんと傾げられた。
察して! 金瀬さん察して! 心の内で願っても伝わらず、金瀬さんが目をぱちくりさせて追撃を掛ける。
駄目だ、このままでは嘘がばれてしまう。ここは自分で動かなければ。
「そうだよ。やだなぁ金瀬さん、俺との約束を忘れるなんて」
俺はベンチから腰を上げる。足を前に出し、金瀬さんの手首を握る。
「じゃあ小畑さん、また明日な」
不機嫌そうなクラスメイトを残して離脱する。腑に落ちていない様子の金瀬さんを昇降口で待たせ、俺一人教室まで荷物を取りに戻る。作業中のクラスメイトにお疲れを告げて廊下に出る。
「あれ、釉くん今帰り?」
鼓膜に浸透する声色を聞いて視線を振る。廊下に佇む幼馴染を見つけて、自然と口角が浮き上がる。
「ああ。今帰るところだ」
「私も教室に戻るところなの。よかったら一緒に帰らない?」
「いいよ。じゃあここ……は目立つから昇降口で待ってる」
「うん、じゃあまた後でね」
奈霧が微笑を残して擦れ違う。心なしか足取りが軽い。危ないぞと注意しようか迷ったけど、子供のような笑みを見せられたら何も言えない。
俺は一人昇降口に戻る。金瀬さんがロッカーを背にして、ピンクのスマートフォンをタップしていた。
「お待たせ。奈霧が来るから、もう少し待っててくれ」
「奈霧さんも来るの?」
「ああ」
「ふーん、そっか。分かった」
金瀬さんが視線をスマートフォンに戻して画面をタップする。佇んで奈霧を待っていると、ポケットの中で端末が揺れた。奈霧からのチャットだ。用ができたから先に帰っててと記されている。
「間が悪いな」
呟いてスマートフォンをポケットに戻す。高校生活は始まったばかりだ。一緒に帰る機会はいくらでもあるだろう。俺は気を取り直して金瀬さんに向き直る。
「奈霧は急用ができたみたいだ」
「そうなんだ。じゃあ帰ろっか」
「ああ」
履き物を変えて昇降口を出る。金瀬さんが肩を並べる。
「市ヶ谷さんは、中庭で会ったあの人のこと嫌いなの?」
変な声が出そうになった。
俺は平静に努めて口を開く。
「どうしてそう思ったんだ?」
「だって嘘付いたじゃん。一緒に帰る約束なんてしてなかったよね?」
「ああ。嘘を付いて悪かった」
俺は金瀬さんに向き直って頭を下げる。
「どうして頭を下げるの?」
「自分の都合で金瀬さんを利用した。その侘びだ」
都合のいい結果を引き寄せるために金瀬さんを使った。悪意を持っていたわけじゃないけど、俺は期せずしてあの忌むべき男と似たことをした。拒絶反応じみた自責が泉のごとく湧き上がる。
頬が柔らかいものに挟まれた。俺の意思に反してくいっと視線が上がる。
「よく分かんないけど、とりあえず顔を上げてよ。わたしは別に気にしてない。むしろ市ヶ谷さんの役に立てて嬉しかったくらいなんだから」
「そう言ってもらえると助かるけど」
やっぱり今のままでは駄目だ。先輩方が俺を中庭まで逃がしてくれたように、世の中には優しい嘘もある。そんな嘘にも過剰反応していてはキリがない。
考え方を変えよう。菅田先輩も言っていた。嘘は余計なトラブルを避けるための潤滑油。使う人間が悪いだけで、嘘の概念自体は絶対悪じゃないんだ。
頬をむにむにとこねくり回される。
「……あの」
「なに?」
「そろそろ離してほしいんだけど」
「あ、ごめん。思ったより触り心地良かったからつい」
頬からすべすべした指が離れる。悪びれもない微笑みを見ていると多少の粗相は許せてしまう。本当に得な性分をしている人だ。
「愛故にが頭下げてたね」
「やっぱりやばい人なのかな」
声は小さかった。
されど確実に聞こえた。横目を振った先には二人の女子。俺の視線に気付かないまま校門へと歩を進める。
俺に対する陰口は飽きるほど聞いた。大して珍しくもない。
でも今の会話は違う。『愛故に』は俺を指す言葉だ。後に続いた『やばい人』とは、つまり。
「あっちゃー、聞かれちゃったなぁ」
あどけない顔立ちに苦々しい笑みが浮かぶ。それは答え合わせも同義だった。
「どうして金瀬さんがあんな言われ方をされるんだ?」
「ん、ん~~」
金瀬さんが口元に人差し指を当てる。そんなに言いにくいことなのかと内心身構える。
「内緒!」
眉をひそめていた表情から一転、見慣れた無邪気な笑みが俺の視界を華やがせた。
「内緒って、さすがにそういうわけにもいかないよ。自分で言うのも何だけど、俺はちょっと特別なんだ。何か力になれるかもしれないぞ?」
金瀬さん達とは知り合って間もないけど、やばい人なんて呼称が付く類とは思えない。芳樹以外で友人になれそうな人達だ。困っているなら役に立ちたい。
「力になってくれるの?」
「ああ。俺にできる範囲なら」
「じゃあ理由を聞かないでくれる?」
俺は口を閉じる。
告げられたのは明確な拒絶。予想しなかった返答に思考を拭き散らされた。理由を問おうとしても、向けられる真剣な眼差しがそれを許さない。
きっと言いたくないことなんだ。俺が奈霧との大事な思い出を吹聴しないように、金瀬さんにも秘めておきたいことがあるのだろう。
だったら俺の対応は一つだ。
「分かった。聞かないよ」
整った顔立ちに微笑が戻る。
「ありがと」
金瀬さんがニッと笑んで踵を返す。俺は気を取り直して踏み出し、帰路が分かれるまで普段通りの談笑に努める。
自分からは聞かない。かといって、放って置いていい問題とも思わない。金瀬さんが話したくなるまで待とう。隠し事があっても仲良くできる。今の俺は、身を以ってそれを知っている。